§18 女なら、誰だって惚れる
「俺、要するに自信ないんすよね。何やってもダメだっていう先入観のせいか……」
またしても布田さんが肩を落としていた。でもそれは気落ちしてるんじゃなく、なで肩のせいかもと奈々美は思う。
「ま、そういう人はいますよ。何かにつけて自分を責めるし、何をするにも心配が先に立つし、やたらと周囲の目が気になるクセに他人に褒められても素直に受け取れられない……。挙句の果てに、自分は他人より劣ってるなんて感じちゃう」
「それです。それ、俺です」
「もともと委縮してるから、すぐにパニクる傾向もある。脳も慌てて緊急事態を発令してアドレナリンをドバドバ出すから、興奮状態はさらに加速。そんな状態でトラブルを回避しようとしても、取り返しのつかない二次災害を招くだけ」
布田さんは黙ってビールをあおる。何かあったのか、今日はペースが早かった。
「これは昨日の【完全欲】の話にもつながりますが……気弱な人に足りないものが何かといえば、【自己重要感】です」
「自分を大事にする気持ち、ということですか?」
「そうです。これは野生動物を見ればわかるんだけど、恋愛――つまり種の保存において、美しいメスをゲットするために、オスはまずオス同士の戦いに勝ち抜かなければならない。この絶対の掟がヒトのDNAにも刻み込まれている以上、女性は高嶺の花であり高級品なわけですよ」
「ですね、まさしく」
「その憧れの意識が、自分を卑下する要因にもなる」
「わかるなあ……」
「でも布田さん。動物たちは、臆せずメスにアプローチするでしょう? なぜかといえば、自分がこの世で唯一無二の素晴らしい存在だと信じて疑わないからです。その確信こそが【自己重要感】です。ところが人間は、外見だの収入だのと余計な心配ばかりしてしまう――まったくもって、愚かな生き物だと思いません?」
「でも俺、ルックスよくないし……」
「それは単なる【セルフハンディキャップ】ですよ。テストの前に『ぜんぜん勉強してこなかった』とイミフな煙幕を張るのと同じ、ただの雑念です。ミキちゃんから見れば布田さんは【初頭効果】もいいし、店が隣り合わせてるせいでよく顔を合わせるから【単純接触効果】の機会も多い。これは、何度も見聞きしているものに好感や愛着を抱く心理のことですが、そのうち接触回数が増えれば【熟知性の原理】も作用して自動的に好感度アップもする。どう見たって、あなたは有利なんです」
「なんか……蒼井さんの話を聞いてると、その気になってきます」
「いずれにせよ、布田さんは無敵です」
「俺、この引っ込み思案の性格を直せますかね?」
「逆に聞きますけど、布田さんは引っ込み思案なんですか?」
「ええ、まあ……」
「そういう嘘はダメですよ。引っ込み思案な人が、資金を工面して人を雇って古着屋を開店したりできますか? テキトーなことしか言わない銀行屋とか計理士と丁々発止にやり合ったりできますか?」
「それはやってますけど……」
「そもそも人には、いろいろな側面がある。自己評価では『凝り性』だと言ってる人の部屋がひたすら乱雑だったり、『飽きっぽい』と思ってる人が何年も同じ朝食を食べてたりする。『真面目でおとなしい』と自負してる人が運転すると途端に乱暴になったり、異性関係にだらしなかったりもする」
部屋が乱雑? それって、もしかして妙子がバラした?
――だとしたら、殺す。ジャージのことまで言ってたりしたら、迷いなく殺す。
「いますね……そういう人」
「人は生まれつき、他者と対等でありたいと無意識に願っています。劣等という位置、つまりマイナスからスタートしてプラスに転じようとする行為を【補償】と呼びますが、これこそがヒトの営みの本質だといってもいい。あなたが、ミキちゃんという素敵なメスをゲットしようとするのは本能だから、【セルフハンディキャップ】なんか気にしてる場合じゃないんです」
「俺……ミキちゃんに、悪い印象はもたれてないでしょうか」
「大丈夫。人には、いくつもの情報を与えられると最新の情報に意見が左右されがちになる【親近効果】という性質があります。仮に悪い印象があったとしても、いい情報に上書きすることは可能だから、いくらでも挽回できますよ」
レトリック。
言い回しの妙。
一瞬にして相手を説得してしまう話術は、まさに竹早憧夢の流麗な文体そのもの。
力哉の部屋にあった『
でも、読ませてはもらえない――。
「なんだか力が湧いてきましたよ」
「ともかく、彼女と何度も接触する機会をもつこと。どんな内容でもいいから、ことあるごとに言葉を交わせばいい。そうやって毎日一センチずつ近づいていけば、一ヵ月で三十センチ。こうやって、わりとたやすい達成を少しずつ積み重ねていく【スモール・ステップの法則】は、何かに成功するのに最も手堅い方法でもあります」
「蒼井さん。俺、変われますかね」
「ていうか、すでに変わってるじゃないですか。引っ込み思案を自認するあなたが、自分の秘めた思いを包み隠さず開示して、こうやって相談までしてるんだから」
*
「妙子!」
顔を見るなり、全力で抗議するつもりだった。
「どしたの? 怖い顔して」
「私の部屋が汚いって蒼井さんに言ったでしょ!」
「あ……」
「んもう! あ、とか言ってる場合じゃないでしょうに!」
「言ってない言ってない!」
「ウソつかないでよ!」
クッションを投げつけようとすると、妙子は部屋中を走って逃げ回る。
「わかった!」
「何が!」
「わかったから、ストップストップ!」
「言ったって認めなさいっ!」
「……んと」
「認める?」
「……言ったかも」
「ほらもう! 恥ずかしいのにぃ!」
覆水は盆に返らず。
交渉の末、奈々美は缶ビール二本で許してやることにした。
「で、昨日はどこで何してたの? 蒼井さんと」
「それが、リッキーってね……」
――リ?
リリリ……リッキー?
奈々美もまだ「蒼井さん」なのに、妙子はいきなり二階級特進して「リッキー」と呼んだ。竹早憧夢ファンだったら「タッキー」とかいう可能性もあったのに、リッキーだったのは謎だけど。
「彼、奈々美が言ってたのとぜんぜんイメージ違うじゃん。毒舌じゃなかったし、根っから優しいし」
「てか、なんでリッキー?」
「特に意味ないよ。私が勝手にそう呼ぶことにしただけ」
通常、アディショナルタイムは十一時頃にお開きになる。その後は何をしてたのか、即刻口を割らせなければ――。
でも、そこは直球を投げてもいい間柄。
「妙子は、あの人と朝までふたりだったの?」
「うん。目的なしに走ろうって言ってドライブに行って外房まで走って、ドライブインでまずいコーヒー飲んで……。そしたら、いつの間にかスヤスヤと寝ちゃっててさ」
「その後はどうしたのよ?」
「しばらく寝顔を見てたけど、私もつられて寝てた」
ひと安心。悪魔とセクシーダイナマイトが一緒にいたという超絶危険な状況だったのに、そういう方面の進展はなかったらしい。
「そうだったんだ」
「でも、あれはズルい」
「何が」
「あの寝顔だよ。女心はくすぐられるわ母性本能のスイッチは入るわで、たまんなかった。でもね――」
「うん」
「彼、ずっと目の奥に深い憂いを秘めてたんだよね。なんだか寂しそうに」
「逆でしょ。この二日ぐらいは妙に饒舌だったし」
「そっかなあ?」
「そうだよ」
「どっちにしても、あんなの見せられたらさ」
「?」
「女なら、誰だって惚れる。間違いなく惚れる」
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