§28 誰かの心に響くかどうかだけなんだから

 妙子は大学時代から、奈々美は中学時代から。


 執筆歴から最近の動向まで、ひとしきり話し込んだ。互いに読んだことのある作品の批評も言い合った。妙子は雨西真湖こと奈々美の作品を、奈々美は湖東ななこと妙子の作品を認めていた。


「じゃあ、こないだ蒼井さんがここに来てたときは何してたの?」

「あー、あれか。あれは正直、作品のアドバイスしてもらおうと画策してみたんだけどね――」


 話しつつ、妙子は処置なしといった表情で首を左右に振る。


「きっぱりと拒否られた。読んでもくれなかった」

「実は、私も断られた」


 蒼井力哉の……竹早憧夢の壁は高かった。アドバイスしてもらって、執筆の行き詰まりを打開できるかと思った。でも、そんな小手先のことで傑作が書き上がるはずもないと思い知らされた。考えが甘かった。


「この部屋に連れ込むことには成功したんだけどなあ……。でも小説の話にはぜんぜん乗ってきてくれなくて、ワインとか料理の話ばっかりでさ」


「あの人、飲めないくせに詳しいんだよね」

「ちょっと悩みごとの相談もした。私、わりと抱え込んじゃうタイプだから、性格を変えることはできないだろうかって」


「それも得意分野だ」

「そしたら、【ルシファー効果】の話をしてくれて、スッキリしたよ」


 普段は真面目で実直な人が、ときには悪魔にも変わるという心理学用語。被験者を監獄に集めて看守役と囚人役に分けて過ごさせたところ、すぐに看守役は看守らしく、囚人役は囚人らしい行動を取るようになったという実験から生まれた言葉だったはずだ。


「といいつつ、朝まで一緒だったんでしょ?」

「あ」


「ん?」

「さては奈々美、私がリッキーと何かあったと思ってる?」


 ――当たり前でしょ。


「そりゃまあ……」

「はははは! 確かに、そう思われるかもだけどさ」


「違うの?」

「そんな気配ゼロ。色気ナッシングだった」


「ホントに?」

「だって彼、長居しないですぐ帰ったし。奈々美が帰ってこなかったから、知らないだけでしょ」


 そうだった。

 あの日、玄関に赤いヒモの靴があった。それを見てショックで飛び出して漣のアパートに行ったら、深雪さんがいて――。


「だいたいさあ……リッキーは超売れっ子作家なわけよ。有名人よ。お金持ちよ。タチの悪い女が近寄ってくるのをバリバリに警戒してて当然なのよ。その堅牢な城郭に私ごときが乗り込んだって、蹴散らされておしまいだよ」


「てっきり、妙子は蒼井さんを攻略したのかと思ってた」

「私が? しないしない。リッキーが超優良物件なのは確かだけど、私なんかとは別世界」


 妙子はモテる。

 セクシーダイナマイトで女子力抜群で、頭の回転が速くて会話も面白い。


「そんなことないんじゃない?」

「まあ、恋は感情のほとばしりであって、身をよじるほどたまらない快感も得られるもの。気のせいでも錯覚でもひとりよがりでも、恋愛は恋愛」


「いきなり詩的になったぞ」

「私だって、いつも心のなかじゃ『恋の神様、カモ――――ン!』ぐらいの気持ちではいるんだよ。誰かを本気で好きになりたいし、好きになってもらいたい。だけど冷静に考えると、恋愛ってそれだけじゃないと思うわけ。『好き』の上にある『通じ合う感じ』に到達したいっていうかさ」


 最初にルームシェアを提案したのは、妙子だった。

 よっぽどの例外事項と緊急事態を除いて、男を招き入れるのは禁止というルールを言い出したのも妙子だった。


 その理由を考えてみたこともなかったけど、今になって納得できた気がする。


 こんなにモテるのに、いやモテるからこそ妙子は恋愛に慎重なのだ。もっといえば臆病なのだ。だから自らルームメイトという足かせを設けることで、男の足を遠のける障壁にしたのだ――。


「でも、あのときリッキーはずっと奈々美のことばっか気にしてたよ? 『まだ帰ってこないね』って三回ぐらい言ってたし」


「まさか、私の部屋を見せたりしてないよね?」

「……とも思ったけど」


「妙子!」

「ははは。そんなことしてないよ」


「妙子が裏切るわけないと思うけどさ」

「でもね」


「なによ。その不穏な顔は」

「私がちょっと買い出しに行った瞬間とかに、リッキーが謎の動きでもしていれば私の知るところではない」


「うっそー!」

「わかんないよ? 見てたわけじゃないんだし」


「うぅぅ。だとしたら、立ち直れないかも」

「じゃあ、死ぬ?」


「やだ」

「蒼穹社文学新人賞。奈々美も出すんでしょ?」


「それは死んでも出す」

「だったら、ふたりで一緒に頑張ろうよ。さっきの【ルシファー効果】みたいに、自分たちをプロ作家だと思い込んで書けば、傑作ができるかもだし」


「それなんだけどさ……」

「ん?」


「私、後から書き始めた恋愛ものが進んでるって言ったでしょ?」

「知ってる」


「それ、主人公のモデルは妙子なんだよ」


          *


「おい妹」


 まどろみの向こうから声がした。


「起きられそうなら起きろ」


 奈々美が目を開けると、そこに悪魔がいた。


「リリさん特製の玉子スープ、持ってきたぞ」


 ――ひええええ!


 ――悪魔が、悪魔が、自分の部屋にいる!


「ななな、なんで蒼井さんが?」

「見りゃわかるだろ。病人の世話しに来た。鍵はリリさんに借りた。はい口開けて」


 と、体温計を突っ込んでくる。


「こないだの俺の風邪が移ったらしいな。これは使い回しだけど、冷たくて気持ちいいぞ。ほら」


 頭の下に手を入れて、氷枕を置いてくれる。


「すい……ません」

「汗はかいてないか? 下着、着替えさせてやろうか?」


「そんな! いいですいいです!」


 布団を体の下に巻き込んでイモムシ状になって、顔も半分まで隠した。悪魔は、そこを覗き込んでくる。


「なに照れてんだ。冗談に決まってるだろ」

「それ、あかんタイプの冗談ですよ」


「ところで俺、決心したぞ」

「?」


「俺はこれまで、トークショーもサイン会も経験がない。だから、直接ファンの声というものを聞いたことがなかった。ところが、先日ひとりのファンがいろいろ話してくれてな……『恋する心理学』の第十巻を出すことにした。詳しいことは内緒にしておくが、エンディングは新たなDパターンだ」


「サヤカちゃん……殺してませんよね?」

「心配するな。サヤカも仁上も元気だ」


 安心したところに、ピピピ……という音。悪魔はごく自然に体温計を取り上げる。


「三十八度三分。今日はバイトも休め」

「すいません……」


「それにしても――」

「?」


「この部屋のカオスっぷりは、想像以上だった」

「そんな! ダメですよ見ないでください!」


「そっかあ?」

「ダメですっ!」


「人間味があって、いい部屋だと思うぞ。俺は」


          *


 ときどき連絡は取り合っていたけど、漣とはしばらく会わずにいた。久しぶりに会っても、前と何も変わらなかった。


「何日か更新されない日があったから……実はハラハラしてた」


 三月三十一日。近くの公園にある桜は満開だった。


「結局、最初に予定してたのとは違う作品になっちゃったんだけどね」


「関係ないよ。音楽だって小説だって、誰かの心に響くかどうかだけなんだから」


 漣は、バンドに加わる話を断っていた。「バンドも楽しそうだけど、揉めごとが起きるのも嫌だし」というのが理由だった。漣を誘った田立さんという人は、ピエリスレコードを辞めてプロダクションを設立しようとしていたこともわかった。


「そうだね」


 ――誰かの心に響くかどうか。


 奈々美は、書き上げた作品に満足できていた。


 ――ひとりの読者のために書け。


 竹早憧夢のアドバイスを守って書いた。それが功を奏した。


「今日、漣の書類審査の発表だよね? いい連絡、来るといいね」

「うん」


 漣がゆっくりと漕いでいるブランコが、キイ、と軋んだ。

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