§27 そんな恥ずかしいことはしないもん
「そもそもスランプってのはプロが陥るものであって、アマチュアにはあり得ない」
執筆の相談をしたとき、悪魔が吐いた台詞はそれだけだった。
「ま、これは有名なプロゴルファーの誰かが言った言葉らしいけどな。本人もプロゴルファーの栞さんが教えてくれたんだから、間違いないだろう」
冒頭だけでも作品を読んでくださいと頼んだときには、未完成のものを批評することほど下らない行為はないと一蹴された。
「お前が書いてるのはミステリーなんだろ? 仮にアタマの一万字か二万字を読んだとして、せいぜい死体が転がって身元が判明して、おもむろに探偵役が登場したあたりまでじゃないか。それを講評しようったって、どだい無理な話だ」
「それはそう……ですよね……」
「さっきの話に戻れば、『恋する心理学』の第十巻。ラストがABC三パターンのどれであるかによって、お前の感想も読後感も大きく異なるわけだ。仮にCだとしたらお前は極限まではらわたを煮えくり返らせて、徹底的にけちょんけちょんのレビューをアマゾンに書き込みたくなるだろう?」
おっしゃるとおりだった。
*
「この四年間、何を書いてたんですか? それこそスランプだったんですか?」
と聞いたときには、悪魔はゆっくりと首を横に振った。
「俺はもともと、ものすごく強く願って作家になった人間じゃない。ある日ふと思いついた設定があって、なんとなく書き始めたら物語の形になって、それをしつこく書き直したら小説らしきものになった。そのままの勢いでネットで見つけた蒼穹社文学新人賞に出したら、どういうわけか大賞をもらえた。担当の編集者が徹底的に磨き込んでくれて本になったら、信じられないほど売れた。運に恵まれただけの、ただのラッキーマンなんだ」
「運だけじゃないですよ」
「だから、いつ作家をやめてもいいと思ってる」
「それはダメです。また却下です」
「でも、俺の基本的な考え方はそうなんだ」
「ダメです。久能奈々美という読者が泣きます」
「編集部との食い違いや出版社への不信、三年前に親父が突然死んだこと――。もろもろもあったがな」
いつもの早口。でも鼻声。
力哉は、ときどきティッシュを使いながら話し続ける。
「じゃあ、まったく書かなかったんですか?」
「俺が作家を続けるとしたら、徹底的な欠落がある。それを埋める行為はしていた」
「……?」
「インプットだよ。時間だけは余裕があったから、ドラマや映画を見まくって本も読み漁った。映画だけで、五百本以上は見たと思う」
途方もない数。奈々美の一生分より、はるかに多かった。
「あの……書くほうは?」
「長編が三本、完璧な形で仕上がってる。うち二作は連続していて、ちょっとしたタイムリープが起きるSFもの。ま、わりと重めのヒューマンドラマでもある」
「うわあ! それ、読みたいです」
「合わせて七十万字もあるぞ?」
「読み応えがあるじゃないですか」
「でもな……お前も知ってるとおり、出版業界における竹早憧夢というのはユーモアミステリーの書き手なんだよ。『アイ・ニード・ニート』以下三つの作品が商業的にコケたことでも証明済みさ」
「私は好きですけど……」
「でも、いくら内容が優れていようが画期的だろうが、数字が稼げなきゃ商品価値もゼロ。そういう世界だよ」
シビアなプロの世界。奈々美は、その一端を感じた。
「あの……もうひとつの作品は?」
「ジャンル分けするなら、恋愛ものに入るタイプのストーリーかな? 三組六人の男女がビミョーに関わり合って進んでいく話で、自分としちゃ面白いと思ってる」
「聞いただけでワクワクします」
「お前、さっきから何でも面白がってないか?」
「だって、日本一の竹早憧夢ファンですから」
「それなら――」
力哉は何かを思い立ったように立ち上がる。書斎からリビングに戻ってきたときには、分厚い原稿の束をふたつ持っていた。
「今日、お前はバイトを休め」
「はい?」
「オロールがいるから、麻紀さんとふたりでホールはなんとかなる。ここにいて、弱った病人の世話をしろ。しかし、ただいるだけじゃヒマを持て余すだろうから、これを読ませてやる」
手渡された原稿は、ずっしりと重かった。
「ドラマか漫画の原作になるものをと思って書いてみた作品だ。片方は通常の小説バージョン、もう片方はシナリオ形式で書いてある。これを二十代の女性が読んだらどう感じるものなのかを知りたい。――読んでくれるか?」
「はい。喜んで!」
*
奈々美は打ちのめされていた。
すべてのシーンで、登場人物たちが見事に動いていた。というより生きていた。感情が
十五万字の小説を読み終えるまでに、何度泣いたかわからない。その後で読んだシナリオバージョンのほうは、同じ物語が別の生命を吹き込まれたかのように書き換えられていて、新たな感動を覚えずにはいられなかった。
――やっぱり、作家・竹早憧夢は私の
部屋に戻ってパソコンを立ち上げると、奈々美がつくる物語も跳ねるように動き始めた。
〔ひと足先に、応募作を第三話までアップしてみました。少しずつ更新していきますので、雨西さんもぜひ読んでくださいね!〕
ツイッターには、湖東ななさんからメッセージが届いていた。
〔わかりました! すぐ読みます!〕
と返事して、急いで『ブンガクの種』を開く。恋愛ものを得意とする湖東さんの新作は、『サクラチル、サクラサク』。素敵なタイトルだと思った。
――でも。
読み始めてすぐに、目を見張った。
――こ!
――ここここ、これは!
冒頭は、二十六歳の女性主人公がパワハラ上司とソリが合わずに会社に辞表をたたきつけるシーン。彼女は家に帰ると即座に服を脱ぎ、冷蔵庫の前に立ったまま缶ビールを「ぷはーっ!」とイッキ。着るのは高校の学校名が刺繍された年季ものジャージで、邪魔な前髪をダブルクリップで留めるとネットゲームにいそしむ……。
――彼女の名前は、
――って、これ私じゃないかっ!
そこで奈々美の脳裏に稲妻が走った。記憶が甦った。
「浜松って、東が天竜川で西が浜名湖。北が山で南が海っていう立地だから、全部そろってるのよね」
奈々美は、その言葉を言った本人の部屋をノックした。
「妙子、入るよ!」
机でパソコンに向かっていた妙子が振り返る。
「どうしたどうした、そんなに慌てて」
「妙子は浜松出身だよね?」
「うん。音楽の街ね」
「もしかして、実家は浜名湖の近く?」
「もろに近い」
「なら、湖の東ってことだよね?」
「そうだけど……って、奈々美どうしたの?」
「それで湖東。親友の名前から『なな』を取って湖東なな」
「……え?」
「湖東ななは、妙子でしょ」
「えーっ! じゃあ?」
「私が雨西真湖だよ」
「……マジ?」
「マジもマジ。大マジだよ。今『サクラチル、サクラサク』を読んだけど、あれはどういうことよ!」
「……あ」
「『あ』とか言ってる場合じゃないでしょーに。あの工藤七理っていう主人公、まんま久能奈々美とそっくりじゃん! 高校時代のジャージ穿いてるし、帰ったらすぐに缶ビール飲むし」
「白状する。確かに、奈々美をモデルにした」
「ダメだよ」
「ごめん。今からでも、名前ぐらい変更しようか?」
「私は冷蔵庫の前で缶ビールは飲むけど、さすがにダブルクリックで前髪を留めるなんて……そんな恥ずかしいことはしないもん」
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