§16 一瞬だけ激しく光った

 うれしそうに手を振る佐倉さんを見送って部屋に入ると、そこは雪国かと思うほど底冷えしていた。


 人の気配がない。息遣いがない。もう何時間も、空気が固定されたまま動いていなかった感じ――。妙子は、まだ帰っていなかった。


 ヨロヨロと脚を引きずりながら、整頓されたリビングを抜ける。世界で一番落ち着ける自室に到着すると、暗闇でもわかる位置に置いてあるリモコンを手探り。ピッ、という反応音とともに、エアコンが静かに動き始める。


 膝がテープで固定されて動きにくい状態の着替えを手伝ってもらおうと思ったのに肩すかしを食らったような気分で、奈々美は伝家の宝刀・高校名の刺繍入りジャージにはき替える。


 卒業のとき、クラスメートの五人に頼み込んで譲り受けたから全部で六本あるうちの二号くん――お尻に穴が開きかけたやつ――に縫い込まれた名前は吉村。元の持ち主だった吉村よしむらなんは今、地元で歯科衛生士になってるはずだ。


 冷蔵庫から缶ビール。恒例の「ぷはーっ!」を済ませて自室に戻ると、妙子からのLINEが入っていた。


〔せっかく来たのに、奈々美いないじゃん〕


 入れ違い。妙子は『ムーンウェイブ』にいた。


〔転んでケガしちゃってさ〕

〔一緒に帰った男、連れ込んでもいいよ〕


 誰かに聞いたらしい。この話を知ってるということは、まぎれもなく、嘘でもなく、妙子は確かに『ムーンウェイブ』にいる。


〔まさか。もう帰ったよ〕

〔なーんだ〕


〔彼、そういう子じゃない〕

〔じゃ、私はちょっと食べて飲んでから帰るね〕


〔ごゆっくり〕とレスして、奈々美はパソコンをち上げた。蒼穹社文学新人賞に出すための長編が、頓挫スタックしかかっていた。


 物語は、全部で十万字を見込んでいた。五万字ずつの前編と後編で起きるふたつの事件が、やがて絡み合って解決するストーリーになる予定――だが、後半の展開がどうにも冴えなかった。


 前半はいい。プロットも完成している。およそ半分にあたる二万五千字に関しては、いい流れで書けていると思っている。


 でも。


 後半へのつながりと、後半の構成そのものに難儀していた。


 何かが足りない。でも、その「何か」がわからなかった。


 ――と、スマホが震えた。今度は、漣からのLINEだった。


〔明日の午前中、バイトの前に時間ある?〕


 すぐにレスする。


〔あるけど、何?〕

〔一緒に行ってほしいとこがある〕


〔どこ?〕

〔郵便局〕


〔何しに?〕


 と返しそうとしたけど、奈々美は入力をやめて通話に切り替えた。漣は、間髪を置かずにピックアップした。


「あれ? 今日はバイトじゃなかったの?」

「行ってたけど、ケガしちゃって帰ってきた」


「ケガ? ダイジョブ?」

「うん。転んで、膝のすり傷。そこそこ血が出た」


「うわー。痛そうだ……」

「でもない。打ち身もあったから、ちょっと腫れてるけど」


「なら、歩けないか……」

「ヘーキだよ。そんで、郵便局に何しに行くの?」


「送るんだよ」

「何を?」


「忘れたの? オーデションのCDを送る日」

「そっか。今日……」


 奈々美は、パソコンの画面に目をやる。


 2018/01/31


 という日付が、右隅にくっきりと見えた。


「明日は二月一日。受けつけ開始の日だから、奈々美にも一緒に……って思って」

「そだね」


「だって、奈々美は俺のプロデューサーなんだから」


          *


「じゃ、よろしくお願いします!」


 郵便局のカウンターに向かって、ふたりで並んで手を合わせる。応募のCDを聴いてくれる誰かに向かって祈ったつもりが、局員のお姉さんに驚かれていた。


「何か……大事なお荷物なんですね?」


 自分が拝まれたと勘違いしてしまったらしく、銀縁眼鏡の奥で目をパチクリさせる姿がかわいかった。


「はい! とっても大事です! オーディションなんです!」


 思わず駆け寄って説明すると、漣はなぜか冷静だった。


「いつ届きますか?」

「都内ですから……明日には間違いなく」


          *


「ていうか、奈々美は書けてるの? 新人賞の原稿」


 カフェで高いスツールに座るとき、漣は自然と手を貸してくれた。歩くのは大変だろうと、自転車に乗ってきて後ろに乗せてくれた。そういうところに、この弦巻漣という人の優しさがにじみ出てると思う。


「今日、応募の初日でしょ? 初回分の原稿ぐらいアップしないと、俺との約束違反だよ?」


 テーブルに頬をつけて、子どもみたいな目で覗き込んでくる。窓際の席で、ちょうど日光が当たった金髪が鮮やかに輝いていた。


「上げようと思ったらできるけど、もうちょっとまとまってからにしよっかなーって」

「……で、どこまで書けたのさ?」


 問い詰められると、正直に吐くしかなかった。後半のプロットがうまく煮詰まってくれないせいで、前半の執筆も進んでいないのだ、と。


「前に下書きを読ませてもらったときから、あんまり進んでない?」

「うん」


「犯人の造形を書き直すって言ってたのも、進んでない?」

「うん」


「奈々美、それさあ……やばくない?」

「でも、慌ててもしょうがないじゃん。いいのを仕上げたいと思ってるだけだし」


 ここで、漣は何かを思いついたように体を起こした。わりと唐突に、不思議なタイミングで自由に動く感じが、どことなく子どもっぽくもある。この無邪気さとイケメンとのバランスが、漣の攻撃力の高さだとも思う。


「ま、まだ時間はたっぷりあるけどね。締め切りは来月末なんだから」

「そうだよ。心配しなくてヘーキヘーキ」


 天真爛漫。


 漣を形容する言葉として、これほど相応ふさわしいものはない。


「あのさ、漣は創作に行き詰ったときって、どうしてる?」

「俺、あんまり悩まないんだよね。無理しないし」


「じゃあ、書こうと思った歌詞がうまく書けなかったら?」

「放置して、違う曲のこと考えるかな」


「歌詞って、文字数が少ないぶん大変だよね」

「でもメロディーは一回作ればいいけど、歌詞は三番まであるからなあ……」


「それが歌でしょ」

「でも、奈々美がいろいろ教えてくれたから、少しは上手になってきたよ。同じ言葉を何度も使うなとか、抜いてもいい主語は抜いちゃえとか」


「そのぶん、ほかの言葉を使えば表現が豊かになるしね」

「いろいろチェックもしてくれたし。感謝してる」


「……素直でよろしい」

「だから、次は俺の番」


「?」

「奈々美の応募用の新作ができるまで、横で見張ってる係。俺、やる」


「鬼教官はやめてよね」

「ダメだよ。サボったら……殺す」


 漣が前に言っていた。


 ――いい教師は、生徒に正解を与えない。道や方向性だけ示してやって、その先の選択は生徒に託すものなんだ、と。


「でもさあ、やっぱ奈々美は恋したほうがいいよね。『色恋は芸の肥やし』みたいな言葉もあるし、ある意味ホントのことだし、心理描写もしやすくなるでしょ?」


「そこか……」

「うん、そこ。こないだの真弘くんは初回のデートで飛び散ったし、その前の人もわけわかんないまま終了したし。奈々美の恋は、いつもリングに上がる前にノックアウトされてるみたいだよ」


「実はさ……」

「ん?」


「昨日、コクられてさ……」

「また新しい男?」


「コクられたっていうか、カラオケ誘われただけなんだけどね」


 そう言った漣の目が、何かを言おうとしていた。一瞬だけ激しく光ったと思ったら、すぐに静かな波が打ち消した。それがどういう意味なのか、奈々美にはわからなかった。


「歌なら、俺のほうが絶対うまいのに」


 奈々美はふと思い出す。


 昨夜、妙子が帰ってこなかったことを。

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