§15 【初頭効果】は悪くない
「大丈夫ですか!」
佐倉さんの声が聞こえた。でも、トンネルの向こう側から聞こえてくるような、おぼろげな感覚だった。
「いっ……ててて……」
両膝に激痛。
思わず、体をひねって寝っ転がる。天井が見えたけど、目の焦点が合わなかった。
「ごめんなさい。僕のせいで……」
見ると、両膝ともチノパンが破れて血がにじんでいた。
この建物は、築四十年以上。『ムーンウェイブ』の歴史も、同じく四十年以上。以前は美しく光っていただろう木張りの床は、そこら中がハゲてささくれ立っている。
「おう、佐倉くん。突っ立ってないで、そこの椅子、こっち持ってきてくれ」
武藤さんの怪力で軽々とお姫様抱っこされて、椅子に座った。生温かい血がひと筋、
「ったく、慌てん坊なんだから……」
薬箱を持った姉の凛々子が、キッチンから出てきた。コックコートを脱いで私服に着替えている。
「いえ、僕が鞄を引っかけちゃったからなんです。奈々美さんは悪くないです」
すかさず、青ざめた表情の佐倉さんが弁明してくれる。でも姉は、
「おケガはないですか?」
と、佐倉さんのほうを気遣った。レストランなんだから、お客さんファーストなのはしょうがない。
「ただの擦り傷だけど、そこそこ深いね」
力哉もしゃがんで傷口を覗き込む。そして姉に、「こういう傷も湿潤療法でいい?」と聞いた。
「そうなんですけど、時間が……」
腕時計に目をやった姉には今日、ほかのレストランシェフとの会合がある。そのせいで、いつもより濃い目のメイクをして服装もおしゃれに決まっている。
「いいですよ。後はやるから、リリさんは行ってください」
「何だい、その湿潤療法ってのは」
武藤さんが興味深そうに聞いた。
「キズの治療法です。料理人にヤケドはつきものなので、それで治すんです」
「どうやんの?」
「傷口を水洗いして汚れを流して、あとはワセリンを塗ってキッチンラップで覆ってテープで止めるだけ。それが仮の皮膚みたいな役割になって、傷口の自然治癒を促します」
「消毒しないの?」
「消毒すると、悪い菌だけじゃなくいい菌も殺しちゃう。それが、皮膚組織の再生を阻害しちゃうんですよ」
姉が武藤さんに答えてる間、鋏を持ってきた力哉はジョキジョキとチノパンを切っていく。あっという間に、膝上までのショートパンツみたいになった。
「痛い? 歩けそう?」
「何とかなると思うけど……まだ、ちょっと痛い」
何を思ったか、姉が周囲を見回して言う。
「どなたか、この子を送っていってくれませんか?」
「俺が車出してやりたいとこだけど、酒飲んじゃったからな……」
武藤さんが残念がると、佐倉さんが名乗り出る。
「僕が送ります。原因をつくったの、僕ですから」
「じゃあ、お願いします。この子、野方で友達とルームシェアしてるんですけど、歩くと二十分ぐらいかかっちゃうんです。だからタクシー使ってください」
そう言うと、姉は佐倉さんにお金を渡した。わざわざ、友達とルームシェアしてるとつけ加えたのは、暗に送り狼にはさせないぞという厳重な注意書きでもあった。姉らしい言い回しだった。
そして姉は会合に向かい、奈々美は武藤さんに支えられて水道で傷口を洗った。あとは力哉が処置してくれた。
「社長。前から言おうと思ってたんだけど、そろそろ床の張り替えしたほうがいいかもな。あちこち剥げてるし、工務店なら紹介するから」
「あ、それ。ぜひお願いします」
「了解」
「よし。テープも貼ったし、処置は終了っと」
「ありがとうございます」
奈々美が言ったお礼をスルーして、力哉はみんなに言う。
「えーと、さっき【イップス】の話をしましたけど……栞さんがいるときには、絶対にこの話をしないようにしてくれますか」
――アディショナルタイムの常連メンバーの代表格である、プロゴルファーの栞さんのことだった。
「社長。それ、どういう意味だい?」
「彼女も【イップス】に悩んでるからです」
「マジか」
「はい。彼女は高校生のときにナショナルチーム入りして、大学生のときにプロテストに合格したほどの人なんです。翌年にはツアーでも優勝して順風満帆だったのに、プロ三年目で【イップス】になっちゃったんですよ」
「で、成績もガタ落ち?」
力哉はうなずく。これまで見たこともない真剣な目で。
「そんなすげえ人が、今は高円寺で素人相手にレッスンしてるってか? もったいねえなあ……」
「ともかく、皆さんは彼女の前でこの話をしないようお願いします。【イップス】という単語を口にするのも厳禁、ということで」
*
タクシーは、すぐにつかまった。
歩けば二十分かかる距離も、タクシーなら三分だった。
「ここです」
このままタクシーに乗って帰ってと言っても、佐倉さんは聞き入れなかった。そして三階の部屋まで、支えて歩いてくれた。
「まだ痛みます?」
「いえ。もうほとんど……」
玄関の前で鍵を出そうとしていたとき、佐倉さんは唐突に話題を変えた。妙にモジモジしていた。
「こないだ布田さんの恋愛相談をしてたとき、ボーリングやカラオケはいいって話になりましたよね?」
「カラオケは、佐倉さんの意見でしたよね」
「あの……奈々美さん。いきなりですけど、僕とカラオケに行きませんか」
「は?」
おかげで、鍵穴に差し込もうとしていたキーが滑る。
「気分を害したらすいません。でもあの……僕、こないだから奈々美さんが気になっちゃってて……」
「私が……ですか?」
「誤解させちゃったらすいません。ここ何日か、あそこで一緒にいるうち……その……かわいい人だなって思っちゃって、お近づきになれたらいいかな、なんて」
「でも私たち、あんまり話してませんよね?」
「余計なこと言っちゃってすいません。あの、だからこそのカラオケで……あ、でも、いきなりデートとかそんなんじゃなくて、ただ一緒に……ダメですか? ダメですよね?」
「三回」
「え?」
「佐倉さん、たった短時間のうちに三回も『すいません』って言いましたよ?」
「すいません」
「ほら。四回目」
「あ……」
「あの、ひとつマジレスしてもいいですか?」
「はい……どうぞ」
「私……つい先日、ある男性と別れたばかりで」
「知ってます。ていうか聞きました」
「どうも、恋愛が上手じゃないみたいなんですよね。ルームメイトには『恋愛虚弱体質』とか『恋愛アレルギー』とか、言いたいこと言われちゃってますし……」
「それは厳しい意見ですね」
「でも、彼女は恋愛のプロフェッショナルというか、要するにモテるんで反論できないんですけど」
「僕とは正反対の人っぽいです」
「何が?」
「僕はモテなくて……女の子とうまく接することができないというか……」
「佐倉さん、彼女さんは?」
「いません。できた経験も……」
「なし?」
「はい」
「大丈夫。佐倉さんなら、きっと誰か見つかりますよ」
「ですかね……」
「と言いつつ、私も今すぐ恋愛どうこうっていう気分になれなくて、人にアドバイスしてる場合じゃないんですけど」
「わかりました。あ、いえ、無理しなくていいんで、ホントに」
そんなに明るくない廊下でも、色白の顔が真っ赤になっているのがわかる。
「じゃ、あの……僕はこれで。ケガ、お大事に」
「ありがとうございました。助かりました。それで佐倉さん」
「はい?」
「カラオケ、行きましょうよ。私も佐倉さんの【初頭効果】は悪くないですから」
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