§14 武藤さんは緊張し、奈々美は宙を飛ぶ
今日、『ムーンウェイブ』の客の引きは早かった。
そして八時半のラストオーダーの頃になると、三々五々と……というか、申し合わせたように集まってくるのがアディショナルタイムのメンバーたち。九時のオフィシャル閉店時間を過ぎた頃には、カウンターに四人が並んでいた。
「社長、人前であがらないコツは何かないかな?」
早速、電器店の武藤さんが口を開いた。彼は、力哉を「社長」と呼ぶ。
「その困った顔を見ると、スピーチでも頼まれましたね?」
カウンターの中で、力哉は余裕の受け答え。
「おうよ。実は娘の中学の卒業式で、保護者代表で喋ってくれないかって頼まれちゃってさ……。俺、スピーチって大の苦手で、失敗してばっかりで」
「そんなに嫌なら、断ればいいのに」
「それができりゃ一番なんだけどな……。でも、娘は自分の親が代表っぽいことするのがうれしいみたいなんだよ。そんなこんなで断れない」
「だったら、メモを作成していってサクッと読んで即刻退散……っていうヒット・アンド・アウェイ方式しかないんじゃないですか?」
「俺、作文も苦手なんだよ。一応は電器屋やってるぐらいだから理科系だし……」
武藤さんは、はあ……とため息。身長百九十三センチの巨体が、しぼんだ風船のように背中を丸めて縮こまる。スキンヘッドの表面で玉になった汗に照明が当たって綺麗だった。
「人前に出るとわけもなく緊張しちゃうのは、【対人恐怖】という神経症のケースもありますけど……武藤さんは違いそうですねえ」
「ああ、客商売やってるぐらいだからな。で、何かいい方法ない?」
奈々美は、カウンター席の背後から全員に小皿を並べていく。その横に紙ナプキンを置いて、フォークも並べて。
――われながら、手際いい。
「科学的な根拠のない、個人的な仮説でよければ」
「おう、何でもいいよ」
「【イップス】ですよ。武藤さんはゴルフをやるからご存じだと思いますけど」
「ああ。パットが打てなくなっちゃうやつな?」
はい、とばかりにうなずいて、力哉は例によって早口で説明していく。
【イップス】とは、精神的な原因などによってスポーツの動作に支障をきたしてしまい、自分の思いどおりのプレーができなくなる症状のこと。特にゴルフのパッティングにおいて症状が現れることが多く、数々の名選手を引退に追い込んだグリーン上の魔物である。
ゴルフ以外の競技にも存在し、野球、テニス、卓球、アーチェリーなどなど――。
「【イップス】の特徴は、自分で動こうとする動作のときにだけ出現して、外的要因に反応する動作では現れないこと。すなわち、自分の意思で動作を開始するピッチャーには症状が出るけど、飛んできたボールを打とうとして反応するバッターのほうには出ない。――ほら、これは野球の例ですけど」
と差し出したタブレットには、野球の動画が映し出されていた。
「このキャッチャーを見てみてください」
カウンターにいた全員が身を乗り出して、画面を覗き込む。それは野球の試合の映像で、ピッチャーに返球しようと投げたキャッチャーのボールが四方八方へ飛び散る様子が映っていた。何度投げても、ボールはマウンドのピッチャーに返ることがなかった。
「ダーツの選手にもあるんですよ。知り合いのプロが悩んでます」
古着屋の布田さんが言う。
「一度かかったら、ずいぶん長引くらしいよなあ……。可哀想に」
武藤さんも続いた。
「ま、【イップス】はピアニストなんかに見られる【局所性ジストニア】という不随意の筋肉収縮が原因だという説もあるし、【協調運動障害】あたりとの関連もあるかもしれない。【協調運動障害】というのは手足を別々に動かすような動作が苦手な人――スキップができないとか、バスケのドリブルができないとかいうタイプの人がもってる障害のことですけど」
「そうなの? ただ不器用なだけかと思ってたけどな」
「たとえば、消しゴムを使うと紙が破れちゃうような人も、【協調性運動障害】だったりするんです。日常生活のいろんな場面での動作が困難なので」
「で、社長。【イップス】の話が俺とどう関係してくんの?」
「【ツァイガルニク効果】ですよ。スピーチを頼まれただけなのに、あなたはもうその罠にハマってる」
「ツァ……何だい、そりゃ」
「人は、達成できなかった事柄や中断している事柄のほうを、達成できた事柄よりもよく覚えているもの――これが【ツァイガルニク効果】です。その一方、未完了のタスクによって、意識的かつ無意識的に悩まされる現象も起きる。これまで自分がやった失敗スピーチの記憶は、まさにそれですよね?」
「ああ。夢でうなされるレベルだ」
「スピーチも、顎や舌の運動でしょう?」
「そうか!」
「緊張によって【イップス】が起きれば、うまく喋れなくて当然ですよ」
「そりゃそうだ」
「人は、欲求によって目標指向的に行動するときに、自ら緊張感を生み出してしまいます。それが、ときには肉体的な【イップス】を引き起こし、失敗した記憶は【ツァイガルニク効果】として残るわけです」
「やっぱり、敵は緊張なんだよなあ……」
「でも、【ツァイガルニク効果】はタスク達成までの予定を立てることで回避できるんですよ。だから、作文は無意味じゃないんです」
「なるほど」
「で、緊張感の原因は何かといえば、【完全欲】です」
「?」
「【完全欲】とは、完璧を求めすぎてしまうこと。対人関係において相手に好印象を与えたいとか百点を取りたいと思うばかりに、ちょっとした失敗も恐れるようになる。その耐えがたい不安と心配によって言動がぎこちなくなって、本当に失敗してしまう――。それが、【完全欲】の落とし穴です」
「それだよそれ。スピーチするときの俺がそれだ!」
武藤さんが目を見開いたのを見て、力哉は布田さんに向き直った。そして大げさな身振り手振りをつけて、例によってドヤ顔で言う。
「布田さんがミキちゃんにアプローチできない理由も、この【完全欲】です。異性によく思われたいという心理が、スムーズなコミュニケーションの足かせになってしまう。【完全欲】という心理は、こうしてさまざまな場面で人のパフォーマンスの妨げになるんです」
力哉は、いつにも増して饒舌だった。
「……はい。頑張ります」
とばっちりを食らった布田さんは、照れ笑いするしかなかった。
「武藤さん。百点なんか不要、せいぜい七十点で充分という気持ちで気軽に話すのが一番ですよ」
「そう言われてもなあ……」
唇が乾いたのか、力哉はミネラルウォーターで口を湿らせる。
「ひとつの可能性として、感覚の遮断が有効かもしれません」
「どういう意味だい?」
「スピーチするときに、聴覚を遮断しちゃうんです。ブルートゥースのイヤホンでも耳に突っ込んで、ロックでもクラシックでもいいから大音量でガンガンかけておく。それなら、大音量の音楽のせいで自分の声も聞こえにくくなるから、うまく喋れてるかどうかも気にならない。もちろん客席も見ない」
「そうやって、サッと終わっちまえばいいのか!」
「卒業式のスピーチなんて、短ければ短いほど喜ばれますから」
「じゃ、ともかく一回練習してみるよ」
そこに、IT二年目の佐倉さんがやってきた。奈々美は開いていたカウンターの椅子を引いて、彼を招き入れる。
そして、佐倉さんのテーブルセッティングをしようとしたとき――
「きゃっ!」
佐倉さんが床に置いたショルダーバッグのストラップが、足に引っかかった。
そのまま宙を飛び、正座の体勢で着地。
「
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