§13 祈り
新宿駅近くの喫茶店。
雑居ビルの地下にひっそりと存在する静かな店で、力哉はひとりの女性を待っていた。作家・竹早憧夢として。
「ごめんね。書店訪問、ちょっと長引いちゃって」
と慌ただしく対面に座ったのは、
「最近は、いいのありますか?」
力哉は聞いた。真弓はウェーブのかかった長い髪を止めていたバレッタをいったん外し、もう一度止め直してから首を横に振る。
「ダメダメ。売れそうもないのが予想外に弾けてくれることもあるけど、イチオシがあえなく玉砕したり……。出版不況の闇は深いよ」
力哉が『恋する心理学』で蒼穹社文学新人賞を獲ったときに担当してくれた編集者が、この人だった。その作品がヒットして十万部に達したとき、子どものようにはしゃいでくれた人でもあった。言葉ではないお礼をしたいと思って、「何か集めてるものはありますか?」と尋ねた。すると彼女は一瞬の迷いもなく、「髪留め。何がいいかって、死ぬほど安いこと」と答えた。
「この物体、男の子は名前も知らないでしょう? バレッタっていうの。次回作を書くときに登場させてもいいよ?」
「わかりました。必ず書きます」
その日、力哉は新宿のデパートをいくつも回った。自分の目を疑うほどの金額が突然振り込まれた世間知らずの男子大学生が女性のアクセサリーを探すのに、デパートしか思いつかなかった。インフォメーションで相談すると、上層階のブランド品売り場を勧められた。でも迷ってしまってひとつに絞ることができず、結局はふたつ買った。
「とっても綺麗ね、ありがとう」
彼女は、満面に笑みを浮かべて受け取ってくれた。第二巻にバレッタの描写を組み入れたときにも、「いいね。色っぽく書けてる」と喜んでくれた。
「で、どうなの? 『恋する心理学』、まだ出す気なし?」
「真弓さんが担当してくれれば、いつでも出しますよ」
羽根を広げた蝶がデザインされた、金色のバレッタ。今日の真弓さんの髪を彩っていたのは、力哉がプレゼントしたうちのひとつだった。
「そっか……」
「すいません。通すべき筋は通したいので」
「謝るのは私だよ。この春の人事異動でも、お呼びはなさそうだし……」
「なら、僕の態度も継続です。『
作家になりたい、と強い願望があったわけじゃない。ある日、ふと書いてみようと思っただけだった。そんな不完全な作品が受賞に至ったとき、「大きなミスがひとつと、小さなミスが無数にある。それを全部つぶして、最高の作品に仕上げましょう」と言ってくれ、つぶさに指摘してくれた。彼女がいなければ、竹早憧夢という作家も生まれていなかったのだ。
「ま、あなたは生活に困ってないから、作家業にガツガツしないのもわかる。お父さんの
父親は三年前に亡くなった。その一年前に、母親を神様にお返ししたばかりだった。「あの店だけは守ってくれ」が父親の遺言だった。しかし、大学生のうちに作家になってしまった力哉には、社会経験らしい経験もなければ知識もなかった。
当時、『ムーンウェイブ』の客足は芳しくなかった。告別式の場で、不動産屋が売却話をもちかけてきたりもした。それでも、スタッフたちは一丸となって「売却など言語道断」と譲らなかった。ホール長の麻紀さんは、「私たちは、今も先代と赤い糸で結ばれている気持ちでいます」と涙した。それほど熱い思いでつながった糸をほどく力も気持ちも、力哉にはなかった。決意して踏み出すしかなかった。
「どうにか、細々とやれてます」
父親がレストランを遺してくれたことは、別の意味でもラッキーだった。そちらが忙しいからという、表向きの休筆の理由にできるからだ。だが本当の理由は、水口真弓に対する蒼穹社の不当な扱い――営業部への左遷――への、心ばかりの抵抗のつもりだった。
蒼穹社の上層部に直談判したこともある。それを聞きつけて、「竜の髭を蟻が狙ったって、意味ないだろ? 作家として終わるぞ」と揶揄してきた先輩作家もいる。
でも、そんなことはどうでもよかった。もともと、竹早憧夢という存在など幻なのだ。いつ無に帰してしまっても構わないのだ。
十三年前に第一巻が出た『恋する心理学』シリーズは、蒼穹社第一文芸書籍編集部の売り上げを支える大黒柱となっていた。そこで、竹早憧夢の新たな側面を売り出すとして企画されたのが『アイ・ニード・ニート』だった。真弓さんはそれにかかりきりになり、すでに安定飛行していた『恋する心理学』を
ところが、力哉は座波と合わなかった。微に入り細を穿つ真弓さんの作業とは正反対のアバウトな仕事ぶりが、まったくもって受け入れられなかった。仕方なく担当交代を申し入れたが、結論は「一冊だけ我慢してほしい」だった。どの編集者も担当作家を多く抱えていて、急な配置換えには対応できなかったのだ。
そして『アイ・ニード・ニート』には盗作騒ぎが重くのしかかり、飛び立つこともできないまま返品の山に沈んだ。その責任は、担当編集者である水口真弓と、編集長の
「あなたのこと、ずっと二階堂師匠も気にかけてるからね」
「そろそろ、またお見舞いに行かないと」
「世に出してないだけで、手元では新作ガンガン書いてるのよね?」
「はい」
「それ、読ませてあげたら師匠も喜ぶと思う」
「だったらいいですけど……」
真弓さんは、新卒で入社した頃から編集のイロハをたたき込んでくれた先輩を「師匠」と呼んで慕っている。力哉にとっても、折にふれて作家の心構えのようなものを授けてくれ、進むべき方向を示してくれた恩人だった。
しかし――
「でも昨日ね、奥さんから連絡があったの。師匠が肺炎になっちゃったらしくて、相当やばいみたいなんだ……」
高齢者の肺炎が命にかかわる大病であることは、力哉も知っていた。
「だったら……僕は祈ります。ひたすら祈ります」
「うん、私もそうする。それから、例の件なんだけど――」
ネットでの誹謗中傷。八年前と同じことが繰り返されようとしていた。
「これ以上ひどくなるようだったら、出るとこ出てやろうよ。誰がやったか、中心人物はわかってるんだし」
「……いいんですか?」
「悪いのはあっちなんだし、自業自得でしょ」
そう言うと、彼女は氷の解けたアイスコーヒーをすすった。自他ともに極度の猫舌を認めている人だから、真冬でもアイスコーヒーしか飲まない。
「しかし。あいつら、懲りずにまたやらかすとはね……」
――と。
テーブルに置いてあった彼女のスマホが眩しく光った。
「師匠の奥さんからだ。悪い予感しかしないけど……」
まるで【マーフィーの法則】。当たるのは、悪い予感だけ――。
「はい……ええっ?……そうですか……残念でなりません……お気を落とさずに……いえ、こちらこそ……はい……」
ひと言ふた言、真弓さんの途切れ途切れの声は震えていき、そのうち言葉としての力と形を失った。大粒の涙がこぼれて、グレーのスカートの太ももに
電話を切った後の真弓さんは、まるで抜け殻だった。
力哉も何もできなかった。
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