§12 コンプレックスの正体

 一月二十九日。

 月曜日で、『ムーンウェイブ』も定休日。


 漣のアパートには、ホワイトシチューの匂いが立ち込めていた。 


「シチュー作りすぎちゃったから、食べるの協力してくれない?」


 と言われてやってきたけど、いざテーブルにつくとスプーンを運ぶ手が進まない。おなかはすいてるはずなのに、食欲がなかった。


「ごめん。あんまり戦力にならなかった」

「無理しなくていいけど……おいしくなかった?」


 男なのに、漣は天才的に料理がうまい。本人曰く「母親が料理の達人」で、子どもの頃からしょっちゅう台所を手伝ったのだそうだ。


「違うよ、シチューはおいしい。私が食欲なくて、なんかイマイチなだけ」


 嘘だった。


 このシチューが絶品なのは、前にも食べたことがあるから知っている。それなのに、今日はコクも旨味も感じなかった。昼間飲んだコーヒーの味も変だった。味覚がおかしくなった感じがして、舌の上にザラザラとした膜が覆ってるみたいだった。


「どしたの? なんか元気ないけど」


 漣は自然と手を伸ばして、奈々美の額に当てる。


「熱はないけど、顔色は万全って感じじゃないな。こんなときこそ、ちゃんと食べたほうがいいんだけどね」

「風邪引いた感じはないけど? 寒気もないし」


 執筆も行き詰っていた。いいシーンを思いついて書いてみても、どうにもしっくりしない。しっくりしないから書き直しても、それでも納得できなかった。


 二月一日から始まる、蒼穹社文学新人賞の応募が三日後に迫っていた。


「執筆……煮詰まった?」

「それ、『進まない』っていう意味で言ってる?」


「うん」

「だったら、『煮詰まった』じゃなくて『行き詰まった』って言わないと。『煮詰まった』っていうのは、アイデアがうまくまとまったようなときに使う、いい意味の言葉だから」


「へえ、そうなんだ。知らなかった」

「テレビとかでもフツーに間違って使っちゃってるしね」


「さすが作家志望、奈々美は日本語に詳しいね」

「ぜんぜん、そんなことないよ」


 ――そう。そんなことない。


 正しい日本語を使えるとか、難しい四字熟語を知ってるとかいうのは、作家の実力にはまったく関係ない。作品の価値にも、何の影響もない。竹早憧夢みたいに、簡単な言葉の組み合わせだけで流麗な文脈をつくって、登場人物の心理や情景をリアルに描き切るほうが何段階もハイレベルなのだ。


「俺は『十六夜劇場』の人たちに助けてもらって、いい動画が撮れたけど……奈々美の応募開始まで時間ないよ? ダイジョブ?」

「うん」


 これも嘘だった。


 蒼穹社文学新人賞の応募規定は、十万字以上。でも、今のところ書けているのは二万字に満たなかった。


「でも、作品をネットに上げて読者選考する方式って、なんか面白いよね」


 一次選考は、蒼穹社が運営している『ブンガクの種』というウェブ小説サイト上で開催される。二月一日から三月三十一日までの期間中に読まれた回数や読者のコメント数などがポイント化され、その上位作品が選考を通過することができるというシステムだ。


 そして、三月三十一日時点で十万字をクリアしたうえで完結していればOKというレギュレーションだけど、ギリギリの完結ではポイントが入りにくい。最悪でも、二週間か三週間前までには完結させるのがセオリーだった。


「あのさ。漣はどんなときにメロディーがくる?」

「時と場合だよ」


「自分で自分をに追い込んだりする?」

「それもするけど、あんまりうまくいかないな。なんとなく歩いてるときとか、風呂に入ってるときに突然ポンと浮かぶことのほうが多い」


「そういうときって、どういう感覚?」


 漣はしばらく考え込んだ。もともと穏やかにゆっくりと喋るタイプの人で、将棋の棋士みたいに長いシンキングタイムを取ることも多い。


「いつも、沈黙のなかから生まれる」


 彼は、きっぱりとそう言った。


          *


 奈々美のペンネームは、『雨西あめにし真湖まこ』という。


 元ネタは、アガサ・クリスティーの変名であるメアリー・ウェストマコット。


 メアリー⇒ひっくり返して雨

 ウェスト⇒日本語にして西

 マコット⇒そのまま漢字を当てて真湖


 短絡的ではあるけれど、自分としてはお気に入りのペンネームだった。


 現在執筆中、蒼穹社文学新人賞に投稿する予定の新作タイトルは、『若き上野輝ウェルテルの悩み』。


 ウェルテルこと主人公のうえてるは、えないフリーカメラマン。仕事で行く先々で殺人事件に巻き込まれ、それを機転とウィットで解決に導くというミステリーだった。コメディー仕立てにしてあるのは、少しでも『恋する心理学』に近づきたいとの思いからにほかならない。


「奈々美はいつも、どんなことを願いながら小説書いてるの?」


 思い出したような顔で漣が言う。そう言われたら、答えはひとつしかなかった。


「誰かの心の中の、一番大切な場所に幸せを届けたいから」

「前にも聞いたけど……奈々美のそれ、いい言葉だよね。だったら――」


 漣は、うれしそうに親指を立てる。


「恋、しなよ。それしかない」

「したくないわけじゃないけど……なんか、うまくいかないんだよね」


 本音だった。


 恋はしたい。悪魔に【シンデレラコンプレックス】なんて罵られたけど、優しい男の人に出会いたい。そして、大きな手に包まれたい。


「こないだの……何だっけ、エレベーターで知り合った人ともソッコーで別れちゃったし、その前の人とも長続きしなかったでしょ? やっぱ、落ち込んだりモヤモヤしてるときって、創作なんかしてる場合じゃないから、まずは幸せになるのがいいと思うけどな」


「愛すべき相手に出会えてないだけかもでしょ?」

「じゃなくて、奈々美は恋愛に幻想を抱きすぎ」


「だって、恋するなら心臓を鷲づかみされるぐらいにときめいて、トゲもグサグサと刺されて、そのトゲが何年も抜けないような恋をしたいんだもん。成り行きっていうか、そのへんのWi‐Fiつかんじゃったみたいな恋愛はイヤなんだもん」


「愛し合うなら、骨の髄までとことん愛し合いたいタイプ?」

「……うん」


「奇遇だね。俺も同じだ」

「だよね」


「奈々美は今、一度落ちたら二度と登れない谷底にはまってるわけじゃない。次にジャンプするために屈んでるだけかもしれない。今はスランプっぽくて小説が書けないかもしれないけど、そうやって悩んでこそ輝けるものだからさ」


 ふと、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』を思い出す。婚約者のいる女性シャルロッテに恋したウェルテルが、結ばれない恋に耐え切れずに自殺してしまう、悲しい恋の物語――。


 恋とは、そういう強い思いによってだけ成立するものだと思う。

 

「私、性格を変えたほうがいいのかなあ? こらえ性がないし、飽きっぽいし」


 すると漣は、一冊の文庫本をバッグから取り出した。見間違えようもなく、『恋する心理学』だった。


「俺、ほとんど本なんか読まなかったけど、ギター貸してくれたお礼のつもりで読み始めたら止まんなくなっちゃってさ。もう三巻目」


「前にも勧めたのに」

「ごめん。で、主人公の仁上通が面白いこと言ってるんだよね。ちょっと待ってて」


 慣れた手つきで、ペラペラとページを行ったり来たり。すぐに目的の場所にたどり着くと、「あった。ここだ」と静かに朗読を始めた。


〔人は、たとえば自分を「飽きっぽい」などと定義しながら同じ歯磨き粉を長年使い続けたりする、摩訶不思議な生き物なんだ。「自分の性格」なんていう窮屈な枠に心を押し込める愚鈍さこそが、コンプレックスの正体だ〕


 ――竹早憧夢は、たぶん正しかった。

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