§11 迂闊にもほどがある

「あ……」

「……ったく、みっともなく酔っ払いやがって」


「でも、お店の新商品の試飲だから……いいのを選ぼうと思って……その、頑張りすぎちゃったかも……です」

「つぶれて倒れたときには、どうしようかと思ったぞ」


「すいません……」

「ここに連れてきたこと、リリさんには連絡してある。お前も年齢的には立派な成人だけど、中身は見事なまでにガキだからな」


 ――そんなこと


 ――そんなこと、どうでもいい


 ――あなたは、竹早憧夢さんなんですよね?


 ――声に出して聞きたい


「あの……」

「なんだ」


 作家・竹早憧夢は、生年月日以外の詳しいプロフィールを公開していない。本名も風貌も、誰にも知られていない。会ったことがあるという女流作家が、「地球が生み出した奇跡とも呼ぶべきほどの二枚目」と語ったインタビューを読んだことがあったけど、それは誇張かリップサービスの類だと勝手に思っていた。


 でも、それは真実だったのだ。かなりの高確率で。


 ――あなたは、竹早憧夢さんなんですよね?


 ――声に


 ――出して


 ――聞きたい


 奈々美は決心した。思い切って、聞こう。


「あそこにある、あのトートバッグ。私にいただけませんか!」


 しまった。口が滑った。


「ああ。あれか」

「激レアグッズですから」


「元は、ドラマのノベルティとして作られたものだな。しかし、ネットオークションで高騰して五万とか十万とかいう値段で取り引きされちゃったから、その後テレビ局が慌てて大量生産してオフィシャルショップで販売した。知ってるか?」


「当然です」

「あそこにあるのは、その大量生産品だ。だからレアじゃない」


「違います。あれはまぎれもなく最初の二十枚のほうです。ロゴの大きさが違うからわかるんです! しかもイラストのAバージョンと実写のBバージョンが袋入りのままそろってるなんて、ファンなら見逃せません! 垂涎の的です!」


 言い終えて、自分がやたらと早口になっていることに気づく。その息に、ほんの少しだけアルコール分が残ってるような気もする。


「ふぅん……お前、詳しいんだな」

「だって、デビュー以来ずっとファンですから! 竹早憧夢さんの!」


 やっと言えた。

 言われて動揺したのか、力哉は細かいまばたきをした。


「そんなに好きなのか?」

「はい!」


「竹早憧夢のことが?」

「日本一のファンです……あなたの……」


 それから奈々美は、思い切り吐き出した。

 中学生のときに出会って以来、『恋する心理学』が大好きなこと。

 華麗な文章を目標にして、何度も書き写したりしたこと。

 そして、ずっと憧れてきたこと――。


「そっか……。ここは素直に喜ぶべきところだな」


 もうひとつ、言いたいこともあった。


「それで竹早さん!」

「なんだ?」


「あれ、どうして出さないんですか? デスクの上に置いてある『恋する心理学』の第十巻! 表紙に赤でデカデカと完成稿って書いてあるじゃないですか。完成してるんだったら、早く出してくれればいいじゃないですか!」


「あの完成稿って書いたのは俺じゃない。編集者なんだ」

「え?」


「作者としては満足してないんだよ。まだ未完成だから、世の中には出せない」

「でも、あの……ちょっとだけでも、その……読ませてもらえませんか」


 言えた。究極の願いごと。でも竹早憧夢こと蒼井力哉こと毒舌の悪魔は、やっぱり全力で悪魔だった。


「お前って、もしかしてバカ?」

「うぐっ」


 悪魔は奈々美の横を通ってデスクに行き、原稿の束を手に取った。それを宙に掲げるように奈々美に向ける。


「俺のファンと言ってくれたのは正直うれしい。心から感謝もする。喉から手が出るほどこれを読みたい気持ちもわかる。だが、未完成のものを読ませるわけにはいかない。それに――」


「それに?」

「トートバッグも、あげられない」


 漣にはギターをあげるって言ったのに? あんなに高価なものを気前よくあげるって言ったのに?


「お前なんかには、もったいないからな」


 ――やっぱり、殺す。この悪魔を、殺す。


          *


 いったん部屋に戻ってから『ムーンウェイブ』に行くと、怖ろしい形相をした姉に睨まれた。変身後の大魔神みたいだった。


「あんたってバカ? 飲みすぎて倒れるなんて、私の面目丸つぶれだよ」


 またバカ。バカ呼ばわり。


 この店に来てから、いったい何回言われただろう。


「試飲会なんだから、ちょっとはセーブするとかね。そんなこともできないなんて、呆れてものが言えない」

「……ごめん」


 言われるとおりだった。酔わないよう、飲まずに吐き出せばよかったのに……。


「それから、ウェイトレスのオロールちゃん。インフルエンザは治ったんだけど、フランスのお父さんが心臓病で入院しちゃって急遽帰国したから。だから、奈々美の臨時バイトも延長しなさい」

「……わかった」


 抵抗する元気もなかった。


 落ち込んだままのバイトは、楽しくなかった。


 夜になって力哉が来ても、目を合わせられなかった。


 アディショナルタイムも断って、夜の道を部屋までトボトボと歩いた。


          *


「え――――っ! マジ? マジでマジ!?」


 話した途端、妙子はその場で飛び上がった。驚いた人が本当にジャンプするものだということを、奈々美は二十六歳にして初めて知った。


「うん。蒼井力哉は、竹早憧夢だった。見せてくれなかったけど、『恋心こいサイ』の十巻の原稿も置いてあった」


 奈々美の凹みなど無視して、妙子は俄然ハキハキと元気モリモリになった。


 どんな部屋? マンションの何階? 広いの? バスタブは大きかった? カーテンは何色? どんな家具が置いてあった? 


 エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ……。


 それにしても迂闊だった。

 迂闊にもほどがある。

 あまりにも身近だったせいで、見抜けなかった。

『恋する心理学』の舞台は、まさに現実そのものだったのに。


 主人公・かみつうの恋愛相談所があるのは「劇場の隣」で、「劇場の地下」にある『ムーンウェイブ』の環境とほぼ同じ。「JR高円寺駅」なのを「JR月並駅」と置き換えてあるのは、杉並区と『ムーンウェイブ《月波》』からの連想。


 集まってくる常連たちも、「巨体でスキンヘッドの肉屋の武川さん」が「電器店の武藤さん」、「合気道師範のみどりさん」は、「プロゴルファーの栞さん」などと、モデルになった人たちがズラッとカウンターに並んでいたのに。


 主人公の仁上通という名前にしても、


「TSUKINAMI」から「NIKAMI TSU」を導いたアナグラムだった。


 そんなこと、まったく気づきもしなかった。


 ――頭使えよ、自分。


 と思っても、遅かった。


 あまりにも気分が晴れずに、漣に電話した。


「すごい偶然があった」と言ったら、漣は即座に否定した。


「偶然じゃなかったら、何?」

「そんなことわかんないの? 運命だよ。まぎれもなく」


「運命?」

「そ。神様の思し召し、ってやつ。奈々美はラッキーだよ」


 そうかもしれない……とも思う。だからといって、何かが起きるわけでもないと思うけど。


「まさか、あんな毒舌野郎だったとはね……」

「今、奈々美がやるべきことはひとつだよ。チャンスなんだから」


「?」

「蒼井さんに弟子入りして、小説の書き方を教えてもらえばいいじゃん」

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