§10 まさか・まさか・まさか!

「おい妹。来週の月曜日、予定開けとけ」

「……はい?」


「夕方六時から新宿」

「ちょ……いきなり新宿とか、何なんですか」


「珍しい酒が大量に集まる、日本酒の見本市みたいなものがある。そこで、新たに仕入れる酒を探す」

「な……なんで私なんですか」


「リリさん以下、うちの店は下戸ぞろいだろ? 夜の時間に出すつもりの酒だから、毎日ノーテンキに飲んでるお前が適任だ」

「でも私、お酒に詳しくないし……あ!」


「どうした」

「友達、連れて行ってもいいですか? ワイン好きで舌は肥えてるし、超セクシーダイナマイトですし……ちょっと聞いてみます」


 ――というわけで月曜日。


 奈々美が待ち合わせ場所に行くと、力哉はすでに着いていた。黒のタートルネックにブルージーンズ、黒のハーフコート。足元は当然、赤いヒモがついた靴。ただ立っているだけなのに、正直とんでもなくカッコいい。


 これで喋りさえしなければ、置物にして床の間に飾っておきたいぐらいに。


「奈々美!」


 コツコツとヒールの音を立てて、仕事帰りの妙子もやってきた。八時から別件があるから、それまでのテンポラリー参加。強行した理由が「悪魔を見てみたいから」だというのは、もちろん力哉には死んでも言えない。


「話は聞いてたけど、妙子さんはホントに美人だね」

「お世辞でも、うれしいですよ?」


 語尾に「うふ♪」という感じのゴーストノートがつくのが妙子の特徴。気に入らないけど、確かにこのツーショットは強烈だった。ハリウッドのラブロマンスが作れるかもしれないぐらいに。


「それに引き換え、こっちはどうなってるんだろうね? 同じ年とは思えないぐらいにガキっぽいし、色気も知性もない」


「余計なお世話です!」


 ふたりの後ろを歩きながら、奈々美は悪魔にエアパンチを見舞った。


          *


 会場には、何百本という日本酒が所狭しと並べられていた。


 すぐに、日本酒ソムリエの担当者がついてくれる。銀縁眼鏡が似合う三十代ぐらいの女性で、庄司しょうじさんといった。


「こちらが、各都道府県の味の目安です」


 彼女が渡してくれた資料には、六角形のレーダーチャートがあった。


〔華やか‐穏やか〕

〔軽快‐重厚〕

〔芳醇‐ドライ〕


 このチャートを味のガイドにして、奈々美たちは会場を回っていった。


「静岡のは、〔軽快〕に振り切ってる感じなんだね」

「ホントだ」


「君たち、静岡出身なのか」

「はい、ふたりとも」


 奈々美は東の端の沼津市、妙子は西の端の浜松市。静岡は東西に長いから距離は離れているものの同郷ということが、ふたりを親密にした要因でもあった。


 六通りの評価に加えて、甘口・辛口の分類もある。

 奈々美は次々と試飲した。でも、そのうち何がなんだかわからなくなってきた。


 チャートどおりに〔軽快〕な静岡もいいし、〔華やか〕に絞った徳島と熊本もいい。北陸や新潟あたりの安定感も捨てがたい。妙子は高知のドライさがたまらないと言い、悪魔は東北の軽やかさが好みだと言う。


 結局、すべてに何らかの長所があって選べないのだ。


 やがて、妙子のタイムリミットがやってきた。去り際に奈々美の耳元に囁いたのは、「彼、二重丸。かなりドキッとした」という言葉だった。奈々美は、その言葉のほうにドキッとさせられた。


 それから一時間。


 力哉は飽きてきたらしく、「お前が選べ」と言い出した。任せてくれたというより、職務放棄だった。奈々美は仕方なく庄司さんの協力を仰いで、ほかにないぐらいの特徴があるものを紹介してもらうことにした。


 彼女が「独創的といえば、このあたり」と選んだのは、山形の『まろら』。


「世界初、『マロラクティック発酵』といってリンゴ酸を乳酸に変える製法を用いた商品です。力強く優しい乳酸の酸味と拮抗する甘味が絶妙に調和した味は絶妙で、和洋折衷どんな料理にも合うと思います」


 飲んでみると、確かに酸味と甘味が口の中に広がった。そして庄司さんは、うれしい言葉を続ける。


「個人的な感想ですけど、これが一番合うのは洋食だと思うんです」


 彼女には、『ムーンウェイブ』のことは話していない。それなのに「洋食」という単語が出てきたことが、クリティカルヒットになった。


 もうひとつ選んだのは、栃木の『鳳凰美田 ワインセル・スパークリング』。


「こちらは、ワイン酵母で仕込んだ活性にごり生酒。フレッシュで華やかな味わいがオススメです。ヨーグルトのような色合いに立ち込めるマスカット臭が女性にも飲みやすく、炭酸の風味も素晴らしい。甘すぎないコメの味も、最高の仕上がりです」


 庄司さんは、さすがのプロだった。


「これも買いましょう。いいですよね?」


 それが限界だった。力哉が親指を立てたところまでは覚えている。


 そこから先の記憶は、ない。


          *


 目が覚めると、知らない部屋にいた。


 ひと目で高級とわかる、おしゃれな家具。


 統一したイメージで、スマートに整頓された部屋。


 たぶん、マンション。じゃなくて億ションのリビングだ。


 高そうな黒レザーのソファーから体を起こす。時刻は、朝の六時。


 目の前のローテーブルに、ペットボトルの水とグラスが置いてあった。奈々美は蓋をギリッと開けて、グラスは使わずゴクゴクと一気に飲み干した。


 窓の外には、高層の眺望。遠くにスカイツリー。


 ――もしかして、悪魔の部屋?


 リビングからは、ふたつの部屋が見えた。ドアが開いてるほうには本棚やデスクがあるから、書斎っていうことだろう。だとすれば、ドアが閉じてるほうは、おそらく寝室。


 足音を忍ばせて、閉じられたドアに近づく。おそるおそる耳をつけてみると、リズミカルな寝息がかすかに聞こえた。


 ――まさか?


 と思って自分の身を確かめる。着ていた服に異常はなかった。あいつがどれほどの悪魔でも、さすがにそれはないよね……と安堵する。


 でも、こんな部屋に住んでるなんて。奈々美は、ふと書斎に足を踏み入れた。


 その途端、ピンと来た。


 ――これは!


 部屋の片方全面を埋め尽くした本棚が、明らかに変だった。何千冊はありそうななか、竹早憧夢の作品だけ五冊ずつぐらい並べんで目立っていたからだ。


 ――ウソでしょ?


 本棚の手前の床には、『恋する心理学』のロゴ入りトートバッグもある。ドラマ化されたときにテレビ局が作ったノベルティで、AB二タイプとも二十枚ずつしかない激レアアイテムが、ビニール袋に入ったままポロッと鎮座していた。


 ――もしかして


 ――ここは、もしかして


 デスクの上を見て、奈々美はのけぞった。驚きを通り越して戦慄した。


 ――私ったら今、すごいもの見てるよね?


 印刷されて閉じられたA4用紙の束の表紙にクッキリと書かれていたのは――


『恋する心理学10』


 赤いマジックで、大きく「完成稿」と書き加えられている。


 ――ああ


 ――なんと


 ――蒼井力哉が


 ――あの毒舌クソ悪魔こそが


 ――竹早憧夢!


 奈々美は一歩、デスクに近づいた。


 ――読みたい!


 ――いいよね?


 ――ちょっとぐらいならいいよね?


 ――でも、読んだら絶対一気読みしちゃう


 ――でも読みたい


 さらにデスクに近づく。手を伸ばす。届きそう……。


 ――読みたい読みたい読みたいっ!


「お前って、もしかしてバカ?」


 見ちゃダメだ、という神の声だろうか? 幻聴が聞こえた。


「……ったく、勝手に入るなっつーの」


 幻聴じゃなかった。振り向くと、悪魔が立っていた。

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