恋する心理学 ~東京都月並区月並恋愛相談所~

真野絡繰

§01 ほーら、ビンゴだ

 好きな男がいた。


 長身、イケメン、細マッチョ系のおしゃれさん。


 でも、無理だった。


「おおーっ! ランボルギーニ!」


 東京の幹線道路である環状七号線、通称環七かんななを跨ぐ歩道橋の上。遠くから猛スピードで近づいてきた爆音に、真弘まさひろは釘づけになった。


 目にも鮮やかな深紅の流線形が矢のように足元をくぐると、ドップラー効果で音質が変化する。その音を追うように、真弘は素早く体を翻して反対側の手すりにすがりつく。


「アヴェンタドールだ! かっけえーっ!」


 奈々美ななみの目に、自分の足元を飾るおニューのハイヒールが目に入る。遠ざかるスーパーカーにも負けない艶やかな薔薇色なのに、せっかく今日のために下ろしてきたのに、真弘は気づきもしなかった。というより、一瞥いちべつもしなかった。


「くぅーっ! やっぱ十二気筒エンジンの音はサイコー!」


 子どものように目をキラキラと輝かせて、極限までに車高が低く平らな後ろ姿を追い続ける。それが小さな赤い点になって見えなくなるまで、真弘は前のめりの姿勢を崩さなかった。ということは、奈々美を放置しつづけた。


 ――次。


 奈々美はゴクリと息を飲む。


 真弘の次の言葉が何かで、運命が決まる。


「やっぱりランボはいいなあ……。創業者のフェルッチオはもともとトラクターを造ってた人でね――」


 ああ、残念。不合格。


 ――ジ・エンド。


 珍しいスーパーカーに目を奪われるのはいい。男の子だから。


 でも、エンジンとか創業者とか、そんな話はどうでもいい。聞きたくなんかないし、聞いてもすぐに忘れちゃうし。


 今、あなたが一緒にいるのは誰? 車が遠ざかったんなら、その瞬間すぐに忘れてほしいの。私だけを見ていてほしいの。それが恋でしょう? 誰かを好きになるってことでしょう?


 ふたりで一緒にいるのに、ひとりにされたくない。


 あなたは、私とは合わない。

 私も、あなたとは合わない。


 だから、さようなら。バイバイ。


          *


 東京都月並つきなみ区。


 JRこうえん駅北口から徒歩五分。昼間でもそんなに多くない商店街の人通りがさらに途切れたあたりに、『十六夜いざよい劇場』という小さな芝居小屋がある。床に座布団を並べて座る方式の最大収容人数は、三百人。この広いんだか狭いんだかわからない絶妙なサイズが多種多様なクライアントに受け、演劇のみならず大学教授の講演会やファッションショーにも対応できる。でも先日行われたアイドルの撮影会では、主催者側の不手際から殴り合いの大喧嘩が起きて警察沙汰になった。


 ――というのは、姉ののう凛々子りりこからの受け売り。


 奈々美は、十六夜劇場入り口の隣にある小さな扉を開けて、地下へと向かう狭い階段を下りた。ミシッと音を立ててきしむ木造の階段の先の、まるで目立たない場所でひっそりと営業している隠れ家的な洋食レストランが、奈々美の目的地だ。


 その名も『ムーンウェイブ』。訳せば、月波つきなみ


「遅いよ。すぐに来てって言ったのに」


 足を踏み入れるなり、この店のシェフである凛々子がキッチンから出てきて眉をひそめた。自分の姉ながら、相変わらずキリリとした美形に純白のコックコートがよく似合っていた。


 でも、美人度ならそんなに負けてない――と、奈々美は内心胸を張る。


「えーっ。まだ十五分ぐらいしか経ってないじゃん」


 真弘と別れたばかりで、悶々としていた。かっこよく描写すると、憤懣ふんまんやるかたなかった。落ち込むとか凹むとかじゃなく、荒野でやさぐれてる感じだった。


 新宿まで足を延ばして、大好きなステーキハウスでドカ食いして発散しようかと思っていた。そのときスマホが震えたのが、姉からのSOSだった。


『ウェイトレスがインフルエンザで寝込んじゃったから、ヘルプに来て。無職のプーさんなんだから、何日か働けるでしょ?』


 新卒で入ったIT大手から転職したばかりのベンチャー企業があっけなく倒産したのは、つい先日のこと。現状の奈々美は姉が言うところの「プーさん」であり、今のところ次の仕事は決まっていない。


「こちらがシェフの?」

「はい、妹の奈々美です。見たとおりのドジっ子なので、ガンガン叱ってやってください」


 姉と話した女性は、ホール長の春日かすが麻紀まきさん。今の若いオーナーに世代交代する前の時代を知る生き字引みたいな存在で、ベリーショートが異常に似合う四十一歳シングルマザー。


 ――というのも、姉からの受け売り。


「ウェイトレスの経験はゼロですけど、よろしくお願いします」


 奈々美は、青いセルフレームの眼鏡をかけた麻紀さんに頭を下げた。シェフである姉の面目を潰さないよう配慮して、極力しおらしい会釈を心がけて。


 八歳離れた凛々子がムーンウェイブのシェフに就任したのは二年前、弱冠三十二歳でのことだった。彼女は中学生の頃に将来の道を決めて、調理科のある高校に進んだ根性女だ。その夢は見事に形になって、三十四歳の今ではこんな素敵な洋食レストランのシェフになっている。自分とはタイプが違うけど、心の底から尊敬できる存在だった。


「今のうち、メニューを全部頭にたたき込んどいて。一回でも間違ったら、即刻殺すから」


 姉に脅迫されるまでもない。奈々美は夕方からのフル回転に備えて、メニューの中身やオーダーの取り方を覚えておきたかった。


「わかってるよ」


 カウンターが六席と四人がけのテーブルが八卓。夕食の時間帯には常時満席になるホールを、麻紀さんとふたりで切り回さなければならない。まだ四時過ぎだから、準備する時間は充分にあると思った。


 でも、甘かった。


「お、君がリリさんの妹? 美人姉妹だね!」


 スキップしそうな勢いで店に入ってきたのは、現オーナーのあおりき。三年前に亡くなった先代の息子で、何やらほかの仕事もしているらしいけど、詳細は謎。少々ブッ飛んだ性格で突飛な発言も乱発する毒舌野郎だけど、スタッフやお客さんには優しい三十三歳。


 ――トーゼン、これも姉からの受け売り。


「久能奈々美です。姉がいつもお世話になっております」


 再び、店内における姉の威厳を保つための社交的挨拶を敢行した。腰を折って視線を床に下げたとき、力哉の足元が目に入った。黒いスーツに黒い革靴を合わせてるけど、不思議なことに靴ヒモだけが赤だった。


 なんで赤なの? と思いながら顔を上げると、目の真ん前に力哉の顔があった。およそ十センチの至近距離から、まじまじと顔を覗き込んでくる。


「おい妹。お前、顔色悪いぞ」

「そ……そうですか?」


 ここはレストラン。食中毒でも出したらまずいから、衛生面にもスタッフの健康面にも細心の配慮をする場所。


 ――というのは、姉に聞かなくてもわかる常識だけど。


 なんなの、この人?


「ああ、まるで死にそうな花みたいだ。もともと可憐に咲いていたかどうかは知らないが、盛大に腐ってる」

「はは……はい?」


 派手な身振り手振りを加えて、いちいち抑揚をつけた舞台役者みたいな喋り方。これはもしかして、姉がコーションを出してた毒舌が、いきなり始まったのかと思う。


「当ててやろうか?」

「?」


 長身に、ウェーブのかかった長めの髪。今はドヤ顔化してるけど、基礎はかなりのイケメン。力哉は片手を腰に当てて、もう一方の手で人差し指を立てた。


「つい最近、男と別れたばっかりだろ」

「!」


「ほーら、ビンゴだ」


 ナチュラルで居心地のいい木造りの店内に、不快なドヤ声が響いた。

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