§03 ルームメイトはセクシーダイナマイト
「ぷはーっ!」
部屋に帰るなり、奈々美は冷蔵庫から缶ビールを取り出して一気にあおった。
「やっぱビールだよビール!」
自分に許した、一日一本の幸せ。三百五十ミリリットルの恍惚。
慣れない立ち仕事で体も疲れたけど、削られたのは心のほうだった。原因は、あの
でも……
「奈々美ぃ……何度も言うけど、缶のまま飲むのはやめなよ。冷蔵庫の前で立って飲むなんて、それでも女か!」
毎回の「ぷはーっ!」に顔をしかめるルームメイトが約一名いる。
大学時代の女子寮で出会って、就職とともに同居を開始した親友。ありのままを話せる友達。
名前どおりに鈴のような妙なる声も、腰のあたりまで伸ばしたウェーブの髪を揺らす姿も、同じ年とは思えないほど色っぽい。六本木を歩いたら、すれ違う男が百発百中で振り返るほどのセクシーダイナマイト。
おしゃれでスタイルがよくて、料理も完璧な女子力の塊。ズボラとガサツの見本市みたいな奈々美とは何から何まで対照的で、生き神みたいな存在だった。
「ごめん。今日はむしゃくしゃしてるから」
一気に飲み干すと、アルミ缶をぐしゃっと握りつぶしてゴミ箱に投げ入れた。――ストライク。ダルビッシュより正確。
「缶を投げるの、おっさんみたいだよ」
「いいよ。おっさんで上等!」
「それと……これ。ソファーの下から出てきたんだけど」
ため息交じりの妙子が人差し指でくるくる回してる繊維は、下着だった。奈々美にしては思い切って出費した、大人っぽいグレーのTバック。その手のファッションセンスも、生き神・妙子の影響が大だった。
「あ! それ探してたんだよね。ありがと!」
「なんでパンツがソファーの下から発掘されるわけ?」
「私、酔っ払ってリビングで脱いだ……とか?」
「こないだは、洗濯機の裏からTシャツが出てきたし、下駄箱に靴下があったし」
「そうだった? ははは、覚えてないや」
ふたりは、中野区
「で、聞くよ?」
「何を?」
「さっき奈々美が言ってたじゃない? むしゃくしゃしてるって」
「うん、してる」
「デートでミスったでしょ?」
奈々美は首を縦に振る。次いで、すぐに横に訂正した。
「どっちだよ。ハッキリしなよ」
「ミスっていうか……別れた」
「やっぱり」
「なんでよ」
「だって、奈々美と彼は出会い方がよくなかったし」
「劇的だと思ったんだけどなあ……」
真弘との出会いは、元の勤務先が入ってるビルのエレベーターの中。いきなり故障して閉じ込められたときに、たまたま乗り合わせていたのが真弘だった。彼は、同じビルにある別の会社に勤めていた。
「あれって、まさに【吊り橋効果】そのものじゃん」
「そりゃそうだけど……」
【吊り橋効果】とは、同じ危機や恐怖を一緒に味わった男女が恋愛に発展する確率が高いという心理学用語。お化け屋敷やジェットコースターでのデートは、これから仲よくなろうとするカップルには有効なのだ。
真弘にもテキメンだった。その日のうちに互いの同僚を交えて飲み会をやり、翌日には交際を申し込まれて、今日が初デートだった。
「ま、男は大量にいるから。次だよ次!」
妙子は、肩をポンとたたいて慰める。そして冷蔵庫を開けて、「大サービス。今日はもう一本飲んでいいよ」と笑った。
「妙子も飲もうよ。とりあえず着替えてくるから」
高校時代からの愛用品である、学校名が刺繍されたヨレヨレのジャージ。女子力の高い妙子には「家庭に居場所のない
「そうだ、私にもニュースがあるんだった。残念なやつだけど」
乾杯した後で、妙子がスマホの画面を見せてきた。それは奈々美にとって、ひたすら残念でたまらない文字列だった。
〔
「え――――っ! マジかよ」
「うん。出版社の発表って書いてあるよ、本文読んでみて」
〔大手出版社・
「ちっくしょー! アッタマくるなあ!」
奈々美は、近くにあったクッションにグーパンチを見舞った。思わず八つ当たりしたくなるぐらいに悔しかった。
「延期に次ぐ延期で、ずっと待たされてるもんね」
「違うよ妙子! 私が頭にきてるのは、打ち切りを心配しているとかいうファンのほうだよ! 仮にも竹早憧夢ファンを名乗るんだったら、口が避けてもそんなこと言っちゃダメなんだよ!」
奈々美と妙子が仲よくルームシェアするに至った理由のひとつが、これだった。ふたりそろってドがつくほどの本の虫だから、一緒に住んで貸し借りすれば少しは節約できる――。極限までにセコくて短絡的なアイデアだけど、年間二百冊以上も読むふたりにとって、図書費の削減は悲願なのだ。
そんなふたりのフェイバリット作家が、この竹早憧夢。
代表作の『恋する心理学』は、JR月並駅前で恋愛相談所を経営する
「竹早さん、もう書けなくなっちゃったのかなあ……」
しとやかにワイングラスを傾けながら、妙子が色っぽく嘆いた。
「そんなことないと思うけど」
奈々美は、竹早憧夢の文体が大好きなのだ。流麗で、的確で、過剰な描写や説明不足が一切なくて、切れ味のいい台詞も怒涛のように連発されてくる。そんなハイレベルな文章が書けるのは、竹早憧夢以外にいないと信じて疑わなかった。
と同時に、目標でもあった。
なぜなら奈々美は作家志望であり、『恋する心理学』のような雰囲気の小説を書きたいと思っているから。カオスみたいなゴミ溜め部屋で、高校の名前が刺繍されたジャージを着て夜な夜な執筆していることは、妙子にも打ち明けていないけど。
「やっぱり、あの事件が尾を引いてるのかも」
「え? もう下火になってたんじゃないの?」
「と思うでしょ? ところが、さっき検索してみたら……ほら」
妙子は再びスマホを見せてきた。奈々美は思わず、おっさん臭い呻き声を発した。
「コイツら……性懲りもなく、またやってんのか!」
もう何年も続いている、竹早憧夢への誹謗中傷。それを見るたび、奈々美は胸を痛めていた。
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