§08 三人のプロフェッショナル
ランチタイムが終わると、奈々美は高円寺駅へと走った。
『ムーンウェイブ』の制服である、黒のポロシャツにチノパンのままコートだけを羽織って。ワインレッドのサロンを外すのも忘れていた。
交番の横の壁。漣は片方の肩で寄りかかるように立っていた。金髪の頭を傾けて壁につけて、背中には黒いギターケース。
「よお」
という感じに右手を上げる仕草も、いつもの漣だった。交番の隣の花屋さんが、色のない冬の街に華やかさを与えてくれていた。
「ちょっと行きたいとこがある。一緒に来て」
昼間にまじまじと見ると、かなり高得点のイケメン。奈々美は、その手を引きずるように歩き出した。
「ここ」
高円寺は古着屋の街。ショーウィンドウに、気になるシャツがあった。
「あのシャツ、どう?」
「いいと思う……けど、どしたの?」
ターコイズブルーのシンプルなデザイン。撮影するのに、これを着て歌ったら素敵だと思った。
「じゃ、誕生日も兼ねてプレゼントする」
何日か前から、漣が何を着るのがベストなのかを考えていた。そしたら昨日、たまたま見かけたこのシャツと目が合った。
マネキンから脱がせてもらって漣に当ててみると、サイズもちょうどよかった。古着は一点ものだから、ラッキーだった。
「ていうか、奈々美は俺のマネージャーみたいだね」
「じゃなくて、プロデューサーって言いなさい」
『ムーンウェイブ』に向かって歩き始めたときだった。叫び声が聞こえた。
近くを歩いていたおばあちゃんのバッグをひったくって、若い男が走った。そのまま原付バイクに飛び乗った。
「あっ!」
奈々美は声を上げただけだったが、漣は素早く動いた。
動き出したバイクの前に、背負っていたギターをケースごと投げた。
バリッともグシャッとも形容しようのない、嫌な音が響く。
バランスを失ったバイクが電柱にぶつかって倒れる。
漣が走る。同時に、スキンヘッドの大柄な男性が走ってくる。
「逃げるな! 警察呼んだぞ!」
スキンヘッドの人が怒鳴った。
犯人はバイクを立て直して
その行く手を漣がふさぐ。
ほかに何人も駆け寄ってくる。
大勢に囲まれて、犯人は観念するしかなかった。
「お怪我はありませんか?」
奈々美は、おろおろとしていたおばあちゃんの肩を抱いた。その視界の隅に、自転車で走ってくる警官の姿が映った。
「あれ、奈々美ちゃん?」
スキンヘッドの人は、近くで電器店を経営している武藤さんだった。身長百九十三センチもある巨体の持ち主で、『ムーンウェイブ』のアディショナルタイムの常連だった。
*
交番で簡単な聴取を受けて『ムーンウェイブ』に着いたときには、三時を回っていた。犯人を逮捕できたのに、警官は「あんな危険なこと二度とするな。犯人が死にでもしたらどうするの?」と嫌味を言うばかりだった。
「……で、ギターが壊れちゃったわけだ」
なぜか、店に力哉がいた。姉もセカンドの小黒さんも出かけていて、サードの岩沢くんだけが火の番をしていた。麻紀さんもいなかった。
「見せてみて」
漣がケースを開けると、そこにあったのはギターの残骸だった。ボディもネックもバラバラに割れていて、行き場をなくした六本の弦があてもなくさまよっていた。
「こりゃ全損だ。修理のしようもないねえ」
「でも僕、これしかギター持ってないんです」
漣はあからさまに肩を落としていた。高校時代にバイトして買った、思い出のギターだったから。
「オーディションの応募まで、時間ないんだよな?」
そう言うと力哉は立ち上り、ちょっと待っててと店を出ていった。二十分ぐらいして戻ってきたときには、両手に二本のギターケースを提げていた。
「どっちか、好きなほうを使えばいい」
ベージュと黒。奈々美にはわからないけど、どちらも綺麗なギターだった。
「すげえ! どっちも弾きやすいです!」
漣はしばらくのあいだ、交互に弾き比べて試していた。ベージュのほうは丸みがあって豊かな音、黒のほうは研ぎ澄まされて鋭い音というイメージだった。
「こっちにします」
選んだのは黒だった。奈々美も、そのほうがいいと思っていた。
奈々美はその間、漣が友達から借りてきたカメラをセットして待っていた。揺れたり動いたりしないよう、たたんだテーブルクロスで固定して。
「漣、一回テストしてみよっか」
「じゃ、ワンコーラスだけ」
座った位置は、照明の当たり方も声の響き方もよかった。初めて使うとは感じられないほど、黒いギターも漣に寄り添っていた。
「このギター、ホントにいい。今までのやつには悪いけど、同じ曲を弾いてるとは思えない」
再生してみても、何も問題ないようだった。映像も音声も、ちゃんと撮れている。
「じゃ、もう一回テストして、次に本番ね」
奈々美が言うと、背後から声がした。
「何の撮影をしてるんですか?」
知らないうちに、上の『十六夜劇場』の深雪さんが立っていた。いつものように、食器の返却に来てくれたらしい。
「この漣くん――私の友達なんですけど、オーディションに応募するんです」
奈々美が答えると、深雪さんは胸元で小さく拍手する。
「私、聞きほれちゃいました」
「いつも駅前で歌ってるの、聴いたことないですか?」
「私は車で通ってるから、駅は使ってないんですよ……それで、あの」
「はい?」
「うちのスタッフを呼んで、聴いてみてもらってもいいですか?」
そうしてやってきたのは、『十六夜劇場』の三人だった。舞台の
それだけ見知らぬ人に囲まれた状況でも、漣は委縮することなく伸び伸びと声を出していた。二曲目のテストも上々だと思って再生してみると、三人のおじさんが並んで覗き込んでくる。
「お嬢が俺たちを呼んだ意味がわかったよ」
おじさんたちは、深雪さんを「お嬢」と呼んだ。
「五時まで、舞台は空いてるもんな」
「いくらなんでも、この音は残念すぎる。ギターと声のバランスも悪い」
「光だって、きちっと当てりゃ表情も浮き立つわな」
――なになになに?
驚くひまもなく、深雪さんがおごそかに宣言する。
「よかったら、うちの舞台で撮影しませんか?」
突然の話に、奈々美は目をパチクリさせた。漣は、ポカンとした顔でつぶやく。
「いいんですか? でも……」
「料金なんかいりません。いい音楽を奏でる人の力になりたいだけなので」
理解できずに固まったままの漣の肩を、おじさんたちがたたく。
「今でこそ俺たちはこんな芝居小屋にいるけど、これでも昔はバリバリの音楽屋だったんだ。ずっと仲間でやってきて、三人ともコンサートだけで二千回以上の場数を踏んでる。PV並みに凝ったのは無理にしても、ここで一発撮りするよりはマシなもん作ってやるから、俺たちに任せとけ」
十分後、漣は劇場の舞台にいた。バックは黒。中央に置かれた銀色のスツールに腰かけて、頭上からスポットライトで照らされていた。漣自身と曲のイメージをやわらかく引き立てるようにと、アンバーという茶系の色が薄くかけられていた。そして三十分後には、一枚のディスクが手渡されていた。
「お前さん、いい曲書くなあ。ギターのアレンジも絶妙だよ」
「マイク乗りのいい、力強い声だった」
「デビューしたら、真っ先にうちでライブやれよな」
三人のプロフェッショナルに見送られて、漣は照れくさそうに笑った。何度も何度も頭を下げる姿が、本当にうれしそうだった。
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