§06 やめることをやめようよ

 奈々美は走っていた。寒空のなか、全力で。白い息を切らして。


〔やっとできたよ! 今から聴きに来る?〕


 弦巻漣つるまきれんからメッセージがあった。ずっと待っていた言葉だった。


 彼は、新曲の歌詞に行き詰っていた。

 何度書いても、書き直しても、目指すクォリティーに到達できなかった。


 その歌詞が、やっとできた。


 そう聞いたら、漣のアパートまで一目散に走るしかなかった。


「ていうか、マジで来たんだ?」


 なのに、玄関ドアを開けた瞬間、真顔で呆れられた。予想外の反応にムカついた。


「なんだよ。来ちゃいけなかったみたいな言い方して」

「ごめん。ホントはうれしい」


「なら、最初からそう言ってよ」

「そうだね。今のは、俺が全面的に悪い。だから――」


「だから?」

「一生懸命、心を込めて歌う。夜だから、大きな声は出せないけど」


 そう言って、漣は愛用のアコースティックギターを抱えた。


          *


 漣と知り合ったのは、ちょうど一年前の冬。


 冷たい風に流される低い雲を背にギターをかき鳴らし、アスファルトに自作の歌をたたきつけていた。吐き出された真っ白な息が、夜に浮かんでは消えていた。


 高円寺駅北口。ターミナルとも呼べないバスターミナルの真ん中にある島みたいな場所の一角が、彼の定位置だった。


 それまでにも、何度か姿を見かけたことはあった。でも、彼の歌が耳に入ることは一度もなかった。歩行者用信号が奏でるメロディーとか、高架を走り抜ける電車の音みたいに、街に存在するノイズのひとつとしてしか認識していなかったと思う。


 でも、その日は違っていた。太い杭みたいな何かが耳を貫いてきた。


 奈々美は彼の目の前に立ち止まって、一曲聴いた。次の曲が始まるときには、地べたに座り込んでいた。自分の声にも、傷だらけのアコースティックギターの音にもマイクを使っていなかったから、より近くで聴きたかった。


「君さ――」


 五曲目が終わったとき、漣は静かに話しかけてきた。


「最高記録だよ」


 金色に染めた前髪の奥で、切れ長の目が笑っていた。歌っているときの瞳に宿っていた激しい炎のようなものは、喋るときには姿を消していた。


「……何が?」

「通して聴いてくれた人なんて、皆無だったから」


 シャイな性格なのか、聴衆がいないことを自虐してるのか、漣はあまり目を合わせようとしない。


「そうなの?」


 間近でしっかりと見た漣の顔はどこか幼く、弱々しい感じだった。たぶん同世代だ、と脳が瞬時に判断したらしく、奈々美は敬語を使っていなかった。


「次、最後の曲。君は最初からずっと聴いてくれてたから、次のを最後まで聴いてくれたら……史上初の完走リスナーになる」


 漣は、寒さでかじかんだ手に息を吹きかけた。その息が小さく白く広がって、やがて消えた。この気温では、ギターを弾き続けるのはつらいのかもしれなかった。


「ちゃんと聴くよ。だから聴かせて」


 本心だった。漣は、照れたように目を伏せた。


「じゃ、俺の最新作にして最終作をやります」

「タイトルは?」


「まだ決まってない。仮タイトルならあるけど」

「教えて」


「明日には変えるかもしれない」

「いいよ。今この場で変更しちゃってもいいから、とりあえず教えて」


「んと……『ふたりになれない』」


 そう言うと、漣は静かなイントロを弾き始めた。

 静かで、切なくて、でも大きな波が押し寄せてくるような歌だった。


 漣には声量があった。一曲のなかで、さまざまな声色トーンを使い分けた。ほんの少ししゃがれていて、なのに高音部は透き通っていて、その両者が溶け合う歌には説得力があった。


 武骨さと丁寧さ。

 大胆さと繊細さ。

 きらびやかさと野太さ。


 そういった両極が渾然一体となって、迫力を伴って襲いかかってくる。とはいえ暴力的ではなく、あくまで優しさの範囲内で。


『俺と一緒にいても いつも君はひとりきり』

『君と一緒にいても いつも俺はひとりきり』

『ひとりとひとりじゃ ふたりになれない』


 切ない歌詞を振り絞るように歌う。


 こんな歌も、こんな歌手も初めてだった。人生初、音楽に鷲づかみにされた。


 漣が歌い終えたときには、奈々美の頬が濡れていた。真冬の風にさらされた目からこぼれた涙が、冷え切った頬を温かく流れ落ちたのがわかった。漣の歌は、魂だった。


「お金、入れる箱はないの?」


 言った瞬間、バカなことをしたと悔やんだ。でも遅かった。


「置いといたって、誰も入れないし」

「じゃあ私、どうすればいい……かな?」


「何を?」

「いくら入れたらいいのか、想像もつかないけど」


 こういうときにも、相場みたいなものがあるかもしれない。紙幣だと、風で飛んでいっちゃうかもしれない……なんていう思いがよぎっていた。


「いらない。気持ちだけもらっとく」

「でも……」


「うれしかったから。最後の日に聴いてくれて」


 漣は奈々美の気持ちを無視するかのように、ギターを片づけ始めた。かがんだ背中越しに、自販機が見えた。奈々美はホットの缶コーヒーを二本買って、一本を漣に差し出した。


「手。これで温めて」

「ありがと。これもうれしい」


 漣はしばらく缶コーヒーを両手で包み込むように持ってからプルタブを引き上げた。プシュッという音がして、飲み口から湯気が漂った。


「ねえ……ひとつ聞いてもいい?」


 ほぼ一気飲みに近い感じで、漣はゴクゴクと喉を鳴らした。そして奈々美を見つめて聞き返す。


「なに?」

「さっきから、あなたが言ってる『最後』っていうのは、もしかして今日でおしまいにするっていうこと? このストリートライブを」


 漣はもう一度缶コーヒーをあおった。飲み干した空き缶をつぶすように力を込めたけど、すぐに諦めた。


「俺、決めてたんだ」

「何を?」


「プロデビューを目指すのは、二十五までだって」

「だから?」


「今日、誕生日なんだよ。二十五の」

「あら奇遇。私も同じ年」


「……ぐらいだと思ってたよ」

「で、誕生日だから何なの?」


「やめるんだよ、音楽を」


 そう言ったとき、漣のおなかからグーッという低い音がした。


「おなか、すいてるんだ?」


 奈々美が笑いながら言うと、漣は照れくさそうにうなずいた。


「じゃ、私にお祝いさせてくれない? 歌への称賛も込みで、晩ご飯奢らせて」


 すると漣は迷わず、奈々美の背後を小さく指さした。ハンバーガーチェーンの赤い看板だった。


「もうちょっと、ちゃんとした食事のほうがよくない? 私、あんまりお金ないけど」

「いや、あれがいい。ダブルチーズバーガー」


「なら私もつき合う。でも、覚悟しといてね?」

「ん?」


「私、あなたが音楽をやめることをやめるよう、しつこく説得するつもりだから」


 こうして、奈々美と漣は親友になった。小説と音楽でジャンルは違うけど、同じ創作の道を目指す同志でもあった。


          *


「とりあえず、もう一年続ける」


 そう約束したのが、去年の漣の誕生日。一月二十三日。


 大事なギターを誰かにあげちゃうことも、これまで書き溜めてきた歌詞ノートを燃やしちゃうことも阻止できた。


 漣は、一番自信のある曲でオーディションに挑戦する。

 奈々美は、長編小説を書き上げて蒼穹社文学新人賞に挑戦する。


 そんな指切りから一年――。


「どう?」


 歌い終えた漣が、奈々美の顔を覗き込んだ。


「うん。いい。とってもいいよ……」


 言葉はそれしか出なかった。


「なら、よかった」

「何度も書き直した甲斐があったね」


 それぞれの募集開始が、二週間後に迫っていた。

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