§04 パンツはソファーの下に

 竹早憧夢は十三年前、大学在学中に執筆した『恋する心理学サイコロジー』で蒼穹社文学新人賞を受賞して文壇にデビューした。天衣無縫にして突飛な設定と展開の面白さに加え、正確無比にして変幻自在な筆致。何度読み返しても天才の二文字しか浮かばない弱冠二十歳の早熟さに、奈々美は今も嫉妬しか覚えない。


 受賞作は瞬く間に百万部を超える大ベストセラーになり、堂々テレビドラマ化もされた。しかし竹早憧夢は量産することをよしとせず、その後は『恋心こいサイ』を年一冊のペースで着実に刊行することを守ってきた。


 第九巻が発表されたのが、四年前。その翌年に出るはずだった第十巻は、これまで三年にわたって延期に次ぐ延期を繰り返したことになる。


「ちっくしょー! マジむかつく!」


 奈々美はまたクッションに八つ当たり。妙子が開いた掲示板には、竹早憧夢の悪口が刻々と積み上がっていた。


「あのときと同じでしょ?」

「うん……」


 惨状に目を当てられず、奈々美は早々にブラウザーを閉じていた。


〔スランプ長すぎ。竹早、終わったな〕

〔どうせ盗作野郎だし〕

〔出版停止がふさわしいヘボ作家〕


 そんな下品な文字なんか、見たくもなかった。


「でも、スランプなのは確かかもしれないよね」


 奈々美が雑に返したスマホをしゃなりと受け取りつつ、妙子が色っぽくつぶやいた。


「そんなことない。竹早さんなら、絶対にすごいの書くよ」


 と言いつつ、実は奈々美も心配でならなかった。


 竹早憧夢の不動の人気に影が差したのは、デビュー五年目のこと。『恋する心理学』第五巻と並行して書かれた本格推理小説第一作『アイ・ニード・ニート』が盗作だと疑われたことがきっかけだった。


 盗作元とされたのは、『アラン酢飯』と名乗る無名作家による同タイトルのウェブ小説だった。タイトルだけでなく、内容もかなり似通っていた。その情報は一気にネットを駆け巡ったが、やがて盗作騒ぎは言いがかりであることが判明した。『アラン酢飯』の『アイ・ニード・ニート』がウェブ小説サイトにアップされたのは、本家書籍のだったからである。


 ところがネット民たちは、いつまで経ってもお祭り騒ぎをやめなかった。検証サイトと称して、両作を徹底比較するブログが立ち上げられたりもした。


 竹早憧夢本人に対しても、名誉毀損か人権侵害に当たりそうな罵詈雑言の雨が降りやまなかった。


〔ドラマ版『恋する心理学』に出演した女優を孕ませた〕

〔高校時代の同級生に振られてストーカー化した〕


 間違い、妄想、デマに嫌がらせ。エトセトラ、エトセトラ……。


 火消しに回る人たちもいたけれど、ネットを駆け巡る情報のスピードはゴシップのほうが数倍速かった。


 やがて冤罪が晴れると、ウェブ版の『アイ・ニード・ニート』は小説サイトから削除され、『アラン酢飯』も姿を消した。しかし、事態を面白がる外野連中は引きも切らず、コピペされた作品があちこちのサイトに投稿されつづけた。


 となると、ネットでの話題は『アラン酢飯』とは誰なのかという点に移った。


 それには、竹早憧夢が蒼穹社文学新人賞を受賞した同年に佳作だったわしふみたけ三森みつもりぎんを筆頭に、何人ものプロ作家の名前も上がった。


『アイ・ニード・ニート』は、当時の社会病理を鋭く突いた意欲作だとの評価を充分以上に受けていた。しかし、盗作騒ぎのせいで売り上げが伸びず、大人気作家・竹早憧夢の本格推理小説第一作はベストセラーランキングに載ることもなく、書店の棚から静かに姿を消したのだった。


「あのとき、最悪だったじゃない? よってたかって竹早さんをコケにして……今回は、ああならないといいけど」


 頬を赤らめてセクシー度を三倍濃縮させた妙子が、ワインを飲み干した。先日の誕生日に、どこかの誰かから箱ごと豪快にプレゼントされたボルドーの高級品だ。


「でも、竹早さんはカッコよかったよね。ブログの宣言も優しかったし」


 当時、奈々美は高校三年生だった。それから八年が過ぎた今も、はっきりと文面を覚えている。


 ――――――――――――


 今回の出来事には、私も心を砕いています。

 何が起きたのかがわからず、戸惑っています。

 どう対処したらいいかもわからず、迷っています。

 でも、ひとつだけ確かなことを

 お伝えしておきたいと思います。

 いわゆる「犯人捜し」をしないでほしい。

 それが、私の唯一の願いです。


 ――――――――――――


 竹早憧夢がブログを閉鎖したのは、この直後のことだった。


「でもさあ……『アイ・ニード・ニート』の後に出した長編小説は、二冊とも売れなかったでしょ? 私もイマイチだと思ったし……」


「私は、どっちも好きだよ」


 竹早憧夢は、『恋する心理学』のシリーズ九巻に加え、その他に発表した長編小説が三作。合わせて十二作しか発表していない寡作だが、奈々美はその全部を愛していた。


          *


「ていうか……ひっどいね、それ」


 奈々美の今日は、散々な一日だった。


 ①真弘との恋が破滅した

 ②姉の店で、とんでもない悪魔に出会った

 ③竹早憧夢の新刊が発売延期

(④ソファーの下からパンツを発掘された)


 どれもこれも、気分は最悪。


 でも、このままじゃ眠れなかった。


 妙子に、④を忘却してもらう必要がある。抹消しなければ、いつまでも思い出して口撃される可能性があるからだ。


 ①と③は話したから、残る②の話題を振って妙子を煙に巻く作戦を自己発令。目論見は当たって、妙子はすぐに食いついてきた。


「でしょ? リリねえの勤め先じゃなかったら、暴れるところだったよ。そこらへんにあるお皿とかグラスとか、バンバン投げちゃいたいぐらいに」


 真弘にも腹が立ったけど、それ以上に許せない奴。


 ――その名は、蒼井力哉。


「今どき、そういうゲス男は減ってきたけどねえ……」


「なんか、厚顔無恥の上に傍若無人の服着てるみたいな感じでさ。根っ子が腐って脳ミソまで発酵してんじゃないかって思ったよ」


 妙子をアルコールで潰す作戦は、ほぼ成功。悪魔の話題で、パンツの件をサラッと忘れてくれそうだった。


「でもさ。草食男ばっかりなのも、女から見たらつまんないじゃん」

「それは程度問題だよ。あいつはアウト。確実にアウト」


「彼、イケメンなんでしょ?」

「うん」


 ――まずい。


「どれぐらい?」

「……日本人男性六千五百万人の頂点クラス」


「一度、見てみたい」


 ――ていうか、やばい。


「何よ、妙子」

「うん?」


 ――マジでやばい。


「まさか狙うの? あんなクズ」

「そういうドSの男って、実は中身がかわいかったりするじゃん?」


 ――やばいやばい。妙子の中の肉食女が覚醒しちゃう! この無限の魔力にかかったら、どんな男でも抵抗できないのに。ひとたまりもないのに。


「ていうか、奈々美ぃ……」

「なに?」


「今、私がその悪魔を落とそうと思ってる……とか考えた?」

「な……なに言ってんの。妙子はそんな魔性の女じゃないでしょ?」


 ――ホントは魔性の女そのものですけど。


「さすが、奈々美はわかってるね」

「トーゼンでしょ。私たち、つき合い長いし」


「私がいま考えてるのはね……」

「うん」


「奈々美に、ちゃんとした女になってもらいたいってことだけ。少なくとも、ソファーの下からパンツが出てきたりしない程度には」


 奈々美はしゅんとして、「すいません」と頭を下げるしかなかった。

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