§25 その時点で、すでに明確なポテンシャルがある

 ネットカフェの狭い椅子で眠って、誰もいない部屋に帰った。


 喉がカラカラに渇いていた。心が軋んでいた。


 シャワーを浴びた。ただ浴びたかった。


 そこにあった下着と洋服を身につけて『ムーンウェイブ』に着くと、深雪さんが劇場の看板を出していた。その日のイベント告知を手書きした、地面に置くタイプの黒板だ。


〔午後二時開演! 人気作家・妹尾樹里トークショー〕


 思わず、青いチョークで書かれた「質疑応答タイムもあります」という文言に目を奪われた。


「あ。奈々美ちゃん、おはよう」

「おはようございます」


 このトークショーを見たいと直感した。質問してみたいとも思った。


「この作家さんの本、読んだことある?」

「あります。主人公が女性刑事のシリーズものとか」


 何ごともなかったように話しかけてくる深雪さんに答えながらも、心はここになかった。


 ――私には、あなたに聞きたいことがある。


「面白い? 私、読んだことないんだよね」


 ――漣の部屋で、何してたんですか?


「恋愛ものもありますよ。心をグサグサえぐってくるタイプの」


 ――私、今まさに心をえぐられています。


「うへー! 私、そういうの苦手。恋愛ものは、軽く爽やかなのがいいなあ」


 ――そうですか。軽く爽やかに、漣の部屋に行ったんですか?


「このトークショー、どうすれば見られるんですか?」

「あれ。見たいの?」


「店。ちょうどアイドルタイムなので……」


 午後二時から五時まで、『ムーンウェイブ』は営業をしない。


「だったら、事務所に来てくれたら入場券あげるよ。後でおいで」


 ――でも、あなたに借りはつくりたくない。


 歯を食いしばって毒を飲み込む。すると、背後から声がした。


「深雪さん。お久しぶりです」


 たどたどしい発音。振り返ると、そこにいたのはブロンドのように明るく光る栗毛ロングの外国人女性だった。


「おー! オロールお帰りー! お父さんの具合はどうだった? 大丈夫?」


「はい。心臓の病気でしたのに元気なりました」


 彼女は『ムーンウェイブ』のウェイトレスで、お父さんの看病をするためフランスに一時帰国していた。心臓の血管に網を入れて広げる手術が成功したことで、再び日本に戻ってきたという。


「奈々美さんですか。私の名前はオロールです。マルセイユから来ました二十三歳です。マルセイユは、地中海の港町です。日本では、漫画家になりたいです」


 日本の漫画とアニメを見て独学したという日本語は、アクセントと文法が多少おかしいものの充分に通じた。


「作品、見てくださいますか。少しです」


 ページを開いた途端、奈々美はのけぞった。キャラたちがページから飛び出てくるんじゃないかと思うほどの画力だったからだ。


「オロール。これ……すっごいよ。感動的だよ。なんでこんなにうまいの?」

「大学でアートの専攻しました。でも日本語が上手じゃないから、フキダシと台詞が大変です」


          *


「奈々美、これ蒼井さんに届けてきてくれる?」


 ランチタイムが終わろうとする頃、凛々子が円筒形の容器を空中に掲げた。保温のできるスープジャーだった。


「なんで?」

「ひどい熱出して寝込んでるらしいのよ。何も食べてないと思うから、この玉子スープを飲ませてあげて」


「私が?」

「蒼井さんの家を知ってるの、奈々美だけだもん」


「えーっ」

「後でエビフライ食べさせてあげるから。ほら、行ってきて!」 


          *


 確か、このへん……と記憶をたどりながらマンションに到着すると、力哉は両方の鼻にティシュを詰めた姿でドアを開けた。


「妹か」

「はい。姉の指令で来ました」


 見るも無残。明らかに病人。頬がこけて目力がなく、髪には鳥の巣状に絡んだ寝癖。いつものイケメン力哉とは別の人物みたいだった。


「……寝る」


 そのままベッドに倒れ込もうとするのを、全力で阻止する。


「汗で濡れてるから、シーツ換えちゃいます」


 急いで作業して横たわらせる。おでこに触ると、湯気が出そうなほど熱い。止まらない咳と鼻水に、ひどい汗。


「服も着替えましょうか」

「いいよ」


「そのまま寝てればいいですから」

「よせ」


「ダメです。風邪引きます」

「もう引いてる」


 箪笥を探すと、パジャマも下着もすぐに見つかった。


「下着も替えますね」

「よせってば」


「……もしかして照れてます?」

「やばいからだろ」


「何か、やばいものでも隠してるんですか」

「やばいものなんかないけど、やばいだろ」


「そんなやばいものなら、見てみたいけど――」


 強引に脱がして、新しい下着を太ももまで上げる。


「見ませんよ。乙女の心臓に悪いですから」


 ――と。


「あっ!」

「えっ!」


「今、触ったろ」

「気のせいです。腰上げてください」


 布団の中、手探りでパンツをはかせるのはひと苦労だった。


「体温計はどこですか」

「ない」


 ちゃんと呼吸できないせいで、絶え絶えな声。汚れものを洗濯機に放り込んで、ベッドの周辺に散乱していたティッシュを拾い集めたときには三時を過ぎていた。


「あ……」


 トークショーのことを忘れていた。


 ――でも。


 ここから劇場まで、走れば十分。


〔鍵、借ります。また来ます〕


 眠ってる力哉に置手紙をして駆け出した。


 十年ぶりに全力疾走した。


 劇場に着いたとき、時計は三時二十九分を指していた。


「遅くなりましたっ!」


 入り口にいた深雪さんに目配せ。


「もう終わるよ?」

「まだです!」


 ホールからは、司会者の「そろそろお時間ですので」という声が聞こえていた。


「あの! 質問がありますっ!」


 そのままなだれ込むと、何百という目に注目された。でも、恥ずかしがってる場合じゃなかった。


「あら。走ってきてくれたの?」


 確か三十八歳か三十九歳。綺麗なライムグリーンのワンピースを着た売れっ子女流作家は、ステージから優しく声をかけてくれた。


「はい。騒がしくてすいません」

「そんなに慌てなくてもいいのに……まだ時間はありますから」


「ありがとうございます」

「で、ご質問は?」


「あの……スランプから脱出する方法はありませんか」


 渾身の質問だった。女流作家はしばらく「うーん……」と首を傾げてから、ゆっくりと話し始める。


「私、自分がいつもスランプだと思ってるんです。月に一日ぐらいは調子よくスラスラと書ける日があるけど、そんなときこそ異常だと。だから、抜けるべきスランプもない――というので、答えになってますか?」


「……はい」

「もしかして、今あなたは書けなくて困ってるの?」


「今、書いてる長編があるんですけど、ぜんぜん進まないんです。それで気分転換に短編を書いたら、どんどん長くなっちゃって……。こういうときは、どっちを書いたらいいんでしょうか」


 本当に悩んでいた。どうすればいいのか、見当もつかなかった。


「行き詰まってる長編というのは、何かの公募に出すつもりの作品ですか?」

「そうです」


「ちなみに、どこ?」

「蒼穹社です」


「あら。私の後輩候補だ」

「そうなれれば、いいですけど」


「短編のほうは? どこにも出すつもりはない?」

「今のところは、何も考えてなくて……」


「私だったら、長くなりそうな短編のほうに集中するかなあ? いったん詰まっちゃったものをこねくり回しても、いい作品にはなりにくい。だったら、今この瞬間に書けるものを書くのが自然でしょう」


「そうですか……」

「短編を書いてるうちに、行き詰ったほうのアイデアが浮かぶかもしれないし。とりあえず、できることを素直にやるべきじゃないかな?」


「あの……先生。私には書けるでしょうか」

「書けますよ」


「本当ですか?」

「だって、あなたは書こうとしている。その時点で、すでに明確なポテンシャルがあるんですから」

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