§22 君が佐倉くんだよね?
「じゃあ、これから垣原さんにひとつの依頼をします。といっても架空の依頼なんで実際にはやらなくていいし、きっぱりと断ってください。よろしいですね?」
なにやら始まったアディショナルタイムの寸劇に、カウンターにいた全員が注目する。もちろん、奈々美もそのひとりだった。
「わかりました」
気が引ける、もしくは面倒な頼みごとをすんなりと受け入れてもらえる方法はないものか、とホテルチェーン人事課長の垣原さんがつぶやいたのが発端。それに対して、いつもどおり力哉が早口の解説を開始したところだ。
「あそこの壁の絵が少し傾いてるの、見えますか?」
「はい、見えます。確かに傾いてますね」
三匹の子犬が描かれた絵。裏の留め金のせいか、右に傾く癖があった。
「行って、直してきてください」
「えっと……蒼井さん。私はここで断ればいいんですよね?」
「そうです」
「では……オホン。嫌です、お断りします」
「ご協力ありがとうございました。じゃあ今度は、垣原さんが断りにくくする――つまり、依頼者である僕の希望を通しやすくする話法を使って頼んでみます」
「そんな方法があるんですか!」
悪魔は迷いなくうなずく。例によって、ドヤ顔で。
「今やったように、〔絵の傾きを直してもらう〕という依頼を受け入れてもらいたいときに、相手の首を縦に振らせる誘導法が二種類あります。【ドア・イン・ザ・フェイス・テクニック】と【フット・イン・ザ・ドア・テクニック】のふたつです。名前が似通っててややこしいんですが、要は簡単。――垣原さん、そこのフォークを取ってもらえますか?」
そう言うと、悪魔は垣原さんの前にあったフォークを指さした。
「はい、どうぞ」
何の疑いもなく、垣原さんはフォークを手に取った。それを受け取った悪魔は、そのままフォークを壁に向けて言う。
「ついでに、あそこの絵の傾きも直してきてくれません?」
「……あ」
垣原さんは固まる。カウンターの常連たちも、全員そろって目を見開いた。
「わかりました?」
「あああ! なるほど! これは自然だ!」
「じゃ、休まず次にいきますが、また断ってください。――垣原さん、申し訳ないけど駅前のスーパーに行って豚バラ肉を買ってきてくれませんか?」
「いえいえ、遠いし嫌ですよ。お断りします」
「なら申し訳ないけど、あそこの絵の傾きを直してきてくれませんか」
垣原さんは再び固まった。そして、腹の底から絞り出すような声で呻く。
「おおお……そうか! こっちも自然だ!」
力哉は満足げに手を伸ばして、元あった位置にフォークを戻した。
「両者の違い、わかっていただけましたよね?」
「はい。お見事でした」
「以上が、ふたつの対照的な方法です」
「こんなに自然だと、誰だって簡単に誘導されちゃいますよ」
「はい。絵の傾きを直してもらうという主目的を通すために、まずはより簡単な依頼――今回はフォークを取ってくれという依頼でしたが、それを受諾させるのが【フット・イン・ザ・ドア・テクニック】です。その程度なら簡単……と相手は受けるわけですが、同時に『受けた』という実績ができている。それは依頼を断りにくくする心理の形成でもあるので、依頼者はすかさず主目的をもちかける。【段階的要請法】とも呼ばれる、古典的な方法です」
「なるほどなあ……。ついでだからやってあげるか、という気持ちにさせてしまうわけですね?」
「そうです。それとは逆に、まずはより難しい〔駅前まで行ってほしい〕という捨て球の依頼を投げるのが、【ドア・イン・ザ・フェイス・テクニック】です。拒否されることを見越して過大な頼みごとをして、相手が断った後で小さな頼みごとに切り替えることから、【譲歩的要請法】とも呼ばれています」
「いったん困難な提示をしてわざと断らせる……か。それなら、確かに相手も折れやすいですねえ」
「似たようなものに、【ロー・ボール・テクニック】というのもあります。これはいったんウソの好条件を示して相手に承諾させて、その後で条件を厳しくするという方法です」
「それ……ビジネスの世界でよくあるやつだ」
「一度承諾した以上、そこには義務感が生じている。つまり、条件が多少悪くなっても断りにくい状況に追い込まれている。これが、【承諾先取り要請法】とも呼ばれているテクニックです」
「ビジネスあるあるですよ。確信犯というか詐欺っぽいし、上から目線の印象もあるから、あまりタチがいいとは思えませんが……」
「確かにそうですね、気分のよくない話はやめましょう。――ところで、珍しい日本酒が手に入ったんですけど、試してみます?」
と、力哉は見覚えのある日本酒の瓶を取り出した。先日、奈々美が体を張って選んだ、山形の『まろら』だった。
「お、いいですねえ。いただきます。でもその前に、ちょっと行って絵の傾きを直してきてから飲みます」
*
「おう、こないだの君か。いらっしゃい」
アディショナルタイムのカウンターに並んでいるのは、左から垣原さんに武藤さんに栞さんに佐倉さん。いつものメンバーで貴重な日本酒を囲むように飲んでいると、入り口のドアが開く音がした。
「こんばんは」
――漣だった。
「珍しいな。君が来るなんて」
「いつも奈々美から話を聞いてて、楽しそうだから……来ちゃいました」
力哉は、笑ってるんだか緊張してるんだかわからない微妙な表情でカウンターに近づいてくる漣を気さくに呼び入れる。
「来ていいんだよ。遠慮するこたぁない」
「はい。お邪魔します」
「なんか緊張してる? そんな必要なんか一ミリグラムも必要ないんだぜ? なんてったって、ここは店名どおりの月並な洋食屋なんだからさ」
「でも、ただの飲食店じゃないですよね。変わり者の心理学者みたいなオーナーがいて、お客さんの相談をビシバシ解決しちゃってる……っていう」
いきなり話しかけられて、漣はダウンジャケットも脱がずに立ったまま。そこへ、力哉にも増して人懐っこい武藤さんが声をかける。
「よく知ってるなあ……。さては、奈々美ちゃんと相当に仲いいんだな?」
「まあ……そんな感じです」
「そりゃ聞き捨てならねえな。こういう、ひとり暮らししてる若い子っていうのは、俺たちからすりゃ娘みたいなもんだからな。親御さんの代わりに勝手に見守ってる自称・東京の父としちゃ、テキトーな野郎を娘に近づけさせるわけにゃいかねえ」
もちろんジョークだけど、巨体にスキンヘッドの武藤さんが強面ですごむと必要以上の迫力がある。
「俺、別に変なことは……」
「あははは。ごめんごめん、冗談だよ。ま、早いとこ上着脱いで座りな」
「あ……はい」
「で、そんな感じってのは、どんな感じだよ」
「奈々美が、俺んちにメシ食いに来たりとか……です」
「マジかよ? そんなに仲いいのか」
と、そこに栞さんが割って入る。
「はいはいはい。武藤さん、初めて来た子を脅してないで、早くイケメン君を座らせてあげなさいよ。あなたは、その外見だけでめちゃくちゃ怖いんだから」
「余計なお世話だよ」
「そんなこと言ってると、次のレッスンでしごくよ?」
「げっ、それは勘弁!」
ふたりが漫才を始めたことで、やっと漣は空いていた椅子に座った。
そのまま隣の席に体を向けて、さりげなく話しかける。その相手は、さっきから青い顔で縮こまっていた。
「俺、奈々美の友達の漣です。君が佐倉くんだよね?」
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