名古屋コーチン料理

現在の食卓に鶏肉や鶏卵が並ぶのも名古屋コーチンの存在があったからなのだ

キャベツ、餅菜、かりもり、天狗なす、みかわぽーく、菊、車えび。

愛知県の名産は数あれど、名古屋を代表する食材と言えば、その名に名古屋を冠した鶏の名古屋コーチンである。


名古屋コーチンは正式名称を『名古屋種』とする日本在来種の鶏で、羽毛は全体が同じ薄茶色をしていて、足は鉛色をしている。

肉は一般的な鶏肉よりも引き締まっていて歯応えに弾力があり、香りは爽やかなのだがコクが強く、噛めば噛むほどに溢れる旨味が特徴だ。

卵もブランド品として扱われていて、殻は桜色で白い小さな斑点がいくつかあり、黄身の盛り上がり、粘度、色が通常の卵よりも強く、栄養や旨味も高い卵である。

この卵は贈答用になると一つ100円を越える物も存在して、名古屋コーチンは肉だけ出なく卵にも人気があるのがよく分かる。


名古屋コーチンは名古屋市で古くから使われていた食材であり、今の名古屋市で鶏肉料理や卵料理が盛んなのは名古屋コーチンがあったからだと言われている。

商店街を歩けば至る所に鶏肉の唐揚げの屋台があり、居酒屋には必ずと言っていい程に手羽先の唐揚げがある。

味噌煮込みうどんには必ずかしわと呼んで鶏肉を入れるし、モーニングサービスには卵料理が付き、名古屋の古いすき焼きの食べ方に牛肉ではなく鶏肉を使ったひきずりという物がある。

他にも名古屋コーチンの出汁と卵で作られる玉子閉じラーメンや、名古屋コーチンの卵を使ったプリンやケーキや釜玉ラーメンといった物もある。


今や高級食材となっている名古屋コーチンだが、名古屋の人間にとって名古屋コーチンは牛や豚を使った料理よりも身近な物で、現在でも新しい料理が作られる程に親しまれている物なのだ。



しかし、この名古屋コーチンを元に鶏肉料理や卵料理が発達したのは名古屋だけではなく、日本中の鶏肉料理や卵料理が名古屋コーチンを元に発達したというのは知っているだろうか?

鶏肉料理だけではない。日本中の養鶏技術自体が名古屋コーチンのお陰で発達したのであり、現在の食卓に鶏肉や鶏卵が並ぶのも名古屋コーチンの存在があったからなのだ。



名古屋コーチンが誕生したのは明治時代初期。

廃藩置県によって職を失った元藩士が様々な産業に就く中、元尾張藩の海部兄弟と呼ばれる二人が、それまでは放し飼いが常だった鶏を鶏舎に入れて養鶏を始める。

海部兄弟の二人には養鶏の才能があったようで、今までは自然に任せていた餌を米糠や麦糠や魚屑などをすり潰して練った練り餌を使う事で鶏の肉質を良くし、狭い鶏舎でも育つようにと品種改良も行った。

元々鶏は気性が荒くて雄が二匹揃えば喧嘩が起きる物であり、狭い小屋の生活には向いていなかった。だが、海部兄弟は中国から仕入れた大きくて多産であるバフコーチンと比較的大人し目の地鶏をかけ合わせ、両方の特徴を併せ持つ新しい品種を開発したのだ。

着手から完成までに10年以上かかったのだが、この新しい品種は肉質が良く、卵もよく産み、強健でありながらも大人しいという特徴で『海部種』や『海部の薄毛』と呼ばれ、愛知県内で養鶏の人気種となり食卓へも並ぶようになった。


このため、名古屋では鶏肉と言えば名古屋コーチンの事を指しており、卵も名古屋コーチンの物を指している。

今では高級食材となっている名古屋コーチンだが、この頃は当たり前に食べられている食材だった。


名古屋コーチンの完成から数年後。同じく元尾張藩の藩士だった者が大阪や京都に出向き、海部兄弟が培った技術と名古屋コーチンを元に養鶏を始める。

狭い土地でも複数の鶏を育てる事が出来る技術と今までの鶏にはない育てやすさは大変重宝され、名古屋から来たコーチン種の鶏という事で、この鶏が『名古屋コーチン』と呼ばれるようになる。

名古屋コーチンは養鶏の技術を広げながら関西を始めとして日本中に広まり、その肉と卵が日本中の食卓に並ぶようになった。

TKGと呼ばれて親しまれている卵かけご飯も、鶏卵が手に入りやすくなったこの頃に広まった食べ方である。


そして明治38年。

海部種は日本家禽協会から国内初の「国産実用鶏」の公認を受け、通称ではなく正式に『名古屋コーチン』の名前が付けられる。

この時には既に名古屋コーチンの飼育は愛知県が管理するようになり、最高で年間100万羽以上の名古屋コーチンの雛が孵化されて日本中の養鶏場に送られていた。

名古屋コーチンの雛はそれぞれの土地で育てられ、その土地の地鶏としてブランド名を付けられて名物となった物もある。

明治後期から昭和中期までの日本の鶏肉と言えば名古屋コーチンの事であり、名古屋だけでなく日本人のほぼ全員が名古屋コーチンを食べていたのだ。


しかし数年後、日本中で食べられていた名古屋コーチンは海外から入ってきた採卵専用種、肥育専用種のそれぞれの鶏にその場を奪われ、廃れていく事になる。

特に肥育専用種のブロイラーの鶏は50日という短期間で成鳥となるため、その3倍の期間を要する名古屋コーチンは太刀打ちが出来なかった。

ブロイラーの鶏は名古屋コーチンが培ってきた養鶏技術を駆使し、日本の鶏肉の地位をも奪ったのだ。


こうして一時的に名古屋コーチンは姿を消しそうになったのだが、10年ほど経つと日本中で『名古屋コーチンの味が忘れられない』という声が挙がるようになる。

その声を聞いた名古屋市は名古屋市農業センター、養鶏農家、処理場、孵化業者、料理店等と協力して名古屋種改良研究会を立ち上げ、名古屋コーチンを復活させ、生産から販売に至る組織作りを行う。

その後、名古屋種改良研究会から名古屋コーチン普及協会が設立され、愛知万博でも愛知県パピリオンにて名古屋コーチンの普及を行い、再度名古屋コーチンの名を日本中に知らしめる事になったのだ。


以前は卵肉兼用種だった名古屋コーチンだが、現在は肉用名古屋コーチンと卵用名古屋コーチンの二種に分けて生産されており、それぞれに特化させる事で海外の品種に負けないよう反省と改良を行っている。



これが地鶏の王様と呼ばれる名古屋コーチンの歴史であり、日本の養鶏を発展させた海部種なのである。

名古屋の食文化は名古屋コーチンによって作られたものというのは間違いないが、日本の鶏肉料理、卵料理も名古屋コーチンが広まったからこそ作られた物なのだ。

料理だけではない。

ケーキに使うスポンジや、パンの生地にも卵を使うため、明治時代から続く食の西洋化にも名古屋コーチンは深く係わっていると言える。


又、鶏肉や鶏卵の栄養が日本人の平均寿命を延ばしたとも言われていて、健康のためには牛肉や豚肉よりも鶏肉を食べるように指導されている。


つまり、日本の発展は名古屋コーチンを産み出した名古屋に支えられた物なのだ。

名古屋コーチンが産まれなければ、日本の発展は無かっただろう。

名古屋コーチンは名古屋だけでなく、日本を代表する鶏肉なのだ。



今では生産量が年間90万羽まで復活した名古屋コーチンだが、それでも値段と量はブロイラーや海外から仕入れる鶏肉に負けている。

しかし、いつの日か、再度日本中の鶏肉を名古屋コーチンが占める日がやって来るはずだ。


私は待っている。名古屋コーチンが再度日本中の食卓に並ぶ日を。

私は待っている。名古屋の名を冠した食材が、再度日本中で親しまれることを。


その時こそ、名古屋コーチンは完全復活したと言えるだろう。

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