02

 三十分後、我が家の呼び鈴が鳴った。

 玄関の扉を開くと、そこにはゆっこさんがいた。変わらないパーカーにジーンズ姿。


 うぉお……確実にゆっこさんだ。本物だ。本当に本物か? 夢では。

 

「ちょ、ちょっと彩ちゃん?」

「はっ!」


 気がつけば私はゆっこさんの顔面を両手で触っていた。ゆっこさんがひょっとこみたいな顔になっている。


「す、すいません! 夢かと思ったのでつい!」

「彩ちゃん、変わんないね……。って言うか、ごめんね。こんな時間に泊めてなんて」

「いえ、それは良いんですけど、どうしたんですか? 急に」


 尋ねたいのはそんなことじゃなかった。山ほど聞きたい事はあるはずだった。

 でも急すぎて言葉が出なかった。多すぎて逆に思いつかなかった。


「何と言うかさ、転勤が決まってこっちに越してきたんだ。でも急すぎて家の片付けが全然終わってなくてさ、寝る場所もない状態で」

「はぁ……そっすか」


 私はなんとなく中身の伴わない返事をしてから、ブンブンと頭を振る。


「いやいや、そうじゃなくて」

 私は少し考えた後、ようやく疑問の一つを口にする。

「よくわかりましたね。私がまだここに住んでるってこと」


 学生時代と変わらないワンルームマンションに、私は住んでいる。

 会社までの交通が便利で、家賃も安いから。


「風の便りで聞いたんだ……なんて。本当は谷津やつ君に聞いたんだ。私、知ってる後輩って少ないからさ。知り合いの多そうな谷津君に聞いてみたら『彩さんならまだここらへんに住んでますよ』って」

「あやつめ。勝手な事を」


 口ではそう言ったが内心は真逆だ。

 よくやった、谷津。褒めてつかわす。


「ごめん、やっぱり迷惑だったよね」

「いえ、全然大丈夫です。それに……私もなんとなくゆっこさんの事、考えてましたから」

「私の事?」

「なんか、不意に思い出したんです。ゆっこさんの言葉。ほら、熱量の伴わない演奏が失敗とか言う話」

「そんな話したかな」

「覚えてないんですか?」

「うん。あんまり」


 なんだ。私は肩を落とした。結構印象に残っていた言葉だったからだ。

 まぁ得てして名言とは本人の意図していないところで成立するものだけれど。


「そう言や、漫画喫茶とかで泊まろうとは思わなかったんですか?」

 考えてみれば、いくら泊まるところが無くても知り合いにいきなり連絡するのは、やりすぎな気がしないではない。


「引越しで結構貯金がやられてさ。浮かせる所は浮かせようかなって」

 恥ずかしそうにゆっこさんは頭をかいた。話によると、ゆっこさんの会社では急な転勤などよくある話らしい。


「よく辞めませんでしたね」

「社会人だからね。そんな簡単に辞められないよ。生活もあるし。それに」

「それに?」

「なんとなく、うれしくなっちゃって。こっちに帰ってこれるのが」




 来客用の布団があってよかったと、心底思う。

 二年半ぶり……いや、もっとか。

 何の音沙汰もないと思ったら、急にやってくるのだからびっくりする。

 久々に会った、憧れの先輩。

 

 だけどゆっこさんはなんだか、学生だった頃に比べて話し方が変わってしまっていた。とがってない。丸くなった。

 あの独特のオーラも無くなった印象。

 大人になったって言ったら聞こえは良いのだろう。

 だけど、私は違うように思えた。


 何と言うか、すすけていた。

 社会にもまれてひよっていた。

 背中もなんだか小さく見えるし、顔つきも当初の精悍せいかんさがない。くたびれきっている。


 まぁ、当たり前か。もう学生じゃないんだから。

 すこし残念だったけど、それでも私はしっかり共感していた。

 大学を卒業した時に比べると、私だって後輩から同じように思われるに違いない。

 だって、私の顔も死んでるから。


 かつて、ライブをすると、無敵だという感覚が私を満たしてくれていた。

 でも実際は、私も、ゆっこさんも、無敵なんかじゃなかった。

 しっかり普通の人間だったんだ。


 ○


 仕事終わりにゆっこさんの家の片付けをして、また私の家に戻ってくる。

 ゆっこさんは結局、三日ほど我が家で寝泊りした後、出て行った。

 結構話した気がするけど、それほど踏み込んだ会話はしていない。

 今のお互いの生活がどうとか、会社がどうとか、とりあえず空白の期間を埋めるだけで、あっと言う間に一緒に居られる時間は過ぎていった。


「ごめんね、三日間もお世話になっちゃって」

「いえ。私も久々に会えて楽しかったです。また来てください」

「うん、あんがと。近所だから全然遊べるね。あ、そうだ、彩ちゃん」

「なんですか?」

「今度、スタジオ入ろうよ。楽器、続けてるんでしょ? 私もなんだ」

「え? ええ、大丈夫ですけど」急だな、と内心思う。


「多分私さ、こっちに帰ってきたの、音楽の思い出が捨て切れなかったからだと思うんだ。夢半ばって言うか、こっちに戻ってきたらどうにかなるって思ったんだよ。社会人やって、すっかり私も弱っちゃったからね。だからさ、久しぶりに誰かと合わせたいんだよ。それに、楽しいじゃない、音楽」

「ですね」私は少し笑った。


 ゆっこさんがいなくなった部屋は、何だか静かだ。それまでずっと一人だったはずなのに、改めて実感させられる。

 私はなんとなく部屋の片隅に置かれているスティックを手に取ると、スタンド付きのゴム製パッドをベッドの前に持ってきた。

 ベッドに座り、おもむろに軽いハンドワークを行う。


 二分、四分、三連符、十六分、五連符、六連符のチェンジアップ。


 ドラムの練習は、こんなしょぼいマンションでは致命的なくらい響いてしまうのだが、なぜかこのベッドの周囲の床は音が響かないように出来ていた。骨組みがちょうど下に走っているのかもしれない。深夜に練習してもクレームが来た事はない。


 コトコトと、スティックが跳ねる音がする。

 リバウンドを拾うのがコツだと学生の頃誰かに教えてもらった。

 バスケットボールをドリブルするように、とんとんとん、と跳ねるように音を繋いでいくのだ。叩くって言うより、落とすに近い。そうやって音を出していく。余計な力はいらない。上手くなればなるほど、力は抜けていく。

 自分が限界まで力を抜いていると思っていても、もっと力は抜ける。そうやって力を抜く感覚を覚えないと、速いドラムは叩けない。


 習慣みたいに、ずっと練習だけは続けていた。なんだかやらなきゃダメな気がしてならなかったのだ。

 たぶんゆっこさんも同じだったのだろう。

 自分の軸をどこかに作っておかないと、生きている気がしなかったんじゃないだろうか。

 少し大袈裟だけど。

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