02

 向かいの席には先ほどの女子がデンと私に向かっている。急に飲みになんて誘って、怒っていたらどうしようと不安になっていたけれど、意外と相手の機嫌は良さそうだ。

 私は青りんごサワーを頼んだ。毒々しい色合いの、ジュースみたいな臭いを発した飲み物が、私の前にたたずんでいる。


「じゃあ、出会いに祝して、かんぱーい」

「あ、乾杯」


 暢気のんきな物だ。先ほどはベースを首になってあれほど荒れていたのに。切り替えが早いのだろうか。

 彼女はぐっぐっとビールを流し込んだ後、うっはぁとおじさん臭い声を出した。


「やっぱスタジオ終わりのビールは最高やなぁ」

 そんないい笑顔を見せられては、思わず私もビールを飲みたくなってしまう。

「改めて、うちは和久井冴わくいさえ。パートはベース。さっき半年やってたバンドをクビになりました。以上」

「えっと、聞いていいのかわかんないんだけど、何でクビに?」

「バンドの音楽性が合わないって言ったら、カッコええんかな」


 音楽性の相違による解散か、なるほど。

 私が勝手に納得していると相手はちゃうちゃう、と手で否定してきた。


「性格が嫌なんやって」

「性格?」

「うっさいって」


 確かに騒がしい人だとは思ったが、それほど許容できない物だろうか。

 疑問に思っていると彼女は言葉を続けた。


「練習が厳しい、指摘が多い。全員そろってスタジオ入る時間って限られるし、コピーバンドであれ、オリジナルバンドであれ、個々のパートは家で完成度を上げて、スタジオでバンドのクオリティを詰めてくのが普通やろ? 練習して来いひん、遅刻はする、おまけにその事を悪びれもしてなかったら、メンバーとして怒るのは普通やろ」

「あぁ、そういう『うるさい』」

「そや。何? うちが喋りすぎてうっさいからクビにされたと思ったん?」


 訝しげな表情をする和久井さんにごまかしは通じなさそうだ。私は素直にごめんと頭を下げた。


「まぁ、少し」

「心外やなぁ」

「ごめんって」


 そこでいたずらっぽく笑っている彼女に気がついて、私は別段自分が責められていない事に気がついた。


「それで、あんたは?」

「私?」

「自己紹介」

「ああ、えっと……」


 言おうとして、困った。自己紹介って、一体何を言ったらいいだろうか。


 生い立ち? 

 ドラムを始めたきっかけ? 

 それとも自分の性格? 


 正解なんてないんだろうけど、何故だか彼女には変な事はあまり言いたくなくて、むしろ余計な言葉は必要ない気がして、どうすればいいのか迷った。


「えーと、豊崎彩。ドラムをしていて、歳は二十四で、社会人二年目……だった」

「だった?」

 相手はビールを口に運びながら不思議そうに目を見開く。何故だか責められているような気がして、私は思わず目を逸らした。


「やめちゃったんだ」

「何で? 仕事が辛かったとか」

「いや、上司殴って」

 ブフッと和久井さんがビールを噴出した。

「何で殴ったん?」

「その……ちょっとムカついて」

「自分、おもろいな」


 そういう和久井さんは本当に愉快そうに肩を揺らした。


「やっぱあんたがええと思うわ」

「え、何が?」

「バンド。うちと組まへん?」


 うすうす来るとは思っていたけれど、実際その言葉を耳にするとどきりとする。

 バンド。再びそんな物に誘われる日が来るなんて。


 でも、どこかでずっとやりたいと思っていた。音楽を。


 仕事を辞めた日、私は確かに思ったのだ。

 バンドをやろうと。

 その考えだけがポンと頭に浮かんできたのだ。


「あんたとやったら、すごい事が出来そうな気がする」

「ギターに誘いたい人がいるんだけど」

「えっ?」


 返事をする前にいきなりメンバーの話をしたものだから、和久井さんは虚を衝かれたような顔をした。

 そこで、店の入り口が開く。やってきた人に、私は手を上げて居場所を伝える。


「彩ちゃんごめん、遅くなって」ゆっこさんは言うと、和久井さんに視線を向けて少し困惑した表情になった。「こちらは?」

 私はゆっこさんの手を引いて、無理やり隣に座らせると、和久井さんに向かって言った。

「ゆっこさん、こちらはベースの和久井さん。で、こちらは私の尊敬し、推薦するギタリスト、木村裕子さんです」

「えっ? 彩ちゃん、どういう事?」


 明らかに困惑しているゆっこさんは、なんだかおろおろしている。

 違う。昔はそうじゃなかった。

 学生時代のゆっこさんに今と同じ事を言ったら、斜に構えたように笑うに違いない。


 クールで、冷静で、ステージでは熱くて、いつも何か遠くを見つめていたかつてのゆっこさんは、今やもう普通の人。

 私だってそうだ。学生時代にかけられた魔法は解けてしまっている。

 多分ゆっこさんも、私と同じように色んなことをバキバキにされてしまったのだ。色んなものがひしゃげて、それでも必死にやってきた。


 だからこそ、私は今のゆっこさんとバンドが組みたかった。

 今の私は、今のゆっこさんがよかった。


「ゆっこさん、私、会社辞めたんです」

「えっ?」なんで、と言わんばかりの顔。

「上司殴ったんやって」和久井さんの言葉に私も頷いた。

「右ストレートで吹っ飛ばしました」

「そんな、じゃあどうするのさ? これから」

「バンドします。このベースの和久井さんと」

「冴でええよ」

「冴ちゃんと。脱サラしてガチバンしちゃいます。だからゆっこさん。私たちのバンドのギターやってください」

「ええ?」


 ゆっこさんは、よく分からないと言う表情をしている。当然だ。後輩と飲むつもりで居酒屋来たら、勝手にバンドに入れられていたのだ。意味分からないだろう。

「わかってます。今すぐ返事をしろって事じゃないんです」

 実際私だって、つい一時間も前にはこれからどうしようなんて思っていて、宙ぶらりんの状態だったのだ。


「でも私は、ずっとゆっこさんに憧れてました。部活に入ったのもゆっこさんを見て入りました。結局やる事になったのはギターじゃなくてドラムだったけど……それでも私はゆっこさんとバンド組みたいって、ずっとずっと、思ってたんです」

「でもね、彩ちゃん。遊びで合わせたりは出来ても、昔みたいに本気でバンドは出来ないよ。それに、バンドのために仕事を辞める事だって、もちろん出来ないし」

「仕事は辞めなくても大丈夫です! それに、本気でバンド出来ないかどうかなんて、やってみないと分からないじゃないですか!」


 諭す様に、落ち着いた物言いをするゆっこさんの姿を見て、少しムキになっている自分がいた。何でやろうとする前から諦めてしまうのか。

 まぁ、とは言え、私もそうだったから、その気持ちは分かるのだけれど。今の私は、会社を辞めたことですっかり勢いがついてしまっている。しぼんだ心に、火が灯されているんだ。


 私は多分ゆっこさんに、自分自身の姿を見ていた。

 何かを諦めて人生の落とし所を探るだけの日々に生きる自分。

 そんな自身の姿を今の彼女に。

 共感してしまっていると言っても良いかもしれない。


「やってみましょうよ、ゆっこさん。やってみて、ダメだったら他のあてを探します。でも、まだやりもしてないのに無理だなんて、そんな事言わないでください」

「困ったな……」

 

 ゆっこさんは頬を掻いた。私をどう説得したら良いだろうと、そう思っているかもしれない。

「ちょっとストップー。彩、ちょっとトイレいこか。すんませんねぇ」


 不意に向かい側に座っていた冴が私の腕を掴んでトイレに引っ張る。

 いきなり呼び捨てにされるのも、トイレに引っ張られるのも、予期していなかっただけに抵抗できなかった。

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