03
手洗いの前、大きな鏡を前にして、冴は怪訝な表情を向けてくる。
「あんた、ほんまにあの先輩誘うんか?」
「うん」
「典型的なひよった社会人やん。あれ。それにやりたくもなさそうやし」
「ひよってるのは知ってる。でも、やりたくないのは間違ってる」
「えっ?」
あの人じゃなきゃダメなのだ。
私はゆっこさんがいい。ゆっこさんじゃなければ、仕事を捨ててバンドする意味がない。また仕事を見つけて、無為に日々を過ごすほうが良い。
「あんたはどうなん? うち、適当に誘ったけど、ホンマにバンドするって言う意思は固いん?」
「適当だったんだ……」
「あんなもん、勢いないと言えへんやろ、普通」
それもそうか。
「私は、ちゃんとバンドしたいよ。しようって思ってた。だけど、ギターはあの人じゃないと、やりたくない」
「わかった。せやったら、うちは譲歩する」
「譲歩?」
席に戻ると、ゆっこさんの飲み物が届いていた。何だか良く分からない乾杯をして、飲み物を軽く飲む。
周囲の楽しそうな喧騒とは裏腹に、この席の空気は少しばかり重い。沈黙に耐えかねたのか、ゆっこさんは静かに口を開いた。
「彩ちゃん、ごめん。私、やっぱりバンドは出来ない。私は、二人みたいに仕事をやめてまで音楽に走る気はないし、その覚悟もない」
そんな覚悟、私だってない。
今の私は、勢いだけで動いてるんだ。そんなの自分だってわかってる。
それでも、数年越しに想い続けた行動にようやく自分が動き出せている。だから出来るなら、最後までやりたい。巻き込み事故でも良い。ゆっこさんを誘うだけ誘いたい。
「熱量が違うと、絶対バンドは良くならないよ」
だからそんな、大人みたいな事言わないで。ゆっこさん。
ゆっこさんの目はまっすぐで、そこには確かに意思が感じられて、ゆっこさんを誘おうとしているのは単なる私のエゴで、実際そうなのかもしれないけれど、自分がやってはいけない事をしている気がしてきて、だんだん目線が落ちてきてしまう。
「じゃあ、サポートは?」
冴の発言に、私とゆっこさんは顔を上げた。
「サポートでええからやってくれへん?」
「でも……」
「ゆっこさん、さっきバンド誘った時、私、見たんです。一瞬だけ嬉しそうな顔したのを。ゆっこさん、まだバンドが好きなんですよね」
ゆっこさんは少し俯いた後「嫌いになるわけないじゃない」と顔を背けた。
「嫌いになんてなれないよ。大学の頃はギターばっかり弾いてて、いつも好きなバンドの曲を聴いてた。音楽の事ばっか考えてたんだ。音楽に救われた事だって何度もある。
卒業してからもバンドを続けようとすら思ってたし、組もうとした事だってあった。
でも、予定時刻に仕事が終わった試しなんてなくて、毎日家に帰ったらふらふらで、家の事こなして、気がついたら寝ていて。休みの日は急な休日出勤。無理なんだよ、私の仕事じゃあ、バンドなんて」
「無理じゃないです。無理かどうか、やらないうちに決めないでください、ゆっこさん」
「彩ちゃん……」
「曲はうちが作るし、ライブは確実に休めるって日にねじ込む。バンドって、話し合って決めるもんやで。やる前から諦めてたら、絶対後悔するやん。一回やってみようや」
「でも、サポートに左右されることになるかもしれないけど、良いの? 本当に」
「良いんです。私たちがそれで良いって言ったら、良いんです」
私は多分顔を輝かせていた。思わず手を掴んでいた。
「……ありがとう」
まるで心の声が口からもれ出たように、ゆっこさんはすごく小さな声でそう言った。
喧騒にかき消されそうだったけれど、その声は確かに私たちに届いた。
「ずっとギターは続けてた。でももうちゃんと音楽をすることなんてないって、そう思ってた」
たぶんゆっこさんはずっとそうやって自分に言い聞かせていたのだ。
ゆっこさんは音楽を知っている。バンドの性質を知っている。だから生半可な気持ちでやろうとしなかったんだ。
冴はきっと、そのことが分かっていて、だからずっとハードルを低くした。気軽に参加してくれていいんだよって。
小さな居酒屋の一室で、こうして私たちはバンドになった。
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