死神と逃亡者
あの、もう帰ってもいいですか、と美咲は問いかけた。目の前にいる黒いスーツの男二人は、なにが起きたのかと言わんばかりにきょとんと美咲を見つめている。
男たちのうち一人は美咲より遙かに年かさで、もう一人は美咲より少しだけ年かさだ。二人は怪訝そうにしばらく顔を見合わせていたが、ややあって、遙かに年かさの方が美咲に問いかけてきた。
「なにか、予定がおありで?」
なに、といわれても……と、美咲は返答に窮する。別に急用ではない。しかしなるべく早く帰りたいという欲求はかなり強かった。
「弟が……早く帰って、ご飯を作ってあげたいので」
とたん、少しだけ年かさの男の方が目を見張って何か言い掛かる。それを制して遙かに年かさの男の方が美咲をのぞき込んできた。その口から出てきたのは、美咲が望んでいない言葉である。
「相当、お疲れのようですな」
確かに疲れてはいるが、相当というわけではない。それより今は早く帰って、弟にご飯を作ってあげたいと言っているのに。この男はいったい、何を言っているのだろう。
しかし、男は眉をひそめた美咲の反応など気にせずに続けた。
「今度、カウンセラーを紹介しましょう」
「は? ……はあ、ありがとうございます」
カウンセラー? 私の疲れは心の疲れだとでも言うのだろうか。
……やっぱり、よくわからない。若い方が何か言いたそうにしているのを、年輩の方が先ほどと同じように制して、手のひらで出口のほうを指し示す。
「今日のところはお帰りいただいて結構です。また何かあれば、ご自宅におうかがいすることもありますので」
「わかりました……失礼します」
いったい、何があってこの男たちは家に来るというのだろう。さっぱり訳が分からない。
美咲は首をひねりながら指し示された扉をくぐり、帰途についた。
スーパーで買い出しをして、荷物を抱えて玄関のドアをくぐる。両親が残してくれた唯一のより所は、あの魂を圧迫するような男たちがいる場所と比べて、心からリラックスできる、美咲にとって唯一の城であり楽園だ。
美咲は靴を脱ぎながら、部屋の中へ向かって声をかけた。
「ただいま嗣臣、遅くなってごめんね」
すぐに、暗がりの奥から声が返る。
「お帰り姉さん。おなかすいたよ」
姉が帰ってきてそうそうにご飯をねだるなんて。まったくこの子は。
唯一の家族である弟の声に、美咲は苦笑した。
「はいはい。今ご飯作るわ。少し待っててね」
言いながら、ダイニングキッチンの明かりをつける。手早く冷蔵庫に買い込んだ食料をしまい、流れるような動作でエプロンをつけていると、弟が問いかけてきた。
「今日はなに? カレー? ハンバーグ?」
この選択肢の幼さ。美咲の唇からまた苦笑が漏れた。
「いつまでも子供っぽい味覚なんだから」
体ばかり大きくなって、なのに少しも幼い頃と変わらず自分を慕ってくれる弟の嗣臣。この子は私の宝物だ。
ただ、その宝物は姉の言葉を文面通りに受け取ったらしい。いくらかふてくされたような返答があった。
「仕方ないだろ、姉さんの作るハンバーグもカレーも好きなんだから」
長いこと煮込んで味の深みが増したカレーも、挽き肉とつなぎのパン粉の配分が絶妙のハンバーグも、全て母親からの直伝だ。嗣臣はその味を好きだと言ってくれる。よかった、と思いながら、美咲は下拵えを始めた。
「で、どっちなの。カレー? ハンバーグ?」
「うれしいけどどっちでもないわ。今日は豚の生姜焼き」
「お、やったね。それも好物」
なんだ、と落胆されるかと思ったが、これはこれでうれしいようだ。それともうれしいと言うより、落胆したら美咲に悪いと思ったのだろうか。
「調子良いんだから。……」
軽口をたたいて視線をあげた瞬間、くらりとめまいがした。ずきん、と頭が痛んで、思わず額に手をやる。洗ったばかりの野菜を切った指先は、水の温度を引き受けて冷たくなっていた。……それで少し、気分が良くなる。弟の声が心配そうに低くなった。
「姉さん、どうしたの。風邪引いた?」
「何でもないわ。少し疲れてるのかな……」
あの男が言っていたように、本当に少し、疲れているのだろうか。……カウンセリングでも何でも、受けた方がいいのだろうか。
……いや、いやいや。
美咲は頭を振ってその考えを打ち消した。
大丈夫。私が倒れるわけに行かないし、嗣臣を心配させたらいけない。カウンセリングなんて受ける必要、ないはずだわ。
嗣臣の心配そうな声が、また聞こえた。
「俺、何か手伝おうか」
心配をかけている。心配してくれている。
それがうれしかったから、美咲は冗談で返した。
「ありがとう、でも遠慮するわ。だってあなた大きくて、逆に私がキッチンに入れなくなっちゃうもの」
なんだよそれ、と抗議する弟に笑いながら、エプロンで手を拭い、そばにあったリモコンでテレビをつける。ちょうど夕食時のニュース番組が、無表情に何かの事件を報じていた。
『続いてのニュースです。
先週○○市の住宅街にある公園で男性が刺殺された事件でーー』
美咲は顔を上げた。○○市といえば、美咲たちがすんでいるこの街だ。殺人事件。そんな事件があっただなんて。
「怖い……うちの近くじゃない」
「……あ、ああ。そう……だね」
思わず呟いた言葉に応える弟の声がぎこちない。それどころか、被害者の名前と顔写真がでる前にテレビの電源を切ってしまう。何かこの事件で思うことでもあるのだろうか。
にわかに心配になった美咲は、弟に声をかけた。
「……嗣臣?」
「……大丈夫。何でもない。……ちょっと、部屋にいる」
大丈夫ではない声だったが、こういうとき弟は、何を言っても何でもないとしか言ってくれない。美咲は息をついて、なるべく気にしていない風を装うと、いつも通りの口調で声をかけた。
「できたら呼ぶわ」
その言葉に、嗣臣の申し訳なさそうな声が返った。
「うん、ありがと姉さん」
嗣臣は逃げるように部屋へ戻り、ドアを閉じた。その扉に背を預けて大きく息をつく。事件から1週間。捜査が進展している様子はない。よかった。嗣臣が胸を押さえていると、それは突然聞こえてきた。
「……いつまでそうしているつもりだ」
部屋の中からだ。慌てて顔を上げる。いつも通りの自分の部屋があった。しっかり掃除されてはいるけれど、ずっと片づけられていない部屋だ。その部屋の中に、声の主はいた。
男だ。いや、男ではないかもしれない。黒ずくめの上下に土気色の肌。部屋の真ん中にたつその体はまるで今し方水からあがったばかりのようにぐっしょりと濡れている。思わず嗣臣の唇から、妙な悲鳴が漏れた。さらに後ずさろうとするも、既に背中が扉に当たってしまっている。
ずぶぬれの人影はそんな嗣臣の動きを観察しながらもそのことについては何も言わず、もう一度、同じ調子で問いかけた。
「……いつまでそうしているつもりだ」
嗣臣は逃げようとするのをあきらめ、人影に敵意のこもった目を向ける。威嚇するようにうなった。
「人の部屋に勝手にはいるなよ」
しかし、人影の声は変わらず同じ質問を繰り返す。
「……いつまでそうしているつもりだ」
いつまで。
3度目のその言葉に、嗣臣は人影から視線を逸らす。いつまで……いつまでこうしていられるのだろう。
「おまえがいるべき場所はここではないはずだ」
嗣臣が質問に反応したのを見て取ったか、人影は静かにそうささやく。それで、嗣臣は人影の正体を察した。
「俺を、捕まえにきたのか」
「そうだ」
問いかけには明確な肯定が返る。とたん、嗣臣はさらに人影から離れようとドアにすがりついた。
「い、いやだ」
「……では、いつまでそうしているつもりだ」
人影の言葉が最初に戻る。嗣臣は頭を振った。いつまで。そんなの決まってる。ずっとだ。ずっとに決まってる。
男は一歩、嗣臣に近づいてきた。つんと、夏のよどんだ水たまりのにおいが鼻を突いた。
「……いつまでそうしているつもりだ」
また、同じ問いかけだ。嗣臣は捕まりたくない一心で必死に頭を振り続ける。階下にいる姉に助けを求めようとドアノブに手をかけて、しかしその瞬間、手が止まった。
「……無駄だ。おまえの本当の声は最早姉には届かない。
……既に死んで、一度冥府へ導かれたおまえがどれだけ叫ぼうと、な」
そのとたん、嗣臣の肩が大きく震えた。
「結城嗣臣。享年22。フリーター。死因、失血性ショックによる心停止」
人影はどこからともなく取り出した票を読み上げる。
「先週27日22時56分、冥府にて鬼籍への記載を確認。即時拘引、送検。のち、拘引者の目を盗んで逃亡。……間違いないな」
「ち、違う……俺じゃない。俺は違う……」
嗣臣は激しく頭を振ったが、人影の視線は一切揺るがなかった。
「逃亡の目的は何だ」
「……だから」
問いかけにしらを切ろうとしたが、人影の鋭い視線に言葉が詰まる。震える息を吐き出し、嗣臣はうなだれた。
「……認めるな、自分が結城嗣臣であるということを」
嗣臣はうなずく。ぐるぐると、1週間前に起きたことが頭を巡っていた。確かに彼は1週間前、出血のために命を落としたのだ。そして一度は冥界へ嗣臣を死者だと言い、認めさせた人影は、その様を黙って見つめていた。
「もう一度聞く。……逃亡の目的は」
胸に突き刺さるナイフの感触。引き抜かれてあふれていく命、取り縋って泣く姉の体温。それらをいっぺんに思い出し、人影……いや、死神の声に思わず口元を抑えせり上がってきたものを押さえ込む。だが同時に、恐ろしく暗い感情が頭の中に渦巻き、それとは別のルートを通って自分ののどをふるわせ始めるのを、嗣臣は感じていた。
「……ふっ、くくっ、っははははは……」
「何がおかしい」
表情の見えない死神の詰問。黒い感情が嗣臣の口を割ってあふれ出した。
「……何が目的か……だって。そんなの決まってる。姉さんを一人にしないためだよ」
嗣臣の両親は嗣臣が中学校に上がる前に事故で他界した。当時高校へ通い始めたばかりだった姉の美咲はすぐさま学校を辞めざるを得なくなり、しかしそれでも、苦心して働き、嗣臣を高校までだしてくれた。嗣臣だけでなく、美咲にとっても、お互いが唯一の家族だ。
だが嗣臣にとっては、それだけではなかった。美咲は姉であり、母代わりであり……そして、許されない感情の相手だった。姉さんを守れるのは俺だけだという嗣臣の使命感が、知らぬ間に名前を付けられない歪んだ感情に発展していることを、おそらく美咲は知らないだろう。
一週間、嗣臣はひたすら姉のそばにいた。そばにいて、姉に何度も話しかけた。自分を喪って悲しむ姉を少しでも安心させたいとずっと訴え続けた。姉は彼が帰ってきていることを察したようだが、それでも彼の言う言葉をしっかりと聞き取っていないのだろうと言うことは、何となく理解できた。どうして聞こえないのか、なぜこうも隔たっているのかと、暗い感情に泣き出しそうになったことも。怒り出しそうになったことも。それでも、嗣臣に姉をあきらめるという選択肢はなかった。
「俺には姉さんしかいないんだ。姉さんだって俺しかいないはずなんだ。離ればなれになるなんて事、できるわけないだろ!」
声を荒げたが、死神の視線に動揺はない。だが、そんなことは嗣臣にとってどうでもよかった。
「離れたくないんだ……離れられないんだ……! だって姉さん、俺がいなくなったら独りになって、きっと壊れてしまう」
「……それでも、おまえがここにいることは許されない」
死神は淡々とした口調でそういう。かっと嗣臣の頭に血が上った。
「なんでだよ! 消える瞬間までどこにいようが、俺の勝手じゃないか!」
「そういうわけにいかないから、俺が来ている」
そういうと、手元の票を見下ろし、静かに目を細めた。
「……時間がない」
いうなり、死神はずぶぬれの衣服の下にその票をしまい込む。そしてまた、口を開いた。
「聞け。人は陽と陰の釣り合いによって生きている。そして死ねば、陰に傾く。傾いた陰気がそばにいれば、陰陽の釣り合いがとれている生者は死者に引きずられ、共に陰へ傾くことになる。……これが何を意味するかわかるか」
嗣臣は言われた事を反芻した。死者は陰。生者は中間。死者がそばにいれば、生者は陰に傾く……つまり。
「お前も知っているはずだ。最近お前の姉は精神の均衡、そして肉体の均衡を崩しつつある。すべて、お前の陰気の影響だ。……このまま行けば、彼女は死ぬ」
衝撃的な言葉に嗣臣は息をのんだ。まさか、と言おうとして、先ほど姉が立ちくらみを起こしていたことを思い出す。あれが、自分のせいだと死神は言っているのだ。
「姉さんが……死ぬ……?」
「そうだ」
「俺のせいで……?」
「そうだと言ってる」
嗣臣の頭の中は真っ白だった。自分のせいで姉が死ぬ。自分のせいで。死者になる。姉が、自分と同じ。自分と同じになる。自分と同じになる。
ーー俺が、姉さんを、同じに、する。
……それを考えてはいけないはずだった。なぜ自分が命を落とす寸前まで、姉がそばで泣いていたのか。どうして姉独りここでまだ生活しているのか。それを考えれば、これがいけないことであるというのは分かり切っているはずだった。
しかし、嗣臣にとってそれが、ひどく甘美な誘惑であることに変わりはない。
「……なんだ、好都合じゃないか」
気がつけば先ほどのどす黒い感情がまたのどを割って口からあふれ出している。嗣臣は顔を上げて死神をみた。
「俺が姉さんのところへ戻れないなら、姉さんにこっちへ来てもらうしかないだろ」
「ならん!」
死神が初めて声を荒げた。おそらくそれを許しては死神にとって大きなダメージになるに違いない。それを知った嗣臣は溜飲を下げる思いだった。姉と引き離されるくらいなら、ここでこいつに大迷惑でも何でも掛けてやりたい。そんな思いでことさら声を上げて笑ってやった。不思議なほどにどす黒い思考が少しずつ理性を浸食していくのを、自分でも不思議なほど冷静に見ているような感覚がある。道を踏み外しているはずなのに、それが心地よく感じ始めている。
「あんたなんかの言いなりになってたまるか! 俺は姉さんといる。ずっと一緒にいるんだ!」
「陰気に傾きすぎた死者は【鬼】となる。鬼は自らの執念と怨念で理性を失い、そばによる生者をことごとく同じ目に遭わせ、己のうちに取り込もうとする化け物だ! お前も長く現世にとどまれば鬼になってしまうんだぞ!」
「知ったことかって言ってるんだ!」
「お前は姉さんを自分と同じ目に遭わせる気かぁ!」
死神の大喝は絶叫に近い。嗣臣はその気迫と内容に言葉を失った。姉さんを自分と同じ目に遭わせる? ナイフが胸に潜り込み、引き抜かれ、やけどしたような衝撃で目の前がちかちかして、そしてすぅっと寒くなって、足下に、何かが忍び寄ってきて……。あれを、あの恐ろしい体験を、姉にさせる?
「『それしか方法がないなら、姉さんにも我慢をしてもらうしかないさ』」
しかし、出てきた言葉は嗣臣本人にさえ思いもよらない言葉だった。思わず、自分の言ってしまったことが信じられず目を見張る。その様に思うところがあったのだろう、死神は静かに息をつき、ぼそぼそとしゃべり始めた。
「……先ほど言っていなかったことがある」
その声は先ほどの大喝と打って変わった、陰鬱で憂鬱そうな声色である。嗣臣はその声の調子に不吉なものを感じ、ほとんど無意識に後ろ手にドアノブを探った。
「鬼はそうであると見なされれば、その瞬間拘引の対象外になる。鬼籍に載らず、冥府の規から完全に逸脱した存在となる。冥府の法も現世の法も、鬼を裁くことはできない。……現世にとらわれ理性を失った鬼に対して我らができるのはただ……滅ぼすことだけだからだ」
いつの間にかその手には、大きな錫杖が握られていた。黒く輝く不思議な質感の杖……違う。その先端には鋭い刃物が輝いている。緩やかな弧を描き、まるで何かを抱き込むように内側につけられた刃。あれは鎌だ。……大鎌だ。
「選べ、結城嗣臣。
ここで俺に狩られるか。
それとも踏みとどまって、俺と共に冥府へ戻るか。
そしてそのどちらであれ、姉との今生の別れとなることを覚悟せよ」
「……ひっ」
情けない悲鳴が上がった。あの巨大な鎌に斬り殺されることになると言うのか。ふれただけでまっぷたつにされそうなあの大きな鎌に切り裂かれるのか。
恐怖で頭が真っ白になる。続いて出てきたのは、いやだという明確な拒絶だった。
いやだ。死にたくない。死にたくなんてなかった。姉さんと別れるなんていやだ。死んだっていやだ。姉さん。姉さんを独り残しておけない。姉さんをひとりぼっちにできない。姉さん。姉さん。
「姉さん!」
嗣臣は叫んだ。ドアノブをがちゃがちゃと鳴らし、力任せにドアをたたく。手の触れた場所から何かどす黒いものが広がっていくのにも気がつかず、嗣臣はのども裂けんばかりに叫んだ。
「姉さん! いやだ姉さん! 一緒に行こう! 俺を独りにしないで! 一緒に来て! 独りじゃいやだ、独りは怖いよ! 姉さん! 姉さん!!」
ばちん、ばちんと何かが音を立てて嗣臣の中で爆ぜていく。自分が守らなければと思っていたはずの姉に助けを求め泣きながらドアをたたくその姿は、滑稽を通り越し、哀れですらあった。それでも、それを気にしているような理性は最早、嗣臣にはない。
「姉さん! ねえさん! ねエサん! ねえざーー」
しかしそれは、唐突に終わりを迎えることになった。
びくんと大きく震えた嗣臣の体が硬直する。そして、まるでロボットのようなぎこちなさで首を巡らし、胸元をみた。
刃だ。
胸から刃が生えている。それは、記憶の中で確かに一週間前、ナイフで刺されたその場所だ。
ついで、嗣臣は震える視線を巡らせ、後ろを振り返った。いつのまにそばに来ていたのか、大鎌をかまえた死神が、自分の背中に刃を振り下ろしている。
「……」
何を言おうとしたのだろう。このやろう、だろうか。助けて、だろうか。
自分が何を言おうとしたのかさえわからないまま、引き抜かれる刃に引きずられるようにして半歩後ろに下がった嗣臣は、そのまま仰向けに倒れた。
「……1週間前はたしか、お前の姉さんの誕生日だったな」
自分を屠った死神が、悲しげに自分を見おろしている。それに応えようとして、嗣臣はせき込んだ。
「プレゼントを買い、一足先に帰宅したお前は、いつまでたっても帰ってこない姉さんを配し、あの公園まで探しに来た。そしてその場所で……乱暴されそうになっている姉さんを見つけた」
ああ……そうだ。いつまでたっても帰らないばかりか、電話をしても返事がない姉を心配して、迎えに行こうと家を飛び出した。そしてくぐもった悲鳴を聞きつけたのだ。
姉の声だ、とわかったときには、嗣臣はその場所へ走り出していた。そこで、見てしまった。姉にナイフをちらつかせ、そのブラウスを引き裂く男。頭の中が真っ赤に染まるほどの怒りに我を忘れて、嗣臣はその男を殴り倒した。しかし。
「お前は反撃にあい、胸にナイフを突き立てられた。犯人はそのまま逃亡。取り乱しまともな判断ができない姉の叫び声で、近所の人間が救急車を呼んだが、お前は助からなかった」
「……ねえさ……は、おれのあと……追おうと……ないふ、おれ、だめ……って」
思い出したことを、かすれた声で呟く。焼けるような痛みが、理性をつなぎ止めているような状態だと言うことに、嗣臣は気がついた。天井と、死神の顔が歪む。あふれたものが耳の方へ流れた。
「そうだ。お前は後を追ってナイフで自分ののどを突こうとした姉さんを止めた。……助けたかった姉を、お前はあのとき、確かに救った」
「すく……た」
「そうだ。だから誇れ。自らを誇って、姉との再会を待て。……姉さんを、助けたかったんだろう?」
「う……あ、あぁっ……!」
どうして自分が泣き出したのか理解できなかった。つらいのか、うれしいのか、わからない。ただただ、姉の笑顔が瞼の裏に焼き付いて、その笑顔を見ながら、嗣臣は泣いた。泣きながら、自分の体が流れ落ちていく命に沈んでいくのを感じる。それがどこへつながっているのか、どこにもつながっていないのか。不安に駆られ死神を見上げれば、静かに頷いた死神は、泣いたままの嗣臣の肩に手を当てた。
「誇れ。……迷うな。お前は、間違っていなかった」
嗣臣の肩が沈む。顎まで沈んだところで、嗣臣の唇が言葉を刻む。
「ねえ……さ……」
しかし、最後まで言い終えることなく、その体は血の海へ沈んでいった。
死神は息をついて立ち上がる。主を喪ったその部屋の中を見渡し、ふとデスクに視線を移すと、そちらへ向かって歩き出した。
「……嗣臣?」
いくら声をかけても降りてこない弟にしびれを切らし、美咲は二階にある嗣臣の部屋へ向かった。ノックを繰り返すが、返事はない。
「嗣臣? どうしたの? ……入るわよ?」
言いながら、ドアを開く。……しかし、暗い室内に誰かがいたような気配はなかった。
「……ああ、そうか」
ぽそり、と乾いた声が漏れた。弟は今はいないのだ。弟は……彼女をかばって、命を散らしたのだ。この場にいないのは当然なのだ。
急に夢から覚めた心地だった。この家に戻れば、必ず弟の気配がしていたように思ったのに、それがふっとかき消えて、たった独りこの家に取り残されたような……。
「……う」
こみ上げてきた涙をこらえきれず、美咲は顔を覆った。大切な家族。大切な宝物。この世の何にも変えられない、たった一人の弟。その弟がもう、この世にないと言うことが、美咲を何度も打ちのめした。あの日早く帰っていたら。あの日あの子をかばうことができていたら。すぐに救急車を呼べていたら。そうしたら、あの子は今も、彼女のそばにいてくれたかもしれないのに。
「嗣臣……!」
嗣臣の血が付いたナイフを拾い上げて一番最初に美咲がしようとしたのは、自分も嗣臣を追いかけて命を絶つことだった。その手を嗣臣自身が止めてくれなければ、今美咲は嗣臣と一緒に天国の両親に会いに行くことになっていたかもしれない。嗣臣の葬儀を終えてからも、この部屋から出られない日々が続いた。出られたのは、部屋の外から嗣臣が声をかけてくれたような気がしたからだ。
姉さん、おなかすいたよ。
姉さん、晩ご飯はなに? カレー? ハンバーグ?
あの声がなければ、今もこの部屋から出ずにいたかもしれない。
しばらく泣きじゃくって暑くなった頬を冷たい指先で冷やしながら、美咲は顔を上げた。前を向かなければ。せっかく止めてくれた嗣臣に申し訳が立たない。強く生きていかなければいけない。
「……?」
ふと、机の上で何かが光ったような気がした。この部屋でずっと弟の面影を追いかけていた美咲だ。そんなもの、前は机の上になかったはずなのに。
いぶかしんで、美咲は部屋の電気をつけ、中に足を踏み入れた。まっすぐ歩いていって、ゆっくりと机を見下ろすと、その中央に、小さな箱とメモ用紙が折かれている。箱に書かれた「姉さんへ」の文字も、メモ帳の中身も、嗣臣の文字だった。
美咲は箱を開く。中に天使をかたどったトップのペンダントが入っていた。サラ西線をしたに投げると、箱から出された状態で、無造作に男物のペンダントがおかれている。形状からしておそらく、男物のペンダントの中に、美咲がプレゼントされたペンダントトップが入るようにデザインされているのだろう。いわゆるペアデザインのペンダント。
美咲は下に置かれたメモ用紙を開く。そしてその中のメッセージを目で追って、再びその場にひざをついた。
肩をふるわせ泣くその背中を見守り、姿を消したずぶぬれの人影のことなど、美咲に走る由もないのだった。
姉さんへ。
手紙を書くなんてやったことがないから、どうすればいいのかわからないけど。でも、どうしても話したいことがあったから、書くな。
まずは、誕生日おめでとう、姉さん。
世間一般じゃ、姉弟でこんなに仲がいいとか、ふつうはないらしいけど。俺は姉さんと仲良くてよかったと思ってる。今までずっと頼ってばっかりだったから、これからは姉さんを俺が守って行かなきゃって、そう考えています。
プレゼントは、姉さんに似合うと思って用意しました。姉さんが許してくれるんなら、俺もお揃いにしようかと思って。ちゃっかり俺のも買っちゃったんだ。
離れていても、近くですれ違ってしまっても、俺はいつでも姉さんの味方です。これからも、俺が姉さんを守るから。
改めておめでとう、姉さん。
嗣臣」
《了》
死神に纏わる物語 @shubenliehu
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