死神と夜景
ガードレールを掴み、彼女は気の抜けたため息をついた。視線の先には街の夜景が見える。道路や車、建物の放つ光が星のように煌めく様は、ささやかながら人の営みや息遣いを感じさせた。
「……帰ってきた、って感じするねー」
彼女は気の抜けた声でそうつぶやく。そのすぐ後ろを、ヘッドライトをつけた車が走り抜けて行った。しかしそんな事は気にも留めず、彼女はぼうっと夜景をみつめる。ため息交じりの声で続けた。
「仕事でヤな事あってもさ。車の窓からこの夜景見ると、ああ、帰ってきたんだなーって。これからあの中に帰って行くんだなー、って」
「……そうか」
彼女とは違う男の声と共に、ガードレールの影がヘッドライトの光を受けてぐにゃりと曲がる。そしてそのまま、人影に変わった。それはゆっくりと立ち上がると、ガードレールを乗り越え、彼女の隣に立つ。黒ずくめの男の姿だった。
「本当に好きだったんだ、この夜景。凄くないけどさ、綺麗でさ、頑張っててさ。これから私もあの中に帰って行くんだって。私もあの一部になるんだって。……なのにさ」
彼女は言葉を切り、カクリとその場に膝をつく。手の甲にひたいを押し付けて、苦しそうにうめいた。
「忘れちゃったんだよ、あの時。忘れちゃったんだ。この夜景、全部ぜんぶ頭から吹っ飛んで……」
何でだろ、と呟いて、彼女は重くため息をついた。
「これ、この景色をみればまた頑張れるって、そう思ってたはずなのに」
「後悔してるのか」
うん、と鼻にかかった声で肯定し、彼女は肩を震わせた。その背中のすぐ後ろを、車が数台スピードをあげて走っていく。しかし、彼女のことを誰も見咎めるようなことはなかった。
男はじっと彼女を見つめている。その視線を受けながら、彼女は小さな声で呟いた。
「もう、見納めだもん。この夜景、もう見られないんだもん。私が……そうしちゃったから」
そうだな、と男は相槌を打った。慰める事もなく、男はじっと彼女を見つめる。鼻を啜って、彼女はゆっくり立ち上がった。
「……今日は、ありがと」
彼女は振り返り、寂しげに笑った。物憂げに視線をそらす男に苦笑して、彼女は続ける。
「君のおかげだよ。最期に見た夜景は何だか、怖かったから。思い出せて良かった、この景色」
「……そうか」
男は何も言わなかった。ただ静かに、彼女の向かって手を差し出す。彼女は少しだけ躊躇った後、男の濡れそぼった手を取った。
男は彼女の手を握り返すと、踵を返す。そのまま何処へともなく歩き出した。
「……ありがとね」
男は何も言わない。彼女は手を引かれながら濡れた自分の髪から滴る水を払い、続けた。
「でも、優しすぎるよ、私なんかにために」
男はため息をついて立ち止まると、ぎゅっと眉間にシワを寄せて、殆ど初めて不機嫌そうに唸った。
「……大きな、お世話だ」
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