死神と時を超えた姫君
宵闇の中にいくつもの火の玉が浮かび上がる。それは瞬く間に数を増し、いつもなら寝静まっている筈の街の中を真昼の明るさに変えていった。それらの火の玉は街を駆け抜け、中央の広場へ集まりつつある。もちろん、それら集まりつつあるのは火の玉ではなく、怒れる領民たちが掲げる、松明の灯火だった。
松明を片手に広場へ集まった者たちは、皆一様に武器になるものを携えていた。彼らが見つめる先には、小高い丘。そしてその上にそびえる白亜の城。彼らの敵はそこに住まう、一人の姫であった。領民たちは皆、口々に大声で姫を罵り、己を鼓舞する。これは、神に背いた悪魔を討伐する正義の戦いだ、と。
その様を、当の姫は自室の窓から見つめていた。城内は静まり返っている。既に城の中には姫しかおらず、召使たちは全て城から出されていた。姫が自ら彼らに暇を出しだのである。己の支配する領民たちの怒れる姿を眺め、姫はため息をついて口を開いた。
「人というのは、まこと難儀なものじゃのう…」
姫は行儀が悪い事に、窓の桟に腰かけ、外へ投げ出した足をぶらぶらと揺らしていた。その上、彼女の為に誂えられた豪奢なドレスを床へ脱ぎ捨て、一糸纏わぬ姿で外を眺めているのである。未だ二次性徴の兆しさえもない幼く白い身体は、一見して男女の別さえない、両性的な存在に見えるのだった。
広場に集まった領民たちが一斉に城を指差し、姫のいる方へ向かってくる。それを眺める姫は、外からの光に晒され、黒い影を室内に落としていた。その影がまるで水面のように波紋を広げると、一人の男が顔を出す。影から身体を抜き出した男は息をつき、それから姫の姿を見てぎょっと目を瞠った。
「…服」
「うん?何じゃ死神。男のくせに物をはっきり言わんとは情けない」
死神と呼ばれた男は姫の叱咤に頭を抱え、それからもう一度口を開いた。
「服、だ。ふ、服を着てくれ」
今度は姫が驚いたように目を瞠り、それから皮肉っぽく笑う。
「何じゃ、こんな子供の肌を見るのも恥ずかしいか?」
「…そういう問題じゃない。これからあんたを送るのに、裸の女の子を運んだんじゃ様にならない」
憮然として眉をひそめ、言う死神に、姫はくっくっと肩を震わせて笑った。
「これから地獄へ逝くに、服なぞ役にもたたぬではないか」
死神は眉のしわを更に深くした。確かにその通りだから始末が悪い。
死神がもう一度ため息をつくと、姫は何がおかしいのか、またくっくっと密やかに笑った。
「それに、身体は若うとも心はもう枯れかかった婆ァじゃ。見てみぃ、領民は皆、わらわの事を魔女だと叫んでおるわ」
姫の指さした先では、領民たちの掲げる炎が、まさに城門前に殺到するところだった。
「この姿のままこの城に住み続けて二百有余年。病弱で死にかけたわらわがここまで長き時を生きてまいったのじゃ、領民たちもさぞ恐ろしかったじゃろうて!」
姫は始めて声をたてて笑った。しかし、幼く鈴を転がすような美しい声であるにもかかわらず、姫の笑い声はどこか乾き切ってひび割れている。
そんな姫の声が、不意に小さくなった。
「……じゃがな、死神。わらわは問いたい。病弱なわらわを生かすため、食えば不死になるという人魚の肉を取り寄せ、わらわに食わせた父上は、こうなる事を知っておったのかのう…?」
それは、二百年を孤独に生きてきた姫の、寂しい本音だったのかもしれない。
どん、と下の方で地響きがし、破られた城門から領民たちが雪崩を打って城内に殺到する。その様をぼんやりと眺めている姫の背中に、今まで黙っていた死神が声をかけた。
「…分からん。けれどあんたの父親は、神なんて信じてなかったぞ。娘を連れていかれると思って、俺を殺そうとしたんだから」
「父上が、死神を殺そうとした?」
姫は本当に驚いたように目を瞠ると、すぐに弾けたように笑いだした。
「はは、ははは…!それはいいのう!実に、神をも恐れぬ竜の子たる、父上らしい反応じゃ!」
ばたばたと階段を駆け上がってくる音。暴徒と化した領民は、既に姫の部屋のすぐそばまできていた。
「けど、親父さんにも予想外の出来事は起こってた。海からここへ運ばせた人魚の肉は…既に腐りかけ。永遠の命を与える筈の伝説の肉も、あんたを二百年生かすので精一杯だったんだ」
暴徒の騒ぎ立てる声を無視して言葉を継いだ死神に、姫は振り返り、笑った。幼く白い面に似合う、無邪気な笑みだった。
「何、構わぬ。永遠の命など、遊び飽きても捨てられぬ人形位タチが悪い。…領民はようもこの身と長らく遊んでくれた。そろそろ、遊びから解放してやらねばの」
姫は体勢を変え、裸足で床へおりると、死神の方へ一歩を踏み出す。その白い肌にうろたえた死神を見て、また姫はくっくっと意地悪に笑った。
「なんじゃ、やはり子供の肌でうろたえておったのではないか」
「…やかましい。死んじまえば男も女も大人も子供も人も魔物も、皆一緒だ」
苦々しく、しかし重々しい口調で紡がれた言葉に、姫の足はピタリと止まる。俯いた姫の言葉は、弱弱しかった。
「ならば…ならば問うてもよいか、死神?」
部屋の扉を力任せに叩く音がする。暴徒が遂に姫の部屋を探し当てたのだ。それを無視し、黙り込むことで死神は姫に続きを促す。姫は今にも泣きそうな声で言葉を継いだ。その口調は彼女本来のものなのだろう、幼く無邪気なものだった。
「わらわは…わらわは父様と母様の元へ、逝ってもいいのか…?」
どんどん、という荒々しい音をBGMに、死神は静かに頭を振った。
「それは分からない。けど」
今にも泣き出しそうな小さな子供を見下ろし、ため息交じりに続ける。
「会いたいと思うなら、会えるだろう。冥府の神は冷血じゃない」
姫は、すん、と鼻を鳴らし、ふてくされたように頬を膨らませた。
「何とも頼りない言葉じゃな。嘘でも申せ、『必ず会える』と」
「言えるか。俺は冥府の神と違って血も凍った、正真正銘の化物だ」
死神の言葉にふん、と鼻を鳴らし、姫はやれやれとため息をつく。彼女はすっかり元の調子に戻っていた。
「本当に冷血なら餓鬼の相手などせんわ。悪ぶりおってからに」
「…やかましい」
低く呟き、決まり悪そうに視線をそらした死神を見て、姫はしてやったりと言わんばかりににっこりとほほ笑んだ。それから一度だけきしみ始めた扉を見て悲しげにため息をつくと、死神に向き直って片手を差し出す。
「命令じゃ。わらわを地獄にお住まいの父上と母上の所へ連れて行け」
姫の高圧的な、しかし上品な所作に、思わず死神は片膝をつく。そして己の濡れた手で姫の手を取ると、そのまま立ち上がり、窓の傍まで導いた。
「わらわはもう疲れた。抱いて行け」
つんと澄ました姫の言葉に、死神は苦笑し、頷く。
「ハイハイ、仰せのままに、お姫様」
――そして、扉が壊された。
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