死神と復讐

 男は走っていた。贅をこらした末に蓄えた腹の贅肉を邪魔そうに揺らし、ぜいぜいと息を切らして、逃げているのである。街灯もない夜の町中に人通りはなく、宵闇の中、男の背後には何の影も見えない。しかし、振り返った男は声にならない悲鳴を挙げ、転がるように足を動かし続けた。

 男の背後、宵闇のそこここに影がわだかまっている。その影がうねり、うごめき、一つの形を作り始めていた。ぴちゃり、と枯れている筈の砂利道に水の落ちる音がする。早鐘のように打つ己の心音とぜいぜいと暴れ回る肺の音でかき消されるほど小さなはずのその音に慄き、男はまた、声にならない悲鳴を挙げた。

 男の背後にわだかまった影は、人の形を取ろうとしている。黒い衣服に浅黒い 肌。髪も肌も服もずぶ濡れの青年の姿。年齢は16か17と言ったところか。青年が一歩踏み出すたびに、ぴちゃり、ぴちゃりと水音がする。しかし、彼の歩いた足元の地面は、相変わらず枯れたままだった。瞳に暗い光を宿したまま、青年は必死で走る男の背後を、大股に歩いて追っているのである。

 男はこの街の支配者だった。嘗て中央から任ぜられた後、私欲の限りを尽くして街の贅をむさぼりつくし、不正が発覚して罷免されたのちも、その時得た財を使ってこの街に寄生虫のように居座り続け、街の支配者であり続けた。

 男の意に沿わぬ者は口を塞がれ水に沈められ、街に住む美しい女たちは殆ど皆この男に処女を奪われた。そうやって生者も死者も恐れぬ好き勝手をしてきた男が、背後か ら迫る青年に恐れをなし、宵闇の中を逃げ惑っている。青年はその様を嗤うでもなく、怒るでもなく、静かに見つめて追いかけていた。

 ……どのくらい、逃げ惑っていただろう。

 男の目の前には、大きな湖が広がっていた。

 この街の誇る美しい湖。しかし、闇の中で波立つ水は、黒く不気味な印象さえも与えてくる。時折聞こえる風の唸りは、男に沈められた者たちの怨嗟の声だろうか。

「お前が墓場として使ってきた湖だ」

 初めて、背後の青年が声を発した。悲鳴を挙げ、男が振り返る。全身ずぶぬれの青年が、ゆっくりと男ににじり寄ってくる所だった。ぴちゃり、と音を立てて青年が一歩踏み出すたび、男の鼻を腐った水とヘドロの匂いがかすめていく。男は大 声を挙げ、誰もいない虚空に向かって助けを求めながら、水を蹴立てて青年から遠ざかろうとした。

 しかし、青年の声は遠ざかるどころかすぐ耳元まで迫っている。

「知らないだろう、ここに沈められたいくつもの命。その命恋しさに心を壊された者たちが、どれだけお前を恨んでいるか」

 男の足を何かが掴んだ。万力のようなその力にバランスを崩し、無様に沈む欲にまみれた身体。音もなく、青年は男の目の前の水面に、ぬうっと顔をのぞかせた。鼻も口も水に沈み、眼だけが爛々と暗い怒りに燃えている。男は覚えていなかった。その青年の顔を。

 ――俺も沈められた。辛かったが、お前が姉さんを助けてくれると言うからお前の事を許そうと思った。……でもお前は姉 さんに何をした? 弟を奪われ狂った姉さんを、お前はこの湖のほとりに放り出した……! 頼るものもなく、何よりも縋るものを求めていた姉さんを!

 男は青年の言葉を聞いていなかった。いつまでたっても鼻と口を水に沈めたまま自分を睨んでいるその顔に恐怖し、鼻水と涙と湖水で顔をぐしゃぐしゃにして、助けてくれ、許してくれと懇願を始める。青年の瞳が憎悪に燃え、眉がきゅっとゆがんだ。

 ――死は連鎖だ。誰かの最後の業があり、誰かの最初の業に繋がっていく。しりとりみたいに終わりなく。お前の業を終わらせなきゃ、誰かの業が始まらない。鬼籍にお前の名が乗った。お前の業はおしまいだ。

 悲鳴を挙げ、男は子供のように泣きじゃくりながら何度も何度も繰り 返す。助けてくれ、悪かった、もうしないから、許してくれ。

 青年は一度だけ目を閉じると、カッと目を見開いて男を睨みつける。その顔がゆっくりと男に近づきながら上がってきた。吊りあがった眉、鋭い瞳、膨らんだ鼻、わなわなと震える口元が、一つずつ男の視界の現れる。最後に現れた口が、男の目の前で湖面と周囲の空気を震わせ、怒号を発した。

「そうして命乞いをしただろう犠牲者に、お前は、何と答えたんだ!!」


「……いささか、情に走りすぎたのではないか」

 言われ、死神は視線をそらした。足元にはぶよぶよに水を吸った人の体が横たわっている。膨らんだ顔の真ん中で目は焦点を失い、口は泡を吹いて、笑みの形に壊れていた。

「…鬼籍に載ったのは事実だ。問題ないだろ」

死神はボソリと呟く。苦々しく、またいまいましそうな顔で、足元の男を見つめる。

冥界の神は苦笑した。

「確かにそうだが…私情が絡んでは死神の導きとは言えまいよ」

「俺が奴を導く世界が存在するとして、それは安らぎに満ちた死後世界じゃない。……業火に満ちた地獄だ」

言い放つや、死神は踵を返す。

苦笑を深くした冥界の神は足元で不自然に震える男を見下ろした。

「……死神の慈愛に感謝せよ」

低く、神は囁く。

「あやつが命じた通りに汝を我が元へ拘引していれば、私が直々に杖で汝を打っていた所だ。汝があやめた数一人につき百。相当な責め苦となろうぞ」

言って、冥界の神は静かに視線を巡らせた。湖面から突き出した、いくつもの手、手、手。

その手にむけて、神は静かに口を開いた。

「こやつが欲しいか、亡者ども」

声に応え、手は一斉に男の方を向き直る。頷き、神はさらに言葉を継いだ。

「連れて行くがいい。どの道このような罪人に、導くべき道などありはせぬ」

言うと、死神が去って行った方へ向き直る冥界の神。その背後で、震えるように笑う男に、次々とずぶ濡れの手がかかった。

去り行く冥界の住人たちの背後で、男の体は少しずつ湖に引きずり込まれていく。

……やがて男の力無い笑い声が掻き消える頃には、湖に突き出した無数の手も、冥界の住人たちの姿も、いずこかへ消えうせていた。

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