死神とピアニストになれなかった少年
「…ずっと構ってやれなかったわね、あんたに」
掠れた声で呟いた女は、泣き腫らした目でピアノを見つめていた。
「…仕方ないよね、私、こいつにかかりきりで、あんたの事全然振り返らなかったもの」
それから少し考えて、弱々しく苦笑する。 「…違うか。あんたが恨んでるのは私か」
喪服を纏った彼女の傍には、困ったように顔を背ける少年の遺影。まだ高校生だったのか、ブレザーの制服を身につけている。彼に目を向けず、女はまた口を開いた。
「知ってた。あんた本当はピアノが大嫌いだったでしょう?なのに音大目指したり…どこまで馬鹿なのよ」
ぱたり、と床に雫が落ちた。
「わかんないのよ。あんたが私やこいつをどう思ってたのか…それでもさ、私にできるのはこれくらいだもん。…確か、好きだったよね、これ…」
言うと、女は立ち上がり、ピアノの前に座る。震える指が鍵盤を滑り、鎮魂歌を奏ではじめた。それは告別式で流された、少年が最も得意とした曲だった。
「…厭味かよ」
小さな声で呟く。少年はピアノを奏でる母の背中を睨みつけていた。
「俺が得意な曲、俺よりうまく弾きやがったし…」
在りし日の姿のまま立っているかに見える少年は、しかし腰から下が、川に浸かったかのようにぐっしょりと濡れている。その彼の足元から影が沸き上がった。
「…そうなのか」
影は男の姿をとると、所在無さげに呟く。少年と違い、男は全身ずぶ濡れだった。
「…ムカつく」
少年は吐き捨て、母の背中から目を背けた。濡れたズボンのポケットに手を突っ込む彼に、男は体を縮こまらせる。
「…すまん」
「何であんたが謝るんだよ、意味分かんねえ!」
即座に怒鳴られ、男の体はさらに縮む。
「いや…すまん」
少年はそれきり口を閉ざしたが、またすぐに喋りだした。
「俺、ピアノに勝ちたかったんだよ。認めて欲しくて」
しかし、執拗に追い求めた美しい音色も、暴走した車が砕いて行った。
「…ま、どんなに頑張っても、褒めて貰えなかったけど?」
何かを諦めた声で付け加えると、彼は母の演奏に聴き入るようにして瞳を閉じる。母の指が最後の一音を叩き、力無く膝へ落ちた。
「…やっぱダメだね。あんたの音には全然敵わない。もっとあんたの音を聞いていたかったのに…」
鍵盤に雫が落ちる。
「音位しか私が教えられる事ってなかったのに…」
始め驚いていた少年は、やがてため息と共に頭を振った。そして明後日を睨んで鋭く息を吐き直し、振り返って背後の男の肩を叩く。
「ほら、行くぞ死神」
「…良いのか」
「良いも悪いもあるか」
吐き捨て歩きだす。その足は一歩毎にピアノの影に沈み、そこから更に制服が濡れていった。
半分ほど体が影に浸かったところで、少年は振り返った。鍵盤に泣き伏す母を見上げ、ささやかに笑う。
「あんたの鎮魂歌、俺は好きだけど? …ありがとな。母さん」
そしてそのまま、ピアノの影に飛び込むようにして、黒の中へ沈んでいった。
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