語り部の法螺話
…何です、また話を聞きに来たのですか。貴女も随分なモノ好きだ。それで、一体何を聞きたいのです?…死神?――ああ、あの死神の話をお聞きになりたいと。彼と出会ってまだ生きているとは、貴女もよほど嫌われたとみえる。宜しい、彼の話をいたしましょう。この世界で最も愚かな死神の話を……。
彼はごく普通の家庭に生まれました。そう、信じがたい事に彼はもともとごく普通の人間だったのですよ。特殊だったのは、彼が生まれてすぐに捨てられ、別の夫婦に拾われたという事。美しい湖の畔にある小さな町で、彼は血の繋がらない両親と、血の繋がらない姉と共に寝食を共にし始めたのです。
…そうは言ってもその両親も彼が幼いころに亡くなってしまい、彼は早い段階で姉と二人きりになりました。貧しい子供の二人暮らし。身を寄せ合った暮らすうち、彼は許されない想いを抱き始めました。…ええ、姉弟という関係でありながら、彼は姉に恋心を抱いたのです。凄まじい罪悪感に慄きながら…。
しかし、その関係も長くは続きませんでした。二人の境遇に対して、生活資金を提供する代わり、姉を妾にと、ある富豪が姉弟に持ちかけてきたのです。二人は迷いました。姉は妾になって弟と別れるのは嫌だという。弟も同じ気持ちでしたが、姉にこれ以上貧しい生活をさせるよりはと考えていました。
姉の気持ちは彼が思うより強く、弟と共にいることを望みました。生活援助の条件は、姉と弟が別れる事でしたから。当然でしょうね、富豪は弟を邪魔だと思っていました。どうしても首を縦に振らない姉に、弟の方も姉と離れることを嫌がり始める。富豪は姉に言う事を聞かせるため、ある行動に出ました。
真夜中。弟は富豪の手の者に呼び出され、水の底に沈められました。彼が死ねば、姉は固執するものがなくなる。凍るような冷たく腐った水が肺に流れ込む痛みに耐えながら、彼は水底で眠りにつく事に決めました。自分がいるから、姉がいつまでも辛い思いをする。そう己に強く言い聞かせたのです。
しかし、神は彼らが思う以上に残酷でした。幼いころから自分を支えてくれた弟が水の底にいると知った姉は、精神の均衡を崩しました。毎夜湖に現れては、「貴方はどこにいるのかしら」と呟いて、ふらふらと湖畔をさまよい歩く。幼子のように無垢な顔で、狂った頭と心を抱え、姉は弟を探し続けたのですよ。
…さて、ご存知ですか。彼が生まれた辺りの伝承では、人は水に溺れて死ぬと、次に同じ場所で溺死する人間が現れない限り冥界へ行けない、といわれているのです。身代わりが現れるまで、溺死者は死の苦痛を何度も味わい続ける。彼は死の恐怖と闘いながら、ずっと水底で悪夢を見続けていたのです。
身代わりになりそうな人間はいました。毎晩幼い声で弟を呼ぶ、狂った憐れな女が一人。しかし彼にはできなかった。自分の味わっている苦しみを、姉にも味わわせる事など、彼には思いもよらなかった。息をひそめ耳をふさいで、彼は姉の声をやり過ごし続けました。自らの身に迫る、死の苦痛に耐えながら。
…しかし、そうして自分の名前を呼び続ける姉の声を聞くうち、彼は思うようになりました。姉の苦しみを除いてやりたい。狂ってしまった為に富豪の元へ妾に行く事もできなくなり、毎日幼い日の弟と遊ぶ己を妄想し続ける姉に、静かな時間を与えてやりたいと。その願いを聞き届けたのは、冥界の神でした。
神は己の手足として働く死神として、彼を蘇らせました。死そのものになった彼に、もう死の苦痛はありません。彼がその濡れそぼった手で最初に導いたのは、狂った姉でした。異界の水が滴る身体に抱きすくめられ、自らの身体も水を吸って凍え始めても、姉は震える声で弟の名前を呼び続けました。
その時最早彼は死そのものでした。彼がふれた物は全て萎れ、凍え、朽ち果てる。己の死を受け入れた彼の身体は決して苦痛を感じる事はなくなりました。しかしもう、彼の身体は乾く事はありません。決して。姉が壊れた魂で冥界へ赴き、二度目の生を受けても、彼は永遠に濡れたままなのです。
…いかがですか。貴女が出会ったあの死神の物語。貴女には到底理解のできない生を歩んできたのでしょうか。いいえ、そうではありませんね。きっと貴女も知っている筈です。貴女が体験した事はなくとも、彼の人生は小説等では使い古された、どこにでもある平凡なシナリオの一つに過ぎません。
それを特殊と思い、可哀そうだと思うなら、彼の腕に抱かれて差し上げる事です。貴女の命を凍らせる事が、彼の仕事なのですから。
…時に、貴女は大丈夫ですか? 私の見立てに間違いがなければ、どうも貴女の身体の至る所に、彼に触れられ、凍りついた場所があるように見えるのですが…?
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