死神と悪女
ごめんよ、と母は泣きながら彼女の首に手をかけた。夜も更け、周囲の様子など鼻をつままれてもわからないほどの暗闇の中、手探りで少女の首を探り当てた母親は、その小さな体に馬乗りになる。そしてぼろぼろと涙がこぼれるのも気にせず、震える指でその首を抑えつけた。
少女は起きていた。ごめんよ、という母の声が聞こえていた。温かい滴が、落ち切らない汚れで黒ずんだままの頬にあたるのを感じて、体が震えるのを止められなかった。父が死んでから、母はずっと一人で耐えてきたのだ。それを思えば、ここで震えてはならないと、寝たふりをしていなければならないとわかっていたのに、それでも震えてしまった。
家にはもう、財産と呼べるものは何もない。この掘立小屋も地主の所有する敷地の片隅に、廃材を組み立ててようやく雨風がしのげるようなものである。いずれ税を納められななくなれば、この家も追い出されることになるだろう。父が死に、働き手を失った母子では、それはもはや必然となりつつあった。
仕方ないのだ、と少女はわかっていた。冷めきった意識の中で、自分の「死体」が財を生む可能性があるということを、どこか理解していたのである。母は泣きながら手にかけた少女の遺骸を背負って、地主のもとへ直談判に行くつもりなのだ。首の骨が折れ、すでにこの世に戻って来ることもない、あとは朽ちていくだけの遺骸に情けをかけてくれまいかと、そう迫るつもりなのだ。そしてそれは、今の母にできる、生き延びるための最良の方法でもあった。いや、それ以外に、どちらか一方でも生き延びるようにする方法など存在しないのだ。
ごめんよ、ごめんよ、と泣きながら母親は少女の首にかけた手に力を込めた。一気に体重を乗せて、己が娘を絞殺しにかかる。少女は抵抗しそうになる手足に力を込めて、必死で動くまいと踏ん張った。これで母は生き延びられる。これで母は助かる。その一心で、泣きじゃくりながら締め付けてくる母の指を受け入れる。息は吸うことも吐くこともできず、歪んだ声が自分の口からあふれるのも、うるさい耳鳴りに紛れて聞こえない。ちかちかと瞬く視界がやがて真っ黒に染まり、少女が意識を失う頃、遠くの方で、どんどん、と何かをたたく音が聞こえた気がした。
ふと目が覚めると、あの暗闇はどこにもなく、代わりに豪奢な寝室が広がっていた。いくつもの玉を散りばめた内装、身に着けた衣さえ汚れなど何一つとしてない。彼女はかぶりを振ってため息をついた。汚れている場所があるとすれば、それは彼女をのぞいて他にあるまい。
長い眠りから覚めてみれば、周囲はひどく騒々しい。部屋の戸の向こうでは怒号が飛び交っている。当然だ、と彼女は冷めた目で扉を見やっていた。当然だ、王が弑逆されたのだから。そしてその犯人たちは、彼女を「王をかどわかした悪女」であると決めてかかり、同じように殺そうとしているのだから。
愚かな、と彼女は見下し切った評価を弑逆者に下していた。彼らのほとんどが日々の生活に恵まれない農民たちである。その事には同情の余地があるが、それ以上でもそれ以下でもない。野心を持って死ぬ物狂いで努力してきたものは確かに存在し、死をもって家族を救おうとしたものも確かに存在するのだ。その覚悟を間近で見てきた彼女にとって、己の生活を愚鈍な王の責任に擦り付けるのは愚かの極みというべき行いであった。たとえ王自身がその覚悟や努力と無縁の存在であったとしても、その王と同じ立場に立って罪を犯してよい理由など存在しない。
蓮妃さま、と彼女の名を呼んだ可愛い己の侍女に笑いかけてやりながら、彼女は静かにかつての己を思い出していた。
蓮妃は王の妾である。王には数えきれぬほどの側室があり、蓮妃はその何人目かの女であった。王に見初められ後宮に入ってからのちは、持ち前の美貌としたたかさで女ばかりの修羅場を乗り越えてきた。
女に好かれずとも好い。ただ一人、王に認められる存在であればそれでよい。
そのたった一人の愛を得るために、時に血みどろの争いが起こるこの後宮という修羅場を、たった一人でのし上がってきたのである。愚かな王はそれだけで彼女の侮蔑の対象ではあったが、己の野心が向かう先に、この昏君は存在しなかった。どうせ遠からず自滅するであろうということはわかっていたからだ。一度彼女はその愚行を諌め、王は機嫌を悪くして彼女を遠ざけたというのに、それから月と日が一巡するよりも早く、王は彼女を女として求めたのだ。そのような王につける薬などあるわけがない。この地位に胡坐をかき、何の努力も覚悟もなく惰性で生き続ける男に、最初から彼女が釣り合うはずもなかったのである。
だがもともとの蓮妃は、王に目通りがかなう身分ではなかった。
彼女の両親は寒村の小作農である。幼くして父を失い、進退窮まった母は当時その地に行商を目的に滞在していた、水運関係の商人のもとへ彼女を奉公に出した。いや、売った、と言った方が正しいかもしれない。殺すよりもその方が得られる金が大きかったからだ。
しかし結果としてそれは、彼女にとってこの上ない幸福となった。主となった男は気難しい性格をしていたが、彼女の持って生まれた聡明さと美しさを見抜いたうえで、彼女に教育を施したのだ。
学ぶ機会を与えられた彼女は、幼くして男たちと肩を並べるほどの知識を身に着けた。詩や歌、楽器の演奏にも秀でた彼女を主が認め、仕事を少しだけ減らし、学ぶ機会を増やしたのは、おそらくは彼女自身の将来を考えてのことだったのであろう。彼は少女を己の養子に迎え、そしてさらにそこから、懇意にしている将軍のもとへ養子に出した。
小作農の娘から商人の娘へ、そこからさらに貴族の娘へ。
とんでもない速さで階段を駆け上っていった彼女の視線の先に後宮があったのは、最初に彼女を認めた商人の一言が要因として最も大きいだろう。
「お前は聡明で、美しい。飾れば美しい女など掃いて捨てるほどいるが、お前のように飾らずとも磨けば美しい女は玉以上の価値を持つ。玉とはつまり玉座のことだ」
お前は玉座よりも価値のある女だ。幼くとも、彼女はその言葉をそう解釈した。ならば玉座の隣に立って見せよう。玉座の隣で、どちらがより優れているか、衆目に決してもらうとしよう。死ぬ物狂いで生きるための努力を重ねてきた幼い少女の野心は燃え上がった瞬間である。彼女はそれまで以上に努力を重ねた。
実際、将軍の娘となった彼女はそつなく養父の期待に応え、養父も彼女を足掛かりとしてさらに皇室とのつながりを深めようとしたのだから、商人の評価はあながち過大評価というわけではなかったのであろう。かくして彼女は後宮へ上がり、その美しさと聡明さゆえに王の寵愛を、そして多くの女たちからの嫉妬を一身に受ける身となった。
そのような地位に上り詰めた今でも、彼女は努力を怠らない。部屋の書棚には啓蒙のための書物と、王が放り出した行政関連の書類がおさめられている。彼女は時間を作っては政治を学んだ。理由は一つ。玉座より価値のある女という自尊心において、王を真っ向から諌める為である。
彼女はぼんやりと昔のことを思い出しながら、心配そうに自分を見つめている侍女を振り返った。まだ幼く、商人の家へ引き取られた当時の自分を見ているようだ、と彼女は思う。この侍女もまた、寒村で死にかけていた娘であった。実の両親に、口減らしにと殺されそうになっていたところを、かつての養父、あの商人がまた助けたのである。その話を聞いて、彼女から申し出て侍女に雇った。
「また……そなたおせっかいを」
「誰がおせっかいだ。大体金というのは流れが悪いものなのだ。ある場所からない場所へ移して何が悪い」
久しぶりに招かれた懐かしい家で、開き直りながらも気まずそうに視線をそらすかつての主人に、彼女はため息をついたものだ。彼女の隣では、引き取られてきたばかりの少女が眠っている。その髪をなでると、ほっと暖かな息が喉を通って出ていくのが分かった。かつて死にかけた自分を救い上げた男の魂が、何一つ変わっていない。そのことに安堵している自分に気づき、彼女は忌々しそうに眉をひそめた。彼女もかつて、口減らし、否、もっとひどい形で、母に命を奪われそうになったことがある。それを間一髪で救った男が何一つ変わっていないというのは、彼女にとってもまた嬉しいことではある。ただ後宮では血も涙もない女狐だと思われている自分がそのような感情を表に出すのははなはだ癪だと感じた彼女は、顔色を隠すように、もう一度深くため息をついた。
それにしても、と彼女は思う。このかつての養父は本当に何一つ変わっていない。見た目さえもだ。旧知の仲ということと、すでに彼より上位の身分に上がったこともあり、彼女は無遠慮にかつての気難しい旦那様を観察した。彼女を絶望の暗闇から救い出したあの日からもうかなりたつというのに、黒い服を好む嗜好も、にこりともせぬ不愛想さも相変わらず、髪は濡れた羽のように黒いまま、そして以前と変わらず顔色は青いを通り越して土気色で、本当にこの男は生きているのかと心配になるほどである。実際、彼女は幼いころに男が死んでしまったのではないかと心配して泣き出したことがあった。土気色の顔色に、揺り起こそうとしたときに感じた低い体温、そして何より、事故で死に、近くの水場で見つかった亡き父の体から臭った、真夏の泥水の臭いを嗅いような気がしたのである。その時はその泣き声に目を覚ました彼自身が、幼い少女の誤解を解いたのだが、しばらくの間少女は男の後ろをついて回ったものであった。
それはともかく。彼女は気まずい表情を浮かべている男にふん、鼻を鳴らす。それから薄汚れた少女の頬をためらいもなくなぞると、非難に満ちた目を男に向ける。
「このように顔を汚して。幼いとはいえこの子は娘ぞ。大切な顔を汚れたままにするなど……ほんにそなたは乙女心が分からぬ男じゃ」
「古傷をえぐってくれるな」
男は苦々しい顔をしてため息をついた。まだ彼女がおさなく、この家に引き取られて間もない頃も、男は召使として働く女にそのようなことを言われ、非難を受けたことがあったのである。そのことを思い出しているらしい男に軽くふき出すと、彼女はその幼い眠りを妨げぬよう、優しくささやいた。
「それにしても利発そうな子。ぜひとも我が侍女として傍に置きたいものじゃ」
「……ほう。それは蓮妃殿がその子を守り育てるということかな」
少々小ばかにしたような声色だったが、あえて彼女はその表情を無視した。無礼なと食って掛かることもできたが、それができないくらいには、男の皮肉は存外に胸に突き刺さっていたのであろう。確かに、このままこの男がこの少女を養育すれば、自分がこの男にしてもらったのと同じように少女の望む未来を用意してやることができるに違いない。対して自分は、財力はともかく、子供が生きていくには殺伐としすぎている世界の住人である。何よりも彼女は、自分が女狐と呼ばれることに誇りを持っていた。周囲の妬みと恨みを一身に受けることこそ、女の栄光にふさわしい、そう思っていた。そんな女と、金と教養、時間的精神的余裕を持ち合わせた、しかしさほど身分の高くない商人の男では、どちらが養い親にふさわしいか。もちろん男の方であろう。しかし。
「……この子がいてくれれば、わらわは人として死ねる。……そんな気がする」
「自分のためか」
にわかに男の声が低くなった。妥協やごまかしを一切許さぬ時の声である。幼いころから彼女は、男のこの声に幾度も選択を迫られてきた。今回もそうだと、体に力がこもる。しかし彼女は一切目をそらすことなく、男を見返してきっぱりと言い放った。
「――そうじゃ」
上り詰めた彼女の孤独をいやしてくれる者はどこにもない。恨みだけを買ったところで、生きた証が残るわけではない。そのことを一番理解しているのは、彼女自身である。だからこそ、傍近くに純粋な「人」を置いておきたい。その「人」を慈しみ愛したい。その心に偽りはなかった。たとえそれが、自分自身の偽善であったとしても、である。
男は肩を竦め、あきれたようなため息とともに言葉を吐き出した。
「……よかろう」
彼女は、男が拍子抜けなほどにあっさりとうなずいたのを覚えている。男自身が彼女を養ったことを利己的な行為だと思っているからなのか、正直な心根をまっすぐにぶつけたことが好感を得たのか、今となってはわかりはしない。ただ彼女は男のもとからこの少女を連れていき、身の回りの世話をさせる侍女とした。そしてその中で、歌や作法、文学などを教えていったのである。
彼女は今度こそ長い長い回想から覚めて、心配そうに見上げる侍女の髪を軽く梳いてやった。
一度生きることに飢えると、人というのは何をさせても素晴らしい才能を発揮するものであるらしい。この少女を侍女として傍に置くようになってほんの数年の出来事ではあったが、今やこの少女も、どこへ出しても恥ずかしくないだけの教養と作法は身に着けた。実はすでに、この少女を養女として養ってくれる商人の家にも、しっかりと話をつけてある。やれるだけのことはした。
今日、彼女は殺される。いや、そのような屈辱は耐えられまいから、自ら命を絶つつもりである。王を殺した弑逆者どもにくれてやるようなものは何一つとしてない。命さえもくれてやる必要はないはずだ。しかし、怒りと欲にまみれた哀れな者どもは、この少女さえも容赦なくその毒牙にかけようとするだろう。だからこそ、その前にこの侍女を逃がす必要がある。
不安そうに見上げる少女をまっすぐに見据え、彼女は優しくささやいた。
「この机の下に、脱出用の通路がある。お前はここを通って外へお逃げ。お前を救ってくれたあの男が、新しい親を探してくれているから」
「……蓮妃さまは? 蓮妃さまは、どうなさるのですか?」
「……あとから行くわ。お前は先に行っておいで」
一瞬の沈黙ののちに口にした言葉が嘘だと、少女はすぐに気付いたらしい。しかしそれを追求しようとしても、決して彼女がうなずかないことも、少女は知っていた。それにこの声。いつもの彼女ではない、しかし本当の彼女の声であると、もう少女は知っている。その声でささやかれたとき、自分が従わずにはいられないことも。彼女が心を開く相手は、今少女をのぞいて他にはいない。そのことを知らぬわけがないのだ。だからこそ、彼女は本当に少女に言うことを聞いてほしいときには、いつでも素に戻った。短い間とはいえ、少女にその声音の違いが判らないわけがない。
しかし一方で、言わずにはいられない、とばかりに、少女は口を開いた。
「待って……待っておりますから!」
――その声に、彼女は一瞬我を忘れた。気づけば腕の中に少女を閉じ込めている。ごめんね、と囁くことしかできなかった。立場は違うけれど、初めて母が言っていた「ごめんよ」の意味が分かった気がする。もうそばにいられないことへの自責の念が言わせるのだ。しかし、口を突いて出てしまった謝罪の言葉は、少女を戸惑わせてしまったらしい。どん、と扉を乱暴にたたく音で我に返った彼女は、慌てて少女を腕から解放し、机の下へ押しやった。一瞬抵抗するようなそぶりを見せた後、しかし少女はすぐに机の下をくぐっていく。一瞬聞こえた気がする泣き声を無視し、その姿が完全に消えたことを確認すると、彼女は立ち上がり、寝床へ向かった。
豪奢な寝台と、同じように飾り立てられた小さな机。その上にある紅い酒を硝子の杯に注ぐと、袖に忍ばせておいた粉を落とす。相変わらず扉をたたく音は聞こえており、鬱陶しさにうんざりしてかぶりを振った後、彼女はその酒を一気に飲み干した。一瞬のちに、のどから苦痛がせりあがってくる。彼女は力を失った手から杯を落とした。がしゃん、という聞き苦しい音が遠くに聞こえて、なんと無様な、と彼女は自嘲する。せめて最後まで傲然と顔を上げていたいというのに。しかしもう落としてしまったものは仕方がない。そのまま寝台に手を付き、倒れこむようにして横になった。
飲んだ粉の効力はよく知っている。一度使ったことがあるからだ。残っていたのは幸いだった。これで粉の効き目が体中に回れば、彼女は二度と目覚めぬ淵へと落ちていくことができるだろう。弑逆者どもは彼女を引きずり出し、さんざんに痛めつけた後民衆の面前で処刑するつもりであったようだが、それもかなうまい。ざまを見ろ。
飲んだ粉が効き始めたか、息を吸うことはできても吐くことができない。彼女は胸を抑え、落ち着いて目を閉じ、苦しみを紛らわそうとした。暗闇の中できんきんと耳障りな幻聴が聞こえ、それに合わせてあの日最後に聞いた母の「ごめんよ」という声が反響する。どんどん、と遠くから扉をたたく音。同じだ、何もかもが。彼女は苦しい息の下で苦笑した。全てを諦め、そして生まれ変わったあの日に戻ろうとしている。あの、それまで生きてきた中で一番不幸であったあの日に。
胸を抑え、意地でも目を開くまいとしながらも、彼女は連想遊びのように思いを巡らせた。きっとこの次の瞬間、旦那様がまた迎えに来てくださるに違いないわ。だってこんなに似ているのだもの。だってこんなに苦しいのだもの。
――ふと、額にひんやりとした肌の感触。濡れた掌で髪を梳き、額をさするその感触には、覚えがある。思わず彼女は、ぎゅっと閉じていた眼を開き、掌の主を探した。ぼやけた視線の先に、土気色の指、黒い服、黒い髪、土気色の顔色。
「……無茶をする。しばし待っておれば、このように苦しまずとも俺が送ってやったものを」
苦々しい口調、にこりともせぬ不愛想さ。
心のどこかで悟っていた。あの時すでに、母に殺されかけたあの時すでに、自分の魂は死神に奪われていたのだと。だからその声を聴いても、別段驚きはしなかった。
彼女は黒く染まっていく視界の中、その土気色の頬に指を伸ばす。
「にど…め、の、お迎え…ね……」
しかし、その指は何に触れることもなく、そのまま彼女の胸元へ落ちた。
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