Re:死神と呟く死者
動画はすでにできている。しかしそれが何だというのだろう。
彼は助けを求めようと撮影した動画ファイルを投稿しようとしたが、できなかった。
心臓が痛くて、うまく息ができない。持病が悪化したのだとすぐにわかった。一人暮らしになってからさらに悪くなった気がするが、それでも食生活を改めず、薬も飲まないでいたのだから自業自得かもしれない。
それでも、彼は全く気にしていなかった。どうせ死んでも、誰も惜しんではくれないと思ったからだ。
両親にしても、彼がこの部屋でどんな風に生きているのかを知らない。知りたいとも思っていないだろう。どうしたところで、彼の一番の楽しみといえば、小さな窓から現実への憎しみを垂れ流す以外に見つからなかった。
……だからこそ、胸に強烈な痛みを感じた時も、彼は心のどこかで空虚にその事実を嘲笑っていたのだ。これでようやく自由になれる。この面白味のない現実から逃げていける。そう思ったが、その希望もすぐに幻想であることを自覚した。せざるを得なかった。
なにせ彼の体は動かなくなり、そこから一歩も移動できなくなってしまったのだから。ここから逃げられる、そうしたらすうっと魂が朽ちていく肉体から離れて、軽々と別の世界へ飛んでいくと思い込んでいた彼の魂はどんどん重くなり、もう力尽きつつある肉体から出られなくなってしまった。早々に延命をあきらめた自分の肉体の最後の力を振り絞って写メで動画を撮って助けを求めようとしたけれど、投稿のボタンをクリックする直前に、手にしたスマホを取り落してしまう。にっちもさっちもいかなくなってようやく、彼は恐怖心が胸の内に芽生えたのを悟った。「死」という概念が初めて実感できる。そうするともう、彼にできる事は現実逃避しかなかった。ひたすらに今の状況を見まいとうつろなつぶやきを繰り返す。むなしいとわかっていても、止められない。
しかしそれもつかの間。彼はそれさえもあきらめて、力なく前進を床に投げ出していた。自分と交流のある一つのアカウントが、自分のつぶやきから探りを入れようと、必死の挑発を繰り返していたが、それに反応しているうちにとてつもない虚無感が全身を襲ったのである。
助けを呼ぶために作った動画はすでに出来上がっている。しかしそれが何だというのか。すでに彼の体はスマホひとつ満足に使えない状況である。このまま誰かが不審に思ってくれるまで、ここで朽ちていくしかないのだ。
……本当に、そうして気づいてくれる人がいるのかどうかも疑問だが。
――ふと、目の前に影が差した。不審に思っていると、どうやらすぐ前に誰かがたったらしい。その認識が、さらに彼を混乱させた。……誰かが立っている? こんな、誰もいない部屋の中に?
影はゆっくりと膝をついて、こちらを覗き込んできた。かくり、と音を立てるような動きで首が傾いたのが見える。かくり、かく、かく、と勢いよく首を揺らしながら、顔を近づけてくるその姿は、どこか不気味な印象を受けた。
動けない彼の手から、影はスマホを取り上げると、四苦八苦しながら投稿ボタンを押す。投稿すると連動した動画サイトから、彼のアカウントで動画の投稿を知らせるつぶやきが発信されるはずだ。何が起きたのかわからず、彼は動かない体のまま心の底で首をかしげる。しかしそんな疑問より、もっと重要なことが起きて、彼はその瞬間すべての疑問を吹き飛ばして立ち上がったのだった。
軽い。体が軽い。
歌うようにそう言いながら部屋中を歩き回る。朽ち行く自分の体に時折顔をゆがめながらも、自分自身を眺めたりした。
軽い。このまま二次元にだって行けそうだ。そううそぶくと、いつの間にか目の前に立っていた男がけらけらと声を立てて笑って見せた。それから、どこか咎めるように付け加える。男の首は不自然に傾いていて、そのせいで先ほどスマホを代わりに操作してくれた人物だとすぐにわかった。
「お前さん、おめでたいなぁ。まあいいや。お前さんの動画、もういろんな奴に見られてるみたいだぞ?」
そのことに、彼は純粋に驚いた。今まで誰も、彼の生活や一生について心配してくれる人などいなかったのに。彼はようやく、今まで必死で自分のことを聞き出そうとしていたらしい交流相手に感謝した。自分のことを信頼して、心配してくれる人がいることを、もっと早く知っていたら。そうしたらもっと別のことが起きたのではないのか。
彼は袖で目じりをぬぐった。いこう、と手で示す男に従って歩き出す。男が彼を連れて行こうとしている場所が、彼のあこがれた世界でないということは分かっていたが、それでも不思議と嫌ではなかった。
最後に見つけてくれたのが、顔も名前も知らない人であり、礼をいえないことだけが心残りだと呟くと、男は苦笑し、かくかくと首を揺らしながら突き放すように言葉を継ぐ。
「死人に口なし、だ。後悔先に立たずともいうかな?」
道理だ、と苦笑しながら、彼はため息をついた。本当にその通りだ。今回のことがなければ、おそらく彼はずっと現実を呪いつづけただろう。それに、中には心配などしているわけではなくて、面白半分に見ているだけなのかもしれない。いずれにせよ、彼はもうここで終わりだった。終わってしまった今、そのことをどうこう言っても仕方がない。
もう一度、行こう、と促す男に従い、もう動かない彼の体に歩み寄ると、彼はその体と小さな窓が作る一つの影に、一歩足を踏み入れたのだった。
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