死神と猫
仕事に疲れた帰り道、僕はコンビニの袋を片手に家路を急いでいた。残業続きのほんのひととき、今日は珍しく仕事が早く片付いて、今はいつもの退勤時間よりもずいぶんと早い。急ぎではないが、僕の歩調はいつもより格段に速かった。どうせ明日は早く帰れるかわからないのだから、今日早く仕事が終わったなら、とっとと帰ってゆっくり休みたい。そのくらいは許されないと嘘だろう。そういう気分だったから、出来るだけ早く帰ろうと、近道になる大通と大通りの間の細い道を選んで歩いた。
いつも再生しているMP3プレイヤーを操作しながら、僕はコンビニのふくろがたてるガサガサという音をメトロノームにして、耳に流れ込んでくるロックを頭の中で口ずさむ。それは通勤時間の間の数少ない趣味の時間という奴だった。片田舎にある実家ならばすれ違う人皆顔見知りで、挨拶の一つも必要なのだが、ここではそこまでの愛想は無用である。道を歩いていて変なことをしでかさない限り注目されることはないし、僕自身は取り立てて害のない一般人なわけだから、音楽を聞いていたからって人にぶつからない限り特に足を止めるような事もない訳だ。そういう意味では、ある意味通勤時間が一番好きなことをしている時間かもしれない。
で、どうしてそんな事情を長々と説明したかというと。
今日に限って珍しく、好きなことをしていて、尚且つ家路を急いでいたはずの僕が、思わずヘッドフォンを外して立ち止まりたくなるような現象が起きたからなのだった。
それに気づいたのは、いい加減ずっと聞き続けているアルバムに飽きてきて、別のアルバムを再生しようかとポケットを探った、その時である。僕は下を向いた途端、足元の暗闇に光るものを見つけたのだった。
目を凝らしてよくみると、真っ白な毛並みの仔猫が僕の足元にじゃれついている。頭や体を僕の足にこすりつけたあと、僕を見上げた仔猫は、愛らしい声でなーぁ、と鳴いた。
突然告白するが、僕は猫が大好きだ。ペット禁止の今のアパートを出られるようなチャンスがあれば、今度はぜひペット可能なアパートに引っ越して猫を飼いたい。もともと実家では猫を飼っていて、その飼い方も性格もよくわかっているつもりだ。少なくとも、近所に住んでいる年の離れた姪っ子に、「親戚の猫博士」などという名誉だか不名誉だかよくわからない称号を拝命するくらいには。
それはともかくとして。
そういう嗜好を持っている僕は、その時思わずその場にしゃがみ、自分でも頭を抱えたくなるような猫なで声で話しながら、そいつを抱き上げていた。
「ん? どうした。親とはぐれたのか?」
触れてみて、まずこの仔猫の毛並みに驚く。真っ白な毛並みの猫は珍しくないが、普通遊びまわっているうちに汚れてくすんでしまうものだろう。しかしこの仔猫の毛並みは、まるで毎日手入れをしているような、輝くような美しさだ。下を向いた時光るものを見た、という表現をしたくなるくらい、それは白を通り越し、純白の、とか、雪のような、とか、もっというと白銀のような、とかいう表現がふさわしいくらいの、若干現実味を欠いた美しさなのだった。しかし、では何処かの飼い猫だろうかと首元を覗き込んでも、首輪ははまっていない。
「お前どこの仔だ? 帰るうちがあるなら、気が済んだら危ない目に合わないうちに帰るんだぞ?」
そう言ってその白い体を下ろしてやるが、仔猫は僕から離れない。とことこと早足で僕の後ろをついてきている。
僕は苦笑した。どうも不用意に声をかけたせいで、餌がもらえるかと期待してしまったらしい。女の子にはもてないくせに、僕は昔から猫にだけはよくもてる。いや、もてているというより、体良く利用されているのだろうが、ともかく、こんな小さな猫にだって、そういう判断能力はあるようだ。その証拠に、仔猫は僕の大事な夕飯その他が入ったコンビニのレジ袋を見上げ、じゃれついてやろうと言わんばかりにキラキラと瞳を輝かせていたのだ。
その姿がまた愛らしく、僕は思わずそこでも立ち止まってしまう。いや、わかっている。自分の部屋へ帰れば食べ物なり何なりあるのだが、残念ながら今日買った惣菜は猫に食べさせるに向かない。それにこんなところで食べ物を与え、食い散らかされでもしたら大変だ。可哀想だがここは見逃してもらうより他にない。僕は仔猫の頭を撫でてやった。
「ごめんな、お前が食えそうなもの持ってないんだ。今日のところは見逃してくれよ」
下手に出てみたが、仔猫は許してくれなかった。どうやらこいつは、見た目以上に強かな性格をしているらしい。僕の進行方向に巧みに回り込んで、しつこくあの愛らしい声で鳴き続けてくれた。この野郎、と思いはしたが、既に絆されている身としては非常に辛い。とはいえコンビニで買った惣菜はスパイシー過ぎるし……。
……と、ここで僕は遅まきながら思い出した。毎朝牛乳を飲む習慣がついている僕がコンビニで購入した、猫でも口にできるもの。
「……ちょっと待ってな」
僕は路肩によると、インスタントコーヒーの紙コップを取り出し、その蓋を外して残りをレジ袋に突っ込んだ。それからその蓋を地面におき、次いで500ml入りの牛乳パックを取り出す。毎朝の習慣がこんなところで役に立つとは思わなかったが、行儀良くじっと透明な蓋を見つめている仔猫の前で、僕は封を切った牛乳を少し、トレイに注いでやった。
「こんなもんしかないけど……」
いうが早いか、仔猫は勢いよく蓋に頭を突っ込んだ。思わずパックを戻しそびれて白い毛並みが濡れる。しかしそんなこともお構い無しに、仔猫は必死になって牛乳を飲んでいた。そんな風には見えなかったのだが、どうもよほど腹が減っていたらしい。
仔猫は牛乳を飲み切ると、顔をあげてまた、なぁ、と鳴いて牛乳パックと蓋を交互に見た。言わんとしていることに気がつき、僕はまたトレイに牛乳を少し注いでやる。
「あんまり勢い良く飲むと腹壊すぞ?」
とはいえ、その飲みっぷりは提供する側としても嬉しい限りであった。二杯目の牛乳もペロリと飲み干し、もっとくれとねだる声に応えて三杯目。そこでようやく満足したのか、飲み終えた蓋を前にして前足を舐めて毛づくろいを始めた仔猫に、僕は蓋を取り上げ、折りたたんでそばにあったゴミ袋にさしいれる。それから小さな声で問いかけた。
「お前、本当にいい毛並みしてるな。でもどっかで飼われてるにしちゃ、首輪もないし。まあ、もし野良でも、うちではちょっと飼えないからなぁ……」
野良だとしても、この毛並みや人懐っこさからして、最近野良になったばかりだろう。この小さな身体でこうして生きていくのは少しばかり荷が重過ぎる。それはわかるが、それでも僕にできることはこれ以上なく、ごめんな、と囁くと、毛づくろいをおおかた済ませた仔猫は赤い口を開いて、少年のような甲高い声で、
「にゃぁに、かまわんのにゃ」
……と喋った。
……一瞬、僕の思考が停止する。猫は喋らない。少なくとも、人間の言葉は喋らない。これは僕にとって常識であり、世界共通の認識のはずだ。だからその仕草や鳴き方から猫の気持ちを察してやらねばならない。そういうものだと思ってきた。
だが今、猫は喋った。まるでそうするのが当然と言わんばかりに、ごく普通に。夢なのかと思って頬をつねってみたが、予想外に痛くて思わず後悔した。
そしてそれを見た目の前の白い仔猫は、くぁ、と大あくびをかまし、また喋った。
「まったく。俗世に身をにゃつして幾つ春秋を越えてきたと思うておるのにゃ。暇にあかせて人の言葉を覚えるにゃんてわけにゃいのにゃ。人間は自分の常識にとらわれて現実が見えにゃくにゃる時があって、困ったものにゃ」
猫の声は少年のように幼いが、口調や内容は明らかに老成した男のようだ。若干口調がアレだが。
「すまぬの。猫の舌は人の言葉を喋るには向かぬのにゃ。にゃーやにゃーが全部にゃーににゃってしまうのでにゃー」
僕の心の声に答えたわけではないだろうが、仔猫はおどけた声でそう説明した。何の音が一律で“にゃ”になってしまうのかわからないが、まあ通じるなら問題ないだろう。
……いや、そういう問題じゃないが。
仔猫は後足で耳の後ろを掻きながら、人の悪そうな――いや、猫だが――口調でさらに口を開いた。
「まあ、そんにゃことは関係にゃいのにゃ。今はうまいものをもらった礼をせねばにゃー」
にゃにがよいかのー、とのんきに考えている仔猫に呆気にとられ、僕はぼうっとその姿を見ていた。そして僕が、自分の口が半開きになっていたことに気がついて慌てて口を閉じると同時に、仔猫はそうにゃ、と楽しそうに口火を切る。
「ひとつ予言をしてやるのにゃ」
「……よげん」
ようやくそこで、僕は何とか返事をすることができた。この必要以上に偉そうな仔猫が喋る理由とか、色々な事象が僕の想像しうる範囲のはるか上を行っている状況で、とりあえずそれらを横へおいて、そして出てきた言葉がこれだった。しかし仔猫は僕のこの反応がお気に召さなかったらしく、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまわれる。
「にゃんにゃ。信じられんという顔をしおったにゃ? 猫は卑小にゃる人間の想像などとおく及ばぬ存在であるのにゃぞ? 予言にゃど朝飯前にゃ」
「あ……ハイ、スイマセン」
「まったくもって愚かにゃり! それでよく姪っ子のエミリちゃんに【猫博士】などとにゃのれるものにゃ!」
「ハイ……え」
とりあえず耳を通り抜けて行きそうになる言葉を反芻する。エミリちゃんというのは、前述した年の離れた、あの僕を「親戚の猫博士」と呼ぶ姪っ子のことである。今年小学校の6年生、中学受験の勉強中だ。いやそんなことはどうでもいい。問題なのは、初対面の仔猫に僕の若干恥ずかしい個人情報が流出しているという点である。
仔猫は人が悪そうな笑みを(猫なのに!)浮かべるや、きししと含み笑いまでしてくださった。
「ようやく茫然自失から戻ったにゃ? それにこれで疑いようもにゃくにゃったわけにゃ」
逆に舌を噛みそうな感じの喋り方で偉そうにのたまう仔猫にもはや、はあと頷いて頭をかくしかない。それを見た仔猫は興が削がれたという顔をして赤い舌で自分の鼻を舐めると、さりげない調子で話し始めた。
「にゃんじはあっちに向かって歩いておったにゃ?」
にゃんじ……「なんじ」か。「汝」とはまた、ものすごい言葉を使う仔猫である。まあ、彼の言い分では既に「猫」ですらないのかもしれないが。しかも口調が若干あれだし。
ツッコミをいれたくなる節が多々あったものの、僕はそれらを全部押し殺して黙って頷き、続きを促す。それに確かにその通り、仔猫の白い前足は、僕の家のある方向を指していた。
猫は満足そうに頷くと、先を続ける。
「あっちに行けば大通りにゃ。にゃんじはその横断歩道を渡り、さらに小さにゃ道に入って、自分の住むボロいアパートに帰るのにゃ」
「ボロい言うな。だがまあ……そうだな」
聞き捨てならなかった言葉にはやんわり反論を加えつつ、僕は頷いた。築ン十年の木造で隣の音がよく聞こえるアパートだが、長年住んで都になった場所をとやかく言われたくはない。まあ、猫は飼えないが。
それはともかく、猫はやっぱり人が悪そうな笑みをまた浮かべると、僕のツッコミを完全に黙殺して口を開いた。
「丁度塾帰りのエミリちゃんもいっしょになるにゃ。だから急いだ方が良いのにゃ。
――にゃんじが渡る瞬間に、その横断歩道に、屍の乗った大型トラックが突っ込むでの」
「……は?」
……二度目の思考停止。しかし今度は、まともに自失から戻ることは難しかった。
確かに今日はエミリちゃんが塾に行く日で、しかも丁度塾から帰る時間帯だ。でまかせと言い切るにはあまりにも、この仔猫は常軌を逸しすぎていた。
いや……いや、普通ならこんなことを言われたからと言ってまともに信じるというのはおかしいのだろう。しかしこの時の僕は信じた。それは言い訳など追いつかないほどに直感的な、いわゆる虫の知らせとでもいえばいいのか。自失から覚めたわけでは決してない。ただ僕はこの場所から離れたかったのかもしれない。ともあれ、あとから言葉で説明しても仕方ない。この時の僕はそんなことは考えもしなかったし、思考回路は停止したままだったのだから。それでも、僕の身体は勝手に動いた。
僕は無言でコンビニのレジ袋をその場のゴミ捨て場に放ると、猫から視線を離して走った。真っ白な頭で、告げられた予言によって連想された惨劇を、頭の中で再生しながら。
彼が走り去った後、白い仔猫は何事もなかったかのように大きくあくびをする。あどけない小さな体躯に似合わぬふてぶてしさでその場に寝そべると、そのまま体を丸めた。
小さな体は動かない。一見すればそれは、まだ生まれて間もない仔猫にしか見えないだろう。しかし、その場を通りかかった野犬がびくりと丸まった仔猫を見て身を震わせる。尻尾は下がり、脅え切った表情で、しばらくその場を動けず足踏みを繰り返す。その視線は明らかに仔猫の方へ向けられており、野犬が何に恐怖を感じているのか一目瞭然であった。
その野犬の仕草に、白い仔猫の声がかかる。
「そのようにゃデカイからにゃで無様に脅えるでにゃいわ。こやつが眠れぬではにゃいか」
その途端、野犬はキャウン、と情けない悲鳴をあげ、慌てたように逃げ去っていった。白い仔猫はそれを視界の端でチラリとみとめ、ふふんと鼻を鳴らしてまた顔を己の毛並みにうずめる。
「弱い者には牙を向き、強いものには尻尾を巻いて逃げるか。まあ、道理じゃにゃ」
「……ご老人がいうことではない気がするが」
不意に聞こえてきた男の声にも、白い仔猫は動じなかった。ただチラリと顔をあげ、面倒臭そうにまた顔を戻す。
暗い路地の影から姿を表したのは、黒いスーツ姿の男である。飾り気のない黒一色に身を包んだどこにでもいそうな顔立ちをしたその男は、頬に張り付いた髪を面倒臭そうに掻き上げ、物憂げにため息をついた。どこにでもいそうな彼の、唯一異常な点があるとすれば、それは全身が雨に打たれたようにずぶ濡れであるということである。しかもその彼から滴る水は、乾いた地面に落ちることなくすうっと虚空に消えてしまう。そのような異常な男を見ても、異常な仔猫動じなかった。この態度を予想していたのか、男の方も動揺したそぶりを見せない。ただ静かに、しかし明らかに迷惑そうな顔をして、彼は子猫に文句を言った。
「困るな、大老。鬼籍の内容を人間に伝えるなど」
一度聞いただけでは理解し難い内容であるが、男の文句に対して大老と呼ばれた白い毛並みはしっかりと内容を把握していたらしく、ふふんと鼻を鳴らした。
「あの予言のことかの? にゃらば問題あるまいて。あれはあくまで予言にゃ。あの男もその親類も、皆鬼籍には乗っておらぬのであろ? そもそもあの男がいかに急いにゃとしても、鬼籍は覆らぬ。鬼籍とはそういうものにゃ」
そう言って白い猫があくびをした途端、大通りから凄まじい音が轟いた。次いで高低様々な悲鳴が上がる。男がとっさにそちらに視線を向けると、白猫は落ち着き払った声で「始まったにゃ」とつぶやき、それからまるで幼子を労わるような声で囁いた。
「さぁて、お迎えが丁度来たことにゃ、そろそろにゃんじもいかねばの。どうにゃ、最期に飲んだ乳の味は? ……おお、そうかそうか。にゃらば次はにゃんじがあの若造のそばに生まれるよう、祈っておくとしようかの。
……では、さらばにゃ」
まるで大通りの惨状など異世界の出来事であるかのように静かに、何者かに向かって別れを告げる。そして言い終えるが早いか、仔猫の白い身体はその場に崩れ落ちた。
ずぶ濡れの男が歩み寄ると、真っ白だったはずのその毛並みは見る間に真っ赤なもので染まっていくところである。野犬にでも噛み裂かれたのか、その腹は無惨に大きく傷付き、固く閉じられた瞳はその仔猫が既に生きてはいないことを示していた。その悲劇がいつ、かの小さな毛並みにもたらされたのか判然としない。だがその姿はまさに、哀れと言い表すにふさわしいものであった。
大通りの阿鼻叫喚をよそにその哀れな仔猫の白い身体を足元に見て、ずぶ濡れの男は憂鬱そうにため息をつく。それからその暗い瞳を大通りに向け、重い足取りをそちらへ向けた。
しかし、歩き出そうとしたその足はすぐに止まる。男が改めて足元をみると、同じように雨に濡れたようになってしまった小さな白い身体が、男の濡れた靴に擦り寄ってくる所だった。
ずぶ濡れの白い仔猫はあどけなく小さな首を傾げると、何度も高い声で鳴く。その声を聴いた男は困ったように後ろ頭を掻いて、まるで返事をするかのように仔猫に向かって囁き返した。
「さあな。だがお前はそんなことはさっさと忘れて、早々に生まれ変わるが賢明というものよ」
わかったな、と問いかけるも、仔猫は応えず大通りへ向かって走り出している。男は苦虫を噛み潰したような顔をして、面倒臭そうに止めていた歩みを進めたのだった。
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