死神と青空
青い空が見たい。
そう、彼女は願った。
物心ついてからこの方、何不自由なく与えられてきた彼女は憧れ、それでも決して得られなかったもの。そして、何を犠牲にしてでも得たいと考えながらも、結局諦めざるを得なかったもの。
諦める事……いや、諦めたふりをするのは簡単なことだった。彼女は生来責任感が強く、誰かの期待、そして自分のなすべきことを敏感に感じ取ることができた。そちらに目を向けていれば、己を欺いて諦めたふりをし、感情にふたをしてしまうことは、さして難しいことではなかったのだ。
……それでも、己を欺き、諦めたふりをしてまで押し殺したその願いは、やはりどこかでくすぶり、その胸に燃え続けていたのかもしれない。
「――お嬢様、起きていてもよろしいのですか」
低くとがめる声を耳にし、身を起こして絵本を開いていた彼女は顔を上げ、声のした方を見やった。音もなくドアを開いて入ってきたらしい黒い影が、やはり音もなく閉められたドアのわきでじっと彼女を見つめている。
「大丈夫よ。身を起こしていられないほど弱っているわけではないもの」
彼女は静かにそう答え、また絵本に視線を戻す。といってもページを繰るわけではなく、静かに途中の1ページを見つめている。
「最近、毎日眺めておいでですね。……そちらのご本を」
問いかけのニュアンスではないものの、控えめな不審を伝えてくる影に向かって、彼女は苦笑した。
「これ? お気に入りの絵本なの。くまの子が薄暗い森を出て、青い空の下を歩いていくの。そしていろんな動物と友達になるのよ」
言いながら、そのページにかかれた空の色をなぞる。幼い頃父親にねだって買ってもらった絵本は、すでに何度も読み返していたせいでぼろぼろになり、かつては鮮やかだった青い空もすでにくすんでしまっている。しかし、彼女の瞼にはまだ、その鮮やかな青が焼き付いていた。彼女はじっと自分を見つめて話を聞いている影に向かって苦笑して見せる。
「こんな年齢にもなって絵本だなんて、と思うかもしれないけど」
「…………」
影は彼女の言葉に否定も肯定も返さず、視線を厚く締め切られたカーテンへ向けた。外側から全く中の様子がわからないようにしてある代わり、中からも外の様子が全くわからないそのカーテンを見つめて、いったい何の意味があるのか。何の反応もしてくれない影に不満を感じつつ、彼女もその厚いカーテンを眺めた。
影、と言っても、影のような男、という意味であって、彼女は本物の影と会話をしていたわけではもちろんない。しかし、影のような男、という表現をするよりも、ただ「影」と表現した方がこの男に相応しいのではないかと、彼女は心底思っている。服は上下ともに常に黒で、髪もまるでカラスのような、と表現するのがふさわしい、混じりけのない黒、肌は「浅黒い」を不健康な方へ通り越した土気色で、本名は別にあるのだろうが、通り名まで「黒」では、もうこの男に「黒ではない」要素を見つけ出そうとする方が困難であった。
彼女は改めて視線を戻し、影を眺める。それにしても陰気な男だ。生きている気配が薄くて、病弱なこちらまで病が重くなりそうな気さえする。もっとも、彼女を取り巻く男たちの、ある種の欲望まで旺盛な健康さがないからこそ、年若い男の身でまだ二十歳にも満たない少女である彼女の執事兼護衛など努めていられるのだろうが。
「……ねえ、ノワール?」
ただ眺めていても全く視線を動かさず、それどころか身じろぎひとつせず、まるで影のような男が本当に影だか岩だかになってしまったのではないかと疑いたくなった彼女はなんだか居心地が悪くなり、男がコードネームとして使っている名称を呼びかける。何か人間らしい反応を期待してのことだったが、首を少し彼女へ向けて視線を流すという最低限の動作で彼女に応えた影は、身動き自体はしたものの、やはり岩か影か、という印象しか与えず、彼女を少なからず落胆させた。とはいえ、一度呼びかけてしまったのに何でもないと言ってしまえば、おそらくこの影はまた間違いなく岩に戻ってしまうだろう。それで仕方なく、思いついた質問を投げかけてみる。
「このファミリーに来て、どのくらいになるの?」
すると、まるで録音された音声をそのまま再生したかのようによどみなく回答が返ってきた。
「お嬢様のお父上の代から、父よりお世話になっております。そこから考えますと、父と私、併せて30年ほどになるかと」
「……そう、ではもうこのファミリーでは、貴方も古株ということになるのね」
「滅相もございません。父も私も、ファミリーの末席を汚す身でございます。特に私などは未だ経験も浅い若輩の身、私が古株ということになれば、実力主義を第一とするこのファミリーを長く支えてこられた、名実ともに古参と呼ぶにふさわしい方々がお気を悪くされましょう」
紋切り型よりやや大げさな謙遜に、かちんときた彼女の口から、思わず苦笑が漏れる。ついで、とんでもない言葉が飛び出した。
「そんなに卑屈にならなくてもいいじゃない。そんな『若輩』の貴方が護っているのはただの小娘ではないのよ。一応れっきとしたこのファミリー……マフィアの1グループを束ねる、ボスなのですもの」
しかし、とんでもない言葉ではあったものの、彼女にも影にも自明の事実であったためか、このセリフはまるで今夜の天気のように流されてしまう。それよりも、その後に彼女が自嘲気味に洩らした言葉の方が、影が大きく反応するほどの破壊力を秘めていたようであった。
「まあ、実力主義を第一とするファミリーにおいて経験不足、若輩、なんて評価が一番相応しいのは、本当はわたしのはずなのだけれど」
「めったなことをおっしゃってはなりません」
即座に、しかし控えめな口調で、影は彼女の自嘲をたしなめたのである。
「お嬢様は先代ボスのご息女、唯一の肉親でいらっしゃいます。このファミリーを背負って立つお方など、お嬢様を置いて他にいるはずもございません。どうぞお忘れなきよう」
たしなめたとはいえ、紙に書いたものをそのまま読み上げたようによどみもつまりもなく流れてきた言葉に、彼女が心動かされるはずもない。セリフの後で直角に近い一礼を向けられたところで、その感想が覆るはずもなく、彼女はため息をついて言い返した。
「……血統がいいからと言って、いい番犬になれるとは限らないでしょう。必死になって否定しなくても、若輩なのも経験不足なのも、私が一番自覚していることよ。
私がここでかしずいてもらえるのは、パパが先代のボスだったから。でも、いつも考えているの。実力主義を第一としているのなら、こんな小娘にかしずいている意味などどこにもないのよ。さっさと放り出してもっと相応しい人がトップに立てばいい。簡単なことだわ」
「そういうわけにはまいりません」
自虐的な思考をさらに強めた彼女の言葉を制止するようなタイミングで、しかし言葉遣いだけは丁寧に、ぴしゃりと影は言い放ち、さらに言葉を継ぐ。
「その、実力において認められ、長くこのファミリーを支えてこられた古参の方々が、お嬢様をトップに戴くという結論で一致しているのです。もちろん、我々のような若い者たちも、その結論で団結しておりますので」
岩のような意思とはこのことか。
そう思わせるように、頑として彼女の言い分を聞こうとしない影の言葉に、さらに暗い気分になっていく彼女である。少しばかり困らせてやりたい、という衝動にかられ、思わず彼女はぼそりと呟いていた。
「そう?
――でもだからと言って、死病にとり憑かれ、余命幾ばくもない病弱な娘に、これだけの人たちの命と生活に責任を持て、だなんて、どうかと思うのだけど」
ひたり、と影の動きが止まる。それを見て、彼女はすぐに自分の軽挙を後悔した。こんなセリフは、感情に任せて言うものではなかった。今のはもっと別の、そう、この影が言う「古参の者たち」にむかって言うべき言葉であり、その方が遥かに効果も大きかったはずだ。しかし、しまったと口をつぐんでももう遅い。
彼女は開き直ることにした。もともといつか言ってやりたいと思っていたことだったのだ。そしてこのことと関連して、個人的にこの陰気な影にも言ってやりたいことがある。予定が早まっただけのことだ。
一呼吸、二呼吸と置いて、影が静かに冷静さを取り戻すのを――と言っても、この男が先ほどの彼女の爆弾で冷静さを失っていたかどうかすら、はなはだ疑問ではあるのだが――待っていると、影はすっかりいつも通りの口調になり、静かに問うてきた。
「いつ、お気づきになったのでしょう」
その、いつも通りで全く表情をうかがわせない反応に、彼女は軽く失望した。しかし、その失望が軽いもので済んだのは、彼女自身の、この影に対する印象があまりにも人間離れしすぎているせいだったのかもしれない。彼女の認識では、この影は人間の生死など大した問題ではないと考えているような感覚でいたからだ。だから特に「もっと驚きなさいよ」などというつまらない要求が頭に浮かぶこともなく、ただ少しばかりつまらなそうな表情になるのだけは隠さずに、彼女は返した。
「自分自身の体のことよ、気が付かない方がどうかしているのではない? それに父の時と同じく、死神がわたしの護衛に付いた。それで確信したわ」
後半に若干、影をとがめるようなニュアンスを忍び込ませて様子をうかがう。そのニュアンスを正確にくみ取ったらしい影は、全く表情を変えないまま、しかし内容だけは彼女を非難するような言葉で反応した。
「お嬢様、それでは私が、まるで暗殺者か何かであるようなおっしゃりよう。確かに私は黒を好んで身に着けておりますが」
「少し違うわ。わたしは貴方のことを暗殺者だなんて思ってない。
貴方は死神なのよ。父の死の間際、そしてわたし。最期の瞬間に傍にいて、命を刈り取って連れていく死神。そう言っているの」
冗談のように黒い己のいでたちを話題にしようとする影を遮り、畳みかける。彼女の言葉に、影は静かに口をつぐんだ。
マフィアのボス、その令嬢ともなれば、命を狙う暗殺者が現れてもおかしくはない。しかし、彼女はその隠喩としての「死神」という言葉を否定しながら、影を明確に「死神」呼ばわりした。その言葉の裏に異様な気配を漂わせ、じっと影を見つめる。
彼女がまとう気配に、この男に似合わず動揺したのか。影はしばらく沈黙し、それから静かに口を開いた。
「まさか、先代が亡くなる際に立ち会わせて頂いた父までも死神呼ばわりされてしまうとは」
「貴方のお父さんのことなんて一言も言ってないわ。全て貴方のことよ」
不健康そうな色合いの唇から洩れる言葉は既に彼女の頭の中でいくつもシュミレートされた内容の一部と完全に一致している。だから彼女は、用意しておいたセリフを頭の中で引っ張り出し、読み上げるだけでよかった。何か言いかかる影を遮るようにさらに畳みかけ、言葉を継ぐ。
「パパの死に立ち会ったのは『貴方』。そもそも、パパに仕えていた『先代の黒』も貴方でしょう?
わたしね、パパが死ぬ直前に、貴方とパパが話をしているのをこっそり見たことがあるの。だからすぐに確信が持てた。いくら親子だからって、パパの死を看取った貴方の『父親』が、今の貴方と、年も、背格好も、声も、顔まで瓜二つだなんてこと、あるわけがないでしょう。
――ずっと、ずうっと、パパの代からずうっと、わたしの家にとり憑いていたのよね、死神さん?」
影は、まるで本当に影になってしまったかのように表情を消したまま、黙して何も語らない。彼女はじっと彼が動き出すのを待った。一瞬、いや、数瞬か。いずれにせよ彼女にとっては長すぎる沈黙の後、「死神」はようやく口を開く。
「――まいったな」
口調が変わっていた。「君と君の父親は仲が悪いから、見た目を変える必要はないと思っていたんだが」
それだけでなく、その全身が得体のしれない水のようなもので濡れそぼっていく。あっという間にその全身をずぶ濡れにした水分は、しかし足元に滴った瞬間、床に敷かれた絨毯にしみこむことなく、当たる前にすうっと掻き消えてしまった。その異常な光景に、彼女は思わず息を止める。その光景は、影が人であることを止め、人外となってしまったことを暗に示しているように見えた。
「……本物の、死神」
今見たものが信じられず、彼女ののどから小さなうめき声が漏れる。絵本の上に乗せた手が小刻みに震えだすのを感じ、思わず右手を左手で抑え込んだ。
人であることを止めた瞬間、影であった頃の仮面のような表情の乏しさも失われたらしい。死神はそんな彼女をみとめ、痛ましげにため息をついてみせた。
「そんなに俺を恐れるのなら、知らぬふりをしていればよかっただろう。その年で粋がる必要がどこにある」
「粋がってなどいないわ」
震えないように声を抑えたせいで、思ったよりも低いトーンで反論してしまったことに悔しさを覚えつつ、彼女は続ける。
「それに、わたしは貴方のことなど恐れてはいないわ。だって本当は、もっと早く来てほしかったんだもの」
彼女は笑おうとしたが失敗し、無様に声をひきつらせた。ひっくり返った声が部屋に響き、思わず眉をしかめる。死神を恐れていないというのは本当のことだった。本音を口にしただけだというのに、どうしてこうも無様なことになってしまうのだろうか。何も緊張する必要もないはずなのに。
死神は眉をしかめ両腕を抱いた彼女を憐れむように見つめている。その視線にさらされ、彼女は自分のプライドを傷つけられたと感じた。こんな陰気な死神にまで同情されるだなんて、と唇をかみしめる。
「俺を嫌わないやつなどいない。特に君のような年齢の者が俺を恐れないことなど……」
「怖がってなんていないったら!」
彼女は同情するように、繕うように言われた言葉に耐えきれなくなり叫び返した。そうとも、私は怖くなんてない。死なんて怖くなんかない! 突然の叫びに驚いたか、死神が口をつぐむ。感情の高ぶりに任せて、彼女は声を荒げたまま続けた。今まで責任感やいろいろな人から注がれる期待のこもった目のせいで、なんとか外面の良さを保ってこられたけれど、それももう限界だ。
「小さなころからファミリーのみんながちやほやしてくれたわ。ほしいと言えばパパもみんなもなんだって与えてくれた。お菓子も、ぬいぐるみも、洋服だって! でもそれが何だっていうのよ! せっかくお菓子を買ってもらったって、ぬいぐるみを買ってもらったって、一緒に食べてくれて、一緒に遊んでくれる友達なんて一人も居やしなかった! 洋服だってそうよ、来てどこへ行くっていうの? 外で遊びたいと言っても、学校へ行きたいと言っても、悪いやつがお前を狙っているからだとか、二つ目の太陽がお前を焼き殺してしまうよだとか、わけのわからないことを言われて、いつだって外へは出してもらえなかった! ずっと一人ぼっちで壁に囲まれて生きてきて、自由もないのに豪華に飾り立てられたって、ちっとも嬉しくなんてないじゃない!
挙句何? パパが死んで、これでようやく自由になれるって思った矢先に、『お父上を継いでこのファミリーをまとめていくのは、お嬢様以外にいません』ですって? ふざけるのも大概にしてよ!」
叫び声は次第に高く大きくなっていくが、反比例して心の中はどんどん暗くなっていく。自分さえも欺き、巧妙に隠してきたはずの感情は、自分でも知らないうちに大きく膨らみ、凶暴な感情を伴うようになっていった。
「……みんな壊れちゃえ……。みんなみんな、ぶっ壊れて無くなっちゃえ……!」
絞り出すようにそう呟き、彼女は寝巻の胸元を強くつかんだ。叫びすぎて息が苦しく、心臓が激しく暴れている。呼吸を整えるのも忘れて暴れる感情を持て余していると、これこそが自分の本心だという確信に、落ち着くよりも感情が高ぶっていくのを感じた。そうだ、これが自分の本心だ。どうせ手に入らない自由なら、全て壊れてしまえばいい。自分の体も、命さえ、こんなどうでもいいファミリーと一緒に壊れて消えてしまえばいいのだ。だから、死神なんかに憐みを向けられる筋合いなどない。
ないはずだ。
それなのに。
「……本当に、そうなのか?」
静かに問いかけられ、彼女の心は凍り付いた。問いかけてきた死神は、荒く乱れた息を整えようともしないままきつい目でにらむ彼女の視線をものともせず、水の滴る髪を邪魔そうにかきあげる。
「『ぶっ壊れてしまえ』、か。確かにそれが君の本心かもしれないな。けれどそれは、本当の望みが叶わないと諦めた末に出てきた願いだろう。
本当にいいのか、望みを口にしないまま、自分に嘘をついたまま、俺に身をゆだねてしまっても?」
重ねて問いかけられた言葉に、彼女は唇をかみしめた。本当の望み? そんなもの、「自由になる事」に決まっている。邪魔なファミリーなど壊してしまい、なんの縛りもなくなった世界で好きなことを好きなだけするのだ。そんなこと、激情に任せてすでに何度も口にしていることではないか。
彼女は凍り付いた心を奮い立たせ、精いっぱい胸を張って死神をにらんだ。
「構わないわ。だってわたしの願いは自由になることですもの。今の自分が自由になると言ったら、貴方に身をゆだねる事と同じ意味でしょう」
……うまくいったはずだ。
そう思い、彼女は死神から視線をそらさず口を閉ざす。だが、言ってしまった瞬間から、どっと言い知れない不安が全身に押し寄せ、背中に嫌な汗が浮くのを感じてしまった。心と一緒に凍り付いていた心臓が、また少しずつリズムを主張し始める。胸元を抑えつけて、それでもそびやかした肩の力だけは抜けないようにしながら、彼女はじっと死神の出方をうかがった。
死神はしばし瞑目し、それから重々しいため息をつく。それから息を吸い込み、口を開いたが、出てきた言葉はため息交じりであった。
「……わかった。君が本当にそれを望んでいるのなら」
そうして、ゆったりとした動作で彼女の座るベッドへ向かってくる。そのまま濡れそぼった右手を差し出し、口を開いた。
「俺が君に触れると、君も俺と同じようにこの水で濡れていく。乾いている場所があればともかく、全身がずぶ濡れになってしまったら、もう君は『そちら側』へ戻る事は叶わない。君は『こちら側』の存在になる。『そちら側』の全てを捨てて、『こちら側』へ来るんだ。望みも、願いも、思い出も、全て『そちら側』へ置いて来い。……君にそれができるか」
突然試すようなことを言われ、彼女は思わず顔を伏せ、胸の中で死神の言葉を反芻する。
全て捨てていく。
すべて。
望みも。
願いも。
思い出も。
それは、彼女が願ってきたことのはずだった。しかし、死神の口から発せられた瞬間、とんでもなく不吉なことのように感じられ、先ほど押し寄せた不安がさらに大きなものになっていく。心臓が本格的に暴れ出し、彼女はそれを振り払うように下げていた顔を上げ、死神をにらんだ。
「そんな事、わかって……!」
「わかってなどいないと、俺は思うが」
不安と動揺で周りが見えなくなっていたらしい。気が付けば死神は至近距離まで迫っていた。目と鼻の先に濡れそぼった土気色の顔があり、彼女は声にならない悲鳴を上げて身を引く。いや、身を引いたつもりだったが、ベッドに身を預けたままの状態では死神との距離はほとんど開くことはなかった。そこで初めて、彼女はここまで迫っておきながら、死神が一切自分に触れていないことに気が付く。試されている、馬鹿にされている、そう感じて目の前の顔をにらむと、一瞬だけ死神は視線をそらし、降ろしていた右手を差し出してきた。
むっと、鼻を突く臭い。
夏の淀んだ水場の臭いだ。そう思った瞬間、目の前にいるこの存在が明らかに人外であるということを嫌でも痛感させられる。とたん、襲い来た恐怖と嫌悪が反射的に彼女の体を突き動かした。差し出された手から逃れるように顔をそむける彼女に、死神は伸ばしていた手をひっこめる。死神の方から少し身を引くと、低く問いかけてきた。
「……やめておくか」
「…………」
とっさに逃げ出そうとしてしまったことに気が付いた彼女は、羞恥に唇をかむ。それから激しくかぶりを振った。動悸が激しく、胸が苦しい。先ほど感じた嫌悪感のせいで、死神の顔をまともに見られない。それでも、彼女は必死で自分に言い聞かせた。これが、これこそが、自分に残された唯一「自由になる手段」なのだ。
よほど憂鬱なのか、また死神がため息をつくのがわかる。それからもう一度、あのよどんだ水の臭いが彼女の頬に迫ってくるのが分かった。うつむいたまま、その瞬間を待つ。激しい動悸と荒くなる息で固く閉じていた目を開くと、ふとそれが視線の中に飛び込んできた。
青い空。
もう何度も読み返し、ぼろぼろになって色あせた絵本の、あの青い空。
可愛らしいくまの子が、青い空の下を歩いていく。薄暗い森を抜け、友達を探して明るい空の下へ。
青い空の下へ。
何の予兆もなく、死神が手を引いた。絵本の青空がにじんでいく。自分が泣いているのだとわかった時、彼女の頬を一筋の涙が伝い落ちていった。
「いや……いやよぅ……! わたしまだ、死にたくない」
嗚咽とともに自分の口からあふれだした、明確な死への恐怖と拒絶の意思を、彼女は受け入れるしかない。気づいてしまった。いや、思い出してしまった。外へ出たい、自由になりたいという望みの先に自分自身が見ていたもの。あふれる涙をぬぐうことも忘れて、子供のように自分の胸に訴える。
「青い空が見たいの。森を出て、青い空が見たかっただけなの。それだけなの……!」
「――そうだ。それが君の本当の望みだ」
死神の声は先ほどよりも遠くから聞こえた。はっとして顔を上げれば、その姿はいつの間にか、彼女から数歩、手を伸ばしても届かない位置へ下がっている。
「それが、君が望み、果たせないと諦めかけていた望みだ。……嘘をついたまま死んでいくのはつらいぞ。さっきもそう言っただろう」
死神の言葉にうなずくこともできず、両手で顔を覆った彼女はただただ泣きじゃくった。
「いや、こわい、こわいよぅ……! 死ぬのは怖い、死ぬのは嫌ぁ……!」
「そうだな、怖いな。君の父親もそうだった」
「パパ……も?」
あやすような口調で返され、顔を上げる。涙でにじんだ視界の中で、死神がうなずいたのがかろうじてわかった。
「彼は暗殺される直前、君とひどく喧嘩をしたそうだな。もっとしっかり話を聞いてやればよかった、君を残していきたくない、そう言っていた」
「パパ……」
彼女はすでにこの世にない父の顔を思い出す。喧嘩をした日から一切父親と口を利かなくなった彼女は、そのまま謝ることもできずに死に別れることになった。その父が最期に思ったのが、娘である自分との関係の回復だったなんて。
そうであればいいと、心のどこかで感じていた。表向きは父の死を嘆きながら、心の中でせいせいしたと舌を出し、……それでも、父親を心底嫌いになりきれなかったのかもしれない。
涙がすっとおさまっていくのを感じ、彼女は目を閉じた。震えていた体からゆっくりと力が抜け、鼻をすすりながら、彼女はもう一度絵本をなぞる。「死」よりも少しばかり優しい「死神」は、彼女の心情を慮ってか、その場から動こうとはしなかった。
やがて、彼女が十分に落ち着いたのを見て取ったか、死神は口を開く。その小さな声は、かろうじて彼女の耳に届いた。
「……そら」
「え?」
「見たいか、青い空」
困惑する。それは彼女の望みであると、確かに今認めたところなのは確かだった。しかし、死神自身がここにいる以上、もはやかなわない夢であることも疑いようのない事実である。それを死神自身が問うてくるだなんて、これほどおかしな状況があるだろうか。
彼女は怪訝そうな顔を隠せず、それでも思わず小さくうなずいた。
「それは……その、見たい、けれど」
「それが原因で命を落とすようなことがあっても?」
畳みかけるように問いかけてくる死神に、ふと言葉を詰まらせる。そういわれてしまうと、返事に困るのも事実であった。死ぬのは怖い、けれど望みはかなえたい。ぼろぼろになるまで絵本を読み返し、憧れた青い空。それが自分の命と引き換えに見られるかもしれないのなら……。
「……見たい」
彼女はやっとのことで、震える喉から絞り出すことに成功した。
「死ぬのは怖い。でも……でも見たい。青い空、本物の空。
それが見られるならもう――何も望まない」
「そうか。わかった」
囁くように呟いた死神の方を、控えめに伺うと、いつの間にかずぶ濡れだったはずの彼の体は渇き、代わりに冷たい仮面のような無表情が張り付いている。それを見た彼女は、ほっと息をつくのを止められなかった。少なくとも今夜、これから連れていかれるわけではないのだ。再び人の仮面をかぶった死神……いや、影は、厚く締め切られたままのカーテンを見やった。今は夜のはずだが、日が落ちているかどうかすら、内側からでは判断できない。そんな面白味のないカーテンに視線を向けたまま影がぼそりと呟くのが、彼女の耳にはっきりと届いた。
「……『天気予報によれば、明日は朝から快晴だそうでございますね』」
その意味するところを正確にくみ取った彼女は、不思議なほどに凪いだ胸に絵本を抱きしめ、言葉を探す。あまりにいろいろなことがありすぎ、彼女はファミリーのボスとしてどのような態度で普段この影に接していたのか、わからなくなってしまっていたのだった。
もっと動揺してもいいはずなのに、全く別のところで慌てている自分におかしくなりながら、ふっと息をついた彼女はたった一言、そう、とだけ返す。それか思い出したように付け加えた。
「見てみたいわ、雲一つない青い空」
「……さようでございますね」
いつもなら一刀のもとに切り伏せられるか、あるいは聞かなかったことにされてしまうその言葉に、影の静かな同意が返る。それだけで何故か、彼女は何かが救われたような気がするのだった。
――翌朝。
「おはようございます、お嬢様。お加減はいかがですか」
昨晩のことなどなかったかのように、いつも通りの陰気な顔で影が問いかけてくる。彼女も努めていつも通りの口調を思い出しながら、ベッドから身を起こして返事をした。
「おはよう、ノワール。……ええ、今日はとてもいい気分よ。
――ところで」
それから、いつもは言わない言葉を口にしてみる。
「今日のお天気は? 外は晴れているかしら」
いつもと違う質問に、影は驚かなかった。驚いた演技くらいすれば可愛げがあるのに、と彼女はふと思ったが、そんなものが無意味であることを影は知っているのだから仕方がない。しばし瞑目し、影は何事もなかったかのように主の質問に答えた。
「はい。今朝は雲一つない快晴でございます」
「そう、昨日きいた天気予報が当たったのね」
彼女はいつも通りの口調で、いつもなら決して口にしない言葉をつづける。ただ、冷静でいようと努めるあまり、緊張して、すがるものを求めて枕もとを探ったのは、致し方ないことと言えるだろう。彼女はそのまま探り当てた絵本を引き寄せ、膝の上に置きながら静かに主の言葉を待っているのだろう影に向かって呼びかけた。
「ノワール」
「はい、お嬢様」
「――カーテンを開けて、日の光を入れてちょうだい。薄暗いのは嫌だわ」
いつもなら決して口にされないその言葉を聞いても、やはり影は驚かなかった。ただ少しの間黙り込む。本来なら言下に拒絶すべき命令であるのは確かだが、影はそれをしなかった。表情を殺したまま、低く確認してくる。
「……よろしいのですか」
「何度も言わせないで、ノワール」
彼女から重ねられた命令に、いったい何通りの意味を見出したのか。
影は表向きその非礼をわびるように深々と一礼すると、踵を返してカーテンの方へ向かう。熱く閉めきられ、外から中の様子がうかがえない代わり、中からも外が見えない、壁と同じ意味しか持たなかったその窓へ歩み寄ると、影はカーテンの端を手でつかんだ。そのまま一呼吸おいて、静かに布を引く。
始めに左。ついで右。
薄暗い部屋の中に、まるで一筋の線のように光が差し込み、その眩しさに彼女は思わず目を背けた。しかし、瞼の上から見える赤い光に誘われる。そうだ、この目を開けば空が見える。今まで見たくても見られなかった青い空が。
意を決して目を開け、恐る恐る視線を上げる。そのまま、彼女は目も声も奪われた。
どこまでも続く青。絵本の中の青とは比べ物にならないほどに鮮やかな青。ページの隅で切り取られたりしていない、どこまでもどこまでも続く永遠の色。息もできないほどに、彼女はその色に見とれ続けた。長い間求めてやまなかったものが今、目の前に広がっている。真っ白になっていく思考で、彼女は絵本の中のくまの子を思った。彼もまた、この色が見たくて森を飛び出していったのだ。確かに、住み慣れた薄暗い森を飛び出していく価値がある色だと、彼女にはそう思えた。本当に、この色の下でこれからもずっと生きていけたら。叶うことのない願いが湧き上がって、目じりに浮かんだものを慌てて拭う。しかし、再び顔を上げた時、彼女はそこにありえないものを見た。
方角的にこの時間帯、太陽が直接見えることはない。そのことを知識として、彼女は知っていた。だというのに、部屋から遠目に見える大きな建物のすぐ上あたりに、まるで太陽光のようにぎらりと鋭く輝くもの。
このあたり一帯を抑えるファミリーの令嬢として、そういった世界により近い場所で生きてきた彼女は、一般的な感覚よりもはるかに鋭敏に、自分を害しようとする者の気配を察知することができる。だから彼女は、その二つ目の太陽が一体何であるのか、すぐに気が付いた。
――見たいか、青い空。
――それが原因で命を落とすようなことがあっても?
昨夜の死神の言葉が脳裏によみがえる。その真に意味するところを、彼女は今度こそ正確に理解した。これまで彼女は、自分の寿命は自分を蝕む病が原因で尽きるのだと思ってきた。それを疑いもしなかった。しかし、死神の真意はそこにはない。思えばかの死神が看取り、連れて行った彼女の父も、病で死んだわけではない。
「二つ目の……太陽」
幼い頃、父が言っていた言葉を思い出す。外へ出で遊びたいと駄々をこねる彼女は、父に何度となく言い聞かされた。二つ目の太陽が、お前を焼き殺そうと狙っているから、決して外へ出て行ってはいけないと。その二つ目の太陽が今、彼女の目に映っている、あの鋭い輝きであるのならば。
であるならば、と彼女は震えだした体を、父親に与えられた絵本ごと抑え込んで「二つ目の太陽」を見上げる。自分は、病によって命を落とすのではない。
「そんな……わたし」
「――お嬢様?」
振り返った影が呼びかけてくるが、恐怖のあまり喉が凍り付いて声が出ない。その異常を見て取ったか、影のかぶっていた仮面がはがれ、流れるような動作で、しかし早足に、影は彼女の方へ歩み寄ってくる。一歩進むごとにその体が昨晩のように濡れそぼっていくのが分かったが、もうそれに反応している余裕はなかった。
完全に影から死神へ変じたその体は、彼女が座るベッドの縁に腰かける。シーツは濡れもせず、ただシーツとマットレスを通じて、その冷たい感触が彼女の足にだけ伝わってきた。それに気が付き、彼女は二つ目の太陽から何とか視線を引きはがすのに成功する。今更カーテンを閉めさせたところで何の意味もないであろうことは、彼女にも理解できていた。恐慌で揺れる瞳ですがるように死神を見つめると、まるで混沌を覗き込むような深い黒の瞳とぶつかる。視線が絡み合ったのは一瞬のこと、死神は両腕を伸ばし、彼女の髪を手櫛で整えるように梳き、そのまま自分の胸へ引き寄せた。一瞬何をされたのかわからず反応が遅れる。抱きすくめられているのだと理解したのは、その胸板が当たっている彼女の頬が、冷たく濡れ始めたことに気づいた時だった。理解した瞬間、反射的に彼女は腕をつっぱり、死神の腕の中から逃れようと抵抗する。
「離して!」
「すまん、落ち着いてくれ。この状況は俺だって居たたまれない」
すっかり元に戻った口調で、死神はすまなそうにそう言う。違う。そういう問題ではない。それもあるけれど、そういう問題ではないのだ。彼女は抵抗を続けながら言い募った。
「落ち着けるわけがないでしょう! 抱きしめられて風邪を引きそうに寒くなるなんて!」
この死神は、人の仮面をかぶっているときよりも本来の、人外としての姿をしていた方がよほど人間らしい表情を見せるらしい。一瞬放たれた言葉に声を詰まらせるような気配があり、若干腕の力が緩むのを感じた彼女は、できる限りの力を込めて死神の抱擁から逃れようともがいた。しかし、それでもその腕は彼女の力では容易に外れない。
自分の寝巻が少しずつ水分を含んで重たくなり始めているのを感じ、彼女は死神の腕の中で体を震わせた。昨夜死神が言っていたことが本当なら、この全身が濡れた時が、彼女が死神に連れていかれる時だ。
遠くでは二つ目の太陽が自分を狙い、また今冷たく腐った水をまとった死神が自分を抱きすくめている。自分の寿命を断ち切る二つのナイフをちらつかされて、落ち着いていられるわけがない。彼女は途方に暮れて自分を抱きしめる死神に当たり散らした。
「どっちなのよ! 撃ち殺されるの? それともこの水で凍え死ぬの? ううん、どっちでもいいわ、どうせなら辛くない方にして! 怖くない方にしてよ……!」
「わかってる。さすがに弾丸を防ぐことはできそうにない、が、少なくともこうしていれば、二つ目の太陽は直接君を狙うことができないはずだ」
では自分はこの死神の水で凍え死ぬのか。死神の言葉に、誰に対してかはわからないが皮肉っぽい気分になった彼女は、乾いた声で笑った。ひきつった声がしゃっくりのように響き、逆に呼吸が苦しくなる。
「そんなの、気休めにもならないわよ……!」
「すまん、しかし、それしか言えん」
情けない言葉。様々な感情が入り乱れて泣きじゃくりながら、彼女はさらに死神に向かって当たり散らした。思いつく限りの不満を、思いついた順にぶつけていく。
「なんでずぶ濡れになる必要があるのよ! 濡れた服が張り付いて気持ちが悪い!」
「……すまん」
「それに冷たいし寒い! 死神って体温調節もできないの!」
「無茶を、言わないでくれ。冥界の水が温水プールになったら逆に嫌だろう」
「冥界だろうが何だろうが、温水プールだったら喜んで行ってやるわよ! こんな泥水まみれの男に抱きしめられるくらいなら!」
「……それは否定できんが、せめて息を止めるくらいの努力はしてくれ」
「努力って何よ、できるわけないじゃ……!」
――言葉の途中で、彼女の体を衝撃が貫いた。胸に抱いた絵本ごと、いや、自分を抱きしめている死神ごと。びくり、と自分を閉じ込める死神の腕が震え、体が大きくこわばった。彼女は息を吸い込み声を上げようとしたが、吸い込もうとした息が喉の入り口で詰まって肺まで入っていかない。ひ、ひ、と震える喉で何度も試してみたが、パニックを助長するだけだった。
死神の濡れた手が彼女の背中をまさぐる。慌てたようなその動作が引き金になって、彼女ののどに詰まっていたものが口からあふれ、死神の黒衣を汚した。頭上で感じる死神の気配が、鋭いものに変わっていく。押し殺しきれない怒りをにじませた声が、窓を振り返る気配とともに聞こえてきた。
「まさか……撃ったっていうのか、この状況で!」
初めて感じる、死神の激しい怒りの感情。しかし、彼女はと言えば、それを気にするような状態ではなくなっていた。
胸の一点が酷く熱い。腕に抱いた絵本の感触がぐにゃりと歪んでいく。ああ、お気に入りの本だったのに。きっと太陽のせいで大きな穴が開いてしまった。それだけではない。灼熱を感じる胸の一点から、どくどくとあふれていく生暖かいもの。冷たい死神の水と、自分からあふれる生暖かいそれ、どちらも不快で、どうしようもなく彼女は死神にまた当たり散らすしかなかった。
「ばか、ばかぁ……!」
今度は、死神は応えなかった。ただ彼女を抱きつぶそうとするかのように、緩めていた腕にさらに強い力を込める。冷たい水の感触が、少しずつ胸からあふれる生暖かい感触を覆い隠していくのを、彼女は感じた。死神の胸をたたきながら、その胸にぴったりとほほを寄せる。溢れた涙は温かく、しかし、死神の胸にしみこんだ瞬間、すぐに冷たくなっていった。
「こわ……こわいよぉ……! こわい……!」
「大丈夫だ。もうじき終わる。だから大丈夫だ」
死神の手が、ぎこちなく彼女の背中をさする。その幼い子供をあやすような動作はぎこちなく、「死」そのものを象徴する存在のしぐさとしては、あまりにも切なすぎる動きだった。焼けたような熱を感じる一点とは別のもっと深い場所がうずくのを感じ、彼女はどこかで納得する。やはり、自分は死が怖いのではない。本当に怖いのは。
彼女は死神の胸をたたくのを止め、寒さで凍えるその手で死神の纏う黒衣を強くつかんだ。驚いたように身を震わす死神の顔を見ないように額を押し付ける。戸惑ったような沈黙の後、おずおずとまた、彼女の背をあやす手が再開された。
「……大丈夫だ。大丈夫、だから」
「こわいよ……」
「大丈夫だから」
寒さのためか、それとも死神の水にそういう効果があるのか。朦朧とし始めた意識の中で彼女は死神に縋り付いたまま、ただこわいこわいと繰り返した。まるでままごとのように、死神は応えて大丈夫だと繰り返す。死神も本当は知っているのだろう、彼女が本当に怖がっているものが何なのか。
瞼が重い。怖いはずなのに、眠くてたまらない。落ちてくる瞼に逆らわず、彼女は目を閉じた。
その裏に広がったのは、今朝初めて見たばかりの、あの抜けるような青。
雲一つない、どこまでも続いていく永遠の青。カーテンも壁も塀も、そして二つ目の太陽も。自分を縛り付ける物が何一つとしてない平和な青。
心洗われていくような、瞼に焼き付いたその色に包まれて、彼女は初めて神に祈った。
もし生まれ変わるようなことがあったなら、その時は普通の女の子に生まれたい。
自由にこの青の下を歩いて行って、沢山の友達と出会い、その友達と一緒にお菓子を食べたり、素敵な洋服を買ったりする、そんなあのくまの子のような、普通の女の子に。
そう、その時はパパも一緒がいい。娘が二つ目の太陽に狙われることを恐れる必要のない、ごく普通の仕事をして、ごく普通に休みの日にお話ができる、あの優しいパパのところにまた生まれたい。
夢想しながら、彼女はすっかりずぶ濡れになってしまったからだからゆっくりと力を抜くと、死神の胸の中に顔をうずめ、そのまま薄れゆく意識から手を離す。
最期まで感じていた、あの背中をあやす死神の手は、相変わらず冷たく、ぎこちないままだった。
死神と青空 <了>
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