死神と百万回死んだ魔術師

 閉塞された空間の中で、彼だけが動いていた。

 両手には枷が嵌められ、足には錘の付いた鎖。白かったはずの貫頭衣は、しかし汚れたぼろにしか見えない。しかし、みすぼらしいそんな自らの出で立ちに一切頓着せず、彼は一心不乱に床をはい回る。かり、かり、と何かで床を引っかきながら。


 彼が村の全員から「異教徒」だと告発されたのが一週間ほど前。それまでの彼は魔術薬の薬師をしていた。村にやってきた異人である彼は、はじめのうちは警戒されていたが、それでも己の腕を頼りに、なんとか村人たちの信頼を得はじめていたのだ。少なくとも、彼はそう思っていた。

 村人達が不思議な宗教を信仰しているのは知っていた。彼はこの村に入ったときから、一度たりともその信仰を否定したことはない。……しかし。

 彼は異教徒として告発された。彼の身の回りを世話していた召使も一緒に。

 待っていたのは無意味で悲しい裁判と、厳しい刑罰。彼の言葉は悪魔の声として言葉を封じられ、舌を抜かれた。召し使いは悪魔の声に耳を貸したとして耳を削ぎ落とされた。彼の目の前で泣き叫ぶ召し使いをかばおうとしても、彼の言葉は誰にも届かない。その声は、確かに悪魔の叫び声の様だった。

 彼はがりがりと手元の白墨で閉じ込められた牢屋の床に何かを書いていく。一週間前、今日のために召使に何をプレゼントしようか決めたところで、彼は捕まった。今日は召使の娘の誕生日だ。目の悪い彼女のために、視力が上がるまじないの水薬と、硝子製の眼鏡。どちらも高価だが、この日のために金を貯めた。……貯めたのだ。


 彼は渇いたため息をついた。裁判で有罪と決まったとき、彼の財産は全て神殿が没収した。もちろん、彼女にプレゼントをと貯めた金も、である。今頃は村人に頼まれて用意した薬も、炎の中だろう。

 彼はまた喉を震わせため息をついた。捕まる前日に薬を渡した村人達の顔を思い出す。斜向かいに住むリサの熱は下がっただろうか。角に住んでいるヨセフ爺さんの咳は落ち着いただろうか。そういえば、リサのお母さんが焼いてくれるアップルパイは絶品だった。林檎からパイ生地を作る小麦粉から、全部村で採れるんだと聞いたときには驚いた。舌を失ってはもうあの味を楽しめないけれど。

 自分を告発した村人達を、彼はさほど恨んではいなかった。神殿に連れていかれるとき微かに聞こえた小さな声を、どうしても忘れることができなかったのだ。


「ごめんなさい、許してちょうだい。私たち、神殿に見捨てられたら、もう生きていけないのよ……!」


 その悲痛な声を恨むことはできない。……どうしてもできなかった。

 最後にゆっくりと白墨をおいて、彼は顔をあげた。深く息をついて重い身体で立ち上がる。プレゼントは渡せなかったが、これ位なら。

 満足げに見下ろす彼の視線の先には、優しく微笑むエプロンドレスの娘。顔には眼鏡が掛かっている。その下には、「誕生日おめでとう、ラナ」の文字。


(ああ、やっぱり思ったとおりだ。ラナには眼鏡が似合う)


 彼は笑った。本当は本物の眼鏡をかけたラナを見たかったが、それは叶いそうにない。

 処刑される明日の朝までにできてよかった。とばっちりで一緒に殺される彼女がこれを見ることはないだろうが、それでいい気がした。それに火炙りは辛いが、舌を失った彼の悲鳴は既に耳のない彼女には届かないだろう。それだけは唯一の救いだ。


「本当にいいのか?」


 突然背後から声が聞こえ、彼は驚いて振り返り、尻もちをついた。そのあとはっとして床についた自分の手の下を見遣った彼は、しずかにまたため息をつく。思わず手をついたせいで「誕生日おめでとう」の部分が読めなくなってしまったのだ。いつの間にか背後に立って彼を見つめていた黒い服の男は、気まずそうな沈黙の後、小さな声で「すまん」と呟いた。


「……すまん、折角のプレゼントを」


 立てるか、と手を差し出され、反射的にその手を掴む。男の手はびっしょりと濡れて冷え切っていた。

 存外に強い力で立ち上がるのを手伝われて、彼は何とか身を起こす。枷の嵌められた手と鎖のついた足が、じゃらりといやな音をたてた。

 ありがとう、と言おうとして、ふと気がつく。……この男、一体どこから入ってきたのか。彼がいる場所は、鍵のかかった牢獄だというのに。

 問いかけようとして、更に気がついた。聞こうにも聞けない。彼には舌がない。しかし、そんなことはお構いなしに、男はまた問いかけてきた。


「いいのか、それ。……伝えなくて」


 彼は静かにため息をついてかぶりを振った。自分の声は悪魔の声だ。実際に彼女は天罰を受けてしまった。今の自分に声があろうとなかろうと、もう彼女に掛ける言葉などない。あってはならない。

 男はそれを見て、ずぶ濡れの髪をいじりながら、不思議そうに呟いた。


「……悪魔は、こんな綺麗な絵を描かないと思うが」


 彼は答える代わりに床に置いたままだった白墨を拾い上げた。そのまま男の傍らに立って壁に何か書き込みはじめる。


『僕が』


 少し考えて、彼は続けた。


『僕が最初に死んだのは、もう数百年も前のことだ。妹と兄を殺して、自殺したんだ』


 それから言い訳のように書き加える。


『荒唐無稽だって思われるかもしれないけれど』


 ずぶぬれの男は答えず、視線で続きを促した。彼は男が驚かないことに驚いたが、頷いて続ける。


『それからさき、僕は何度でも死んだ。何度も死んでいるうちに、魔術を覚えて、薬を調合するのが得意になったんだ』


 男は頷いた。そこで初めて、彼は静かに首をかしげて、男を見つめる。


『驚かないのか?』


 男は濡れそぼった髪を邪魔そうにかきあげて、つまらなそうに呟いた。


「……仕事柄、あんたみたいなのを見るのは初めてじゃないんだ」

『すごいな』


 驚いた顔でそれだけ書くと、彼は気を取り直してまた言葉を綴り始める。


『そんな僕でも、ラナは一生懸命仕えてくれた。……実を言うと、一度彼女の前で死んだことがあったんだ。だけど翌日何もなかったように起きてきた僕を見て、彼女は驚いた後』


 彼はそこまでかくと、白墨を止めた。少しの間ためらった後、一気に言葉を書きあげていく。


『喜んでくれた。初めてだった。嬉しかったんだ』


 男は表情を消したまま、静かにため息をついた。しかし、男以上に沈んだ表情をして、彼は更に書きつづける。


『ラナは目が悪くて、いつも目を細めて何かを見てる。だから目つきが悪いと言って、誰も雇ってくれなかったんだ。本当はとても優しくてよく気がつく、出来た娘なのに。目がよくなれば、きっとあの娘はもっと綺麗になれるし、もっと魅力的になれるはずなんだ。僕が、あの娘の魅力を引き出してあげたかった』


 彼はため息をついた。どんなに言葉を重ねた所で、彼の言葉はもう、ラナには届かない。小さく一つ頭を振って、彼はまた白墨を持つ手を動かし始める。


『でも結局、僕が悪魔だから、ラナにも迷惑をかけてしまったんだ。僕には彼女に掛ける言葉なんて』


 途中で、男が彼の手を止めた。濡れそぼった手が、貫頭衣から生えた腕を握りしめている。彼は驚き、白墨を取り落とした。

 かつん、と音を立てて、石で出来た床の上に白墨が落ち、砕ける。それを気にせず、男は濡れた手で彼の手を抑えて、低い声で続けた。


「本当に、あんたはそれでいいのか」


 彼は答えず、枷を付けられた手を振って男の腕を振り払おうとする。しかし、男の力は存外に強く、鋭い視線で見つめられて、彼は睨み返すことしかできなかった。


「生前の大罪で死の祝福を奪われる者はいないわけじゃあない。けれどその罪は長い生によってそそがれ、再び死を得ることが出来るようになる。死神の与える祝福によってだ。アンタは悪魔じゃない。悪魔なら、俺がここに来たりはしない」


 男の言葉に、彼は目を瞠った。男に握りしめられた腕から、少しずつ体温を奪われて行っている。今まで決して存在しなかったその感覚に当惑し、彼は縋るように男を見上げた。ずぶ濡れの男は彼を見据えたまま、言葉を継いだ。


「どうする。このまま祝福を受けずに『死に続ける』か。それとも祝福を受けて『彼女といく』か。好きな方を選べ」


 男の言葉に、彼は力なく腕を振って男の手を振り払った。今度は素直に手を放した男から視線を外し、背中を壁に預けてズルズルとその場に座り込む。

 死に続けた。兄と妹を殺してからずっと、彼は一人で死に続けた。火あぶりになったのも一度や二度ではない。何度も一人で死に続けた。


 ――ああ、私何だか、目の前に常に霞がかかってる感じで……いつもこうやって物を見るから、皆から怖い顔って、言われてて……。

 ――え、めがね? 綺麗になれるお呪い? ……そ、そんなのもらったって、私綺麗になれるはずなんてないですから!

 ――よかった! 旦那様が死んじゃったって、私これからどうしようって……!

 ――いや、旦那様! 旦那様は悪魔なんかじゃない! 旦那様、レオン様!


 初めて自分が死ぬ事で泣いてくれる人が現れた。出来るならずっと一緒にいたいと思った。あんなに彼を大切にしてくれる人はいなかった。

 溢れる涙を隠そうと顔を覆う。空隙と化した口を大きく開いて、ラナと叫ぶ。何度叫んでも、意味のある言葉にはならなかった。それでも彼は、あふれる涙と慟哭を止める事が出来ず、何度も何度も、叫んだ。


「いきたい、いきたい! もう一人は沢山だ! 彼女といきたい、ラナといきたい! ずっと一緒にいたい!」


 意味をなさぬ獣の様な叫びを、男は黙って聞いていたが、やがてゆっくりと息を吐き出すと、影になった牢の壁に歩み寄り、そこを手でなぞる。その動きに合わせて影が波紋を広げていくのに、彼は気がつかない。男は何度も叫ぶ男の方を見た。導くように影に向かって差し出した男の手を握るのは、白い女の手。口元に笑みを刻んで、男は囁いた。


「――その言葉が、ききたかった」






「こちらの絵は、村土着の信仰が残っていた中世、魔女の手先として処刑された異国の薬師が描いたと言われております。白墨で書かれたにもかかわらず、500年経った今でも鮮やかに残っているのは、この牢獄の特殊な湿度や温度によるものと言われており……」


 ツアーコンダクターが訳知り顔で説明するのを聞き流しながら、彼はじっと別の場所を見ていた。めがねをかけて熱心にツアコンの話をメモしている、地味な服装の女性の方だ。説明を終え、ぞろぞろと歩きだすツアー客達の後について歩きながら、彼は彼女の傍に寄った。


「凄い絵ですよね! あんなにきれいなのに、白墨で書いたなんて……」

「薬師は不死だったって言われているんですよ。その不死の呪いを、あの絵が引き受けてくれたんだと言われているんです」


 そうなんですか! 彼の言葉に、彼女は吃驚した顔で振り返る。が、目があってしまった事で気恥かしくなってしまったのか、しきりに眼鏡を直して顔を隠そうとする。


「不死……ですか。きっとその薬師さん、あの娘の事を大切にしてたんでしょうね!」

「ええ、きっとね」


 軽い相槌の後、長い沈黙。隣を歩く彼女と変に視線がぶつかることに気付いた彼は、自分も彼女を見つめていた事など棚にあげて、何事もなかったように問いかけた。


「……僕の顔に、なにか?」

「い、いいえ! なんでも!」

「そうですか、なんだか妙に貴女と視線がぶつかるように感じたもので」


 言うと、彼女はリンゴのように頬を赤らめてそっぽを向く。気まずそうにもごもごと返してきた。


「ごめんなさい、不快……ですよね。私目つきも悪いし地味だし」

「……眼鏡の度があっていないだけです。目にあった眼鏡を付ければ、もっと綺麗に見えますよ」


 言われ、彼女は驚く。彼は笑って、それから続けた。


「なんなら、僕が新しい眼鏡、プレゼントしましょうか?」

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