死神と魔女
「随分とあっけないわね」
女は呟き、足下に転がる体を蹴りつけた。重い音とともに横を向いていた体が仰向けになる。
「もっと抵抗してくれると思ってたのに。味気ないわぁ」
そう言うと、女は艶やかな紅唇をぺろりと舐めた。東欧の血が混じっているのだろうか、瞳は鳶色で、鼻が高い。くすんだ銀髪をアップにしており、身につけた黒いドレスに白磁のような白い肌が、まるでそこだけ光を放っているかのようによく映えた。手には小さなサイズの拳銃が握られており、そこからは白い煙が上がっている。
足下に転がっているのは黒い服を身につけた男だ。水の中に沈められていたのだろうか、全身がぐっしょりと濡れている。四肢は力無く伸び、まるで眠ったように動かないが、額に穿たれた1センチ程の穴から、女の唇と同じ色の液体がこぼれ、男が既に生きてはいないことを示していた。
「死神の血も紅いのねぇ」
女は興味深そうにそう呟き、己が付けた男の銃傷をまじまじとのぞき込む。殺人者というにはあまりにも無垢な表情と視線に、死神、と呼ばれた男の死体はさらされていた。
それに耐えられなくなったのだろうか。
横たわる男の影がゆらりと揺らめき、まるで水の中に沈んでいくように、男の体が地面に潜っていく。ぐらり、とバランスを崩したように男の体が傾き、ずるり、ずるりと影へ沈んでいくのを見て、女は慌てた顔をして拳銃をそちらへ向けた。しかし、引き金を引く直前、どぷん、と音を立てて男の体が完全に地面へ没する。びし、と音を立てて、銃弾が男の胴体があった場所を穿った。
「……これって逃げられたのかしら」
憮然とした面もちで、女は拳銃をおろす。目の前の超自然的な現象に対して、あまり驚いているように見えなかった。拳銃を深くスリットの入ったドレスの下へ隠し、女はきびすを返す。そしてそばにあったろうそくに火を付けた。
……浮かび上がった光景に、おそらく驚かない人間はいないだろう。
胸に鉄の筒を突き刺された白い女性の裸体。その数はゆうに数十をくだらない。
ほとんどの裸体からは血が抜けきり、筒からはなにも出てきてはいないが、中にはまだ真っ赤な液体を吐き出し続けている者もあり、その下に据えられたバスタブに、彼女らの命がなみなみとたたえられていた。
ふわりとろうそくの火が揺れ、淀んだ空気がうごめいた。むせかえるほどの血のにおい。しかしそのにおいを胸一杯に吸い込んだ女は、うっとりと相好を崩す。
「ああ、なんて甘い匂い。あなたたちの命は無駄にはしないわ。私の中で生き続けることができるのよ。永遠に……」
女の足下で、影がゆらゆらと不規則に揺れる。その様はまるで、この世の者ではないような雰囲気を醸し出していた。
「永遠の命。永遠の美。永遠の若さ。全て世の女たちみんなが欲するところ。私と一つになれば、みんな叶うのよ」
夢見るような顔つきで、歌うように女はつぶやく。しかし、その顔がふとくもり、残念そうな口調になる。
「ああ、でもあの死神を逃がしたのは残念だったわ。あの血を一滴でもこのバスタブに入れて、それで湯浴みをしてみたかったのに……」
「そりゃぁ悪趣味だなぁ。あんな朴念仁の血を絞ったって、楽しいことなんぞ何もありゃせんってのに」
突然の男の声に、女は表情を消して拳銃を構えた。油断無くあたりを見渡し、声の主を捜す。
見渡す限りの女の裸体、裸体、裸体。紅い床、そして紅いバスタブ。その白と赤に違和感がないか、念入りに視線を巡らすと、女はふと一カ所で視線を止めた。
白い服を着た男が、女の裸体に埋まっている。その体は首とそこに食い込んだ一本の荒縄で支えられ、がっくりと脱力していた。少し開いた口から、舌先がのぞいている。女は眉をしかめ、たった一言つぶやいた。
「……醜い」
「悪かったなぁ。これでも生きてた頃はおまえより美人と付き合ってたんだぜ」
首をつった男の顔がかくりと上向き、舌をべろりと出してにたりと笑う。あり得ない光景であったが、ずぶぬれの男の死体が影へ沈んでいくのを、なれた様子で見ていた女にとっては、この程度のことは驚くには値しないものなのだろう。女はふん、と鼻を鳴らし、再び拳銃の引き金にかけた指に力を込める。
……そのときだった。
揺らめく女の影が彼女の足下で激しくうねり始めた。女が気がつくよりも先に、影から波紋を描いて現れた、黒い袖に包まれた手が、がっしりと女の足首をつかむ。
「なっ……!?」
氷のように冷たい感触に、思わず女が声を上げ、足下から生えた手をにらみ付ける。女の視線の先で、塗れた黒髪が、女の影から頭を出した。髪は緩やかに、まるで水面から顔を出すように上昇してくる。額が現れ、目が現れ、鼻と口が影の中に没したまま、静かに波紋を描きながら、それは女の足下から女を見上げていた。
ひゃっはっは、と甲高い笑い声が響く。いつの間にか女性たちの裸体の間に埋まっていたはずの白い男が、女の背後に立っていた。
「そいつは俺より執念深いぞ。捕まれたらもう逃げられんなぁ」
白い男がかくかくと首を揺らして笑う。女はそれを無視して、影に埋まったままの頭に銃口を向けた。
しかし、引き金は引けなかった。
ぬるりと紅い糸が女の拳銃にからみつき、銃口を完全に塞いでしまう。女は慌てて拳銃から手を離したが、拳銃は宙に浮いたまま、緩やかにくるりと向きを変え、解放された銃口が女に向かった。
「……殺せたと思ったか?」
低い声が足下から聞こえ、女は銃口から視線を逸らす。先ほど殺したはずの黒ずくめの男が、女の足をつかんでそこにひざをついていた。
「死神は死なない。死者が死なないのと同じだ」
低い声でつぶやくと、ほう、と息をつき、男は銃弾を受けた額をさする。そこには既に傷など無く、その事実はさすがに女を戦慄させたようだった。
「死者は死なない。そういう観点で言うなら、お前に殺された娘たちは、確かに永遠の命を得たんだろうな」
男は女から手を離し、ゆっくりと立ち上がる。後ずさろうとして女は振り返り、いつの間にか白い男が離れた場所へ退避していることに気がついた。そして、今まで白い男のいた場所を通って、バスタブから自分へ延びる紅い命……。
「でもそれは、本当に幸せなことだったのか? その答えは……そう、彼女たちに直接聞くといい」
「あ、あ……ああ……」
意味をなさない声が女の口から漏れ出す。鳶色の瞳がほとんど初めて恐怖や絶望に染まった。
バスタブにたまっていた女性たちの命が、女の足に絡みついている。女は必死でふりほどこうとしたが、蜘蛛の糸のようにべったりと貼り付き、徐々に女の体から自由を奪っていった。何が起きているのかわからないのだろう、子供が足下にとぐろを巻く毒蛇におびえるように、女は悲鳴を上げて逃げようとする。しかしそれは白と黒、二人の生きているはずのない男たちによって押さえ込まれた。
「残念だったなぁ。しかし人の命を粗末にするんなら、せめてこのくらいのことは覚悟しとかにゃ。因果に怯えてるんじゃぁ、死神からは逃れられんなぁ」
白い男が舌をべろりと出して女の首筋をなめる。
「何が不死だ。何が永遠の美だ。長く厳しい修行の成果で神も仏も恐れんと言うならまだわかる。だがお前は違う。自分を磨かず、他者を食い物にし、己の欲望だけを意味もなく追いかけた。お前など魔女と呼ぶにも値しない!」
男たちの声を、女は聞いていない。そんなことはどうでもいいのだ。
死ぬ。殺される。それも、己の健康と美容のために生き血を搾り取り、結果死なせた若い娘たちの怨念に。
「違う、違うわ! これはあなたたちが望んだんじゃないの! 私はあなたたちに永遠の美を……!」
「いいわけだなぁ」
白い男が一言で切って捨てる。しかし、女の狂乱を止める気は全くないようだった。
「生き血を搾り取られて入浴剤にされるなんぞ、いくら何でも誰も望みゃせんぞ、ん?」
「いやぁ、助けて、たすけて!」
「……そう命乞いした彼女たちに、お前なんて答えた? そっくりそのまま返してやる」
「助けて! 死ぬ、殺されるーー!」
男二人を無視して叫ぶ女は、しかし塗れた髪を振り乱して目を上げた瞬間肩を震わせて凍り付く。男二人が止められない女の恐慌を、光景一つで止めたのは何者か。顔を見合わせ、女の視線の先を見やって……彼等は同時に納得する。
見ていた。
数十を下らぬ女性たちの裸体が一斉に目を開き、淀み濁った瞳で女をじっと見つめていた。
女の瞳から涙がこぼれる。ひゅう、と木枯らしのような音を立てて息を吸い込んだ女は、次の瞬間狂ったように絶叫した。
押さえつけられた腕をふりほどこうと、足に絡みついた命の紅を振り払おうと狂ったように暴れる女に、既に美を追い求める狂気も、女としての尊厳も、そしてもちろん美しさもかけらもない。憐憫の視線を投げた黒い男は、ぐっしょりと濡れた全身で女を押さえ込むと、ちらりと犠牲となった娘たちを見た。
その視線に応えるように、女の足が憎悪のこもった紅い海の中へ没していく。女は気がついてすぐにもがこうとしたが、男に押さえ込まれて叶わない。段々と女の体が底無し沼にはまり込んだように、足元の命の紅に沈んでいく。足首、膝、腰、何かをつかもうとする女の腕を捕まえた白い男が、黒い男の方へその腕を押しやると、女は絶望のうめきをあげた。そのまま腹、胸、首と埋まっていく。
最後に顎まで浸かった女の頭を、黒い男が力任せにつかみ、押し込んだ。
「沈め、化物が。お前など冥府へ導く価値もない……!」
「謝兄、恩にきる」
血だまりの上で息をついた黒い男は、傍らで首を回している白い男に向かってそういった。謝、と呼ばれた白い男は肩をすくめて笑う。
「なぁに。范のおかげで久方ぶりにおもしろかった。さすがに瑠璃が視た映像はぴしゃりと当たるなぁ」
范と呼ばれた黒い男は憂鬱そうにため息をつくと、人差し指で額を掻いた。謝が俯いた范をのぞき込む。
「どうした。まだ痛むか」
「……いや」
「油断するからだ。佐吉に言われたろう、あの魔女に気をつけろと」
范は答えず、忌々しそうに額から指をはなす。それから濡れた髪が頬に貼り付くのを邪魔そうにかきあげて視線を逸らした。それを見た謝はおかしげにくっくっと肩を震わせて笑う。
「ま、なんにせよ、この娘たちも自由の身。準備ができたら冥府へ導くとしようか」
しかし、范の態度にはそれ以上言及せず、謝はそううなずいた後、ところで、と弟分をのぞき込んだ。
「拳銃で撃たれるとはどんな感じだ?」
范は答えようとして謝の方を向き、言葉を詰まらせてそっぽを向く。小さな声でたしなめるようにつぶやいた。
「謝兄、謝兄が彼女らに紛れて隠れようとしたその時にも思ったんだが」
「おう、何でも言え」
「不謹慎だ」
「俺を衝き動かすのは興味と好奇心、そして酒だ。仕方あるまい?」
いけしゃあしゃあと、という言葉が一番にあいそうな口調でけろりと言い放たれ、范は頭を抱えた。
返す言葉が見つからない。
「で、どうだった?」
子供のような顔で問いかけてくる兄貴分に、范は鼻の頭に深いしわを作ってからつぶやいた。
「……俺からすれば縊死や溺死と大してかわらん」
「なんだ、面白くない」
望む答えではなかったのか、謝は肩を竦めて首をかくりと揺らすと、不満そうに鼻を鳴らした。
《了》
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