死神と烈女
彼女の人生を慮るに、決して素晴らしい人生とは言い難いかもしれない。
結婚した夫とはすぐに死別し、その後生活の為、その操を何度となく諦めねばならない危機に晒された。それをかわし続け、生活の為に子供たちに読み書きを教え続けた。「師」と呼ばれるようになって、年をとり、男達も誰も彼女に見向きもしなくなった時、彼女の周りを、大量の生徒たちが取り囲んでいた。家族を持ち、結婚し、新しい家族を得たその子供たちが、彼女を「烈女」と讃えた。
……そして今、彼女はたった一人でここにいる。
女の身で祖霊を祀る事が出来ない、彼女のいるこの家には、本来祭壇は必要ない。しかし、その祭壇を守り、埃を払い、本来主が座るべき場所を、彼女は守ってきた。新たな夫を迎えるつもりなど毛頭ないというのに、その場所を何故か、彼女は守り続けた。
彼女の人生を慮るに、決して素晴らしい人生とは言い難いかもしれない。
愛する夫と死別し、たった一人になって、それでももう戻らない夫を待っているかのように、夫の居場所を遺し続けた。愚かと言われようと、その貞操を疑われようと、それでも夫の居場所を遺し続けた。
そして今、彼女はたった一人でここにいる。
夫の座るべき祭壇の前を空け、その後ろに背筋を伸ばし、まっすぐ前を向いて座っている。
部屋の隅にわだかまる影が揺らめいても、視線を逸らさない。そこから異様な気配が彼女に向けられても、視線を逸らさない。
たぷ、と音を立て、影が波紋を広げ、そこから黒い道服を着たずぶ濡れの男が顔を出しても、視線を逸らさない。
水から上がるように影の外へ出た男は、彼女を見つめ、居心地が悪そうに視線をそらした。それから彼女に見つからないように左右を確認し、背後にある庭へ出ようとする。
「ちゃんと門から入っていらっしゃいと、言った筈ですよ」
凛とした彼女の声に、男はびくりと全身を震わせ、ぴたりと足を止めた。それから恐る恐るという感じで振り返り、彼女の背中を見つめる。
かなりの年齢だというのに、彼女はピンと背筋を伸ばし、意固地にでもなったかのように祭壇から顔をそらさずにいた。もちろん男の方を振り返りもしない。
観念したように身体ごと彼女に向き直り、男は頭を掻いて項垂れた。
「……すいません、あの……芳大姐」
「そう呼ばれるの、もう何年ぶりかしら。私が年のせいであのお方のお勤めを手伝う事が出来なくなって以来、全く耳にしなくなってしまったわ」
彼女は素直に謝る男に、初めて表情を緩めた声で応える。それから淡くほほ笑んだまま、ゆるりと振り返った。
祭壇には完全に背を向けず、男の方へ首だけ向けて、彼女は笑い掛ける。しかし、ほっと男が安堵の息をついたのもつかの間。
「お前は、この長い間に殆ど成長しなかったようですけれどね」
という、彼女の厳しい一言に、男は立ったまま、彼女より小さくなるのではというくらいに肩をすぼめた。
「……相変わらず、苛烈な人だ」
「あら、これでも随分と丸くなったものですよ? お前の主と共にここですんでいたころは、あのお方ですら私に口ではかなわなかったのですから」
「……芳先生は、今でも敵わないだろうと言ってる」
苦々しくそう反論すると、あらあら、と呟いた彼女は口元を袖で隠し、ころころと笑って見せた。それは男に往年、若かりし頃の彼女を思い出させるような、闊達な笑みであった。
「あのお方も、相変わらず成長なさらないのね。だからこそ殿方というのは女がいなくては駄目なのだけれど」
「でも、あなたはあなたを最初に必要とした芳先生にしか、仕えようとしなかった」
当然です、と彼女は表情を引き締め、男は言い返したばかりだというのに、すぐに神妙な顔になって口をつぐむ。祭壇へ視線を戻した彼女は、本来供物が置かれるべきその場所をさびしそうに見つめ、しかし口調だけは厳しく続けた。
「貞操や倫理といったものではないわ。私はあのお方のお手伝いが出来た。夫のお勤めを手伝う事が出来るのなら、他の殿方と契る事など出来ません」
「今やあなたは、この街が誇る烈女だ。たった一人の男、しかもこの街を救った男の妻であることを、決して忘れようとしなかった」
「ふふ、意地をほめたたえられるというのは、悪い気はしないものね。本当は、、お手伝いが出来なくなったときにはもう、男への興味などまるで持てない年になってしまっていただけかもしれないのに」
「……冗談を」
男は初めて口元をほころばせた。それは微笑というよりは、むしろ苦笑であったかもしれない。そのまま言葉を継ぐ。
「毎日年老いていくあなたが我が主の廟を掃除に来てくださっていた事、俺も、主も、知らないわけがありません。俺や芳先生の姿が見えなくなっても、あなたは変わらず、芳先生の妻であり続けた」
「女にとって、最初の相手はわすれがたいものよ。それがたとえ、結婚して三日で世を去った相手であっても。その原因が、己にあればなおの事」
静かに、彼女はそう応えた。男はずぶ濡れの髪を掻きあげ、ひさしぶりにあなたの惚気を聞いた、とややうんざりしたように呟き、軽く咳払いをする。
「そろそろ、お勤めに戻りたいのだが」
「これは惚気ではないのだけれど。まあいいわ、御自由に」
では、と男は背筋を正し、まるで丸暗記した文言を読み上げるかのような不安定な口調で、声を掛けた。
「門から入らぬ不作法をご指摘いただいた後ながら、主たる城隍神、芳隻真様の命により、烈女たる李巡綸様、あなたさまを城隍廟へお迎えいたします」
「烈女のお迎えは初めてかしら?」
主から習った通りの言葉を復唱したつもりだった男は、そこで質問を返され、きょとんと目を瞠る。その様を見た彼女は、ふう、と呆れたようにため息をついた。殆ど条件反射のように肩をすくめて彼女の言葉を待つ男に、眉をしかめた彼女は強い口調で糾弾する。
「烈女を迎えるのなら、泰山、冥界の主神へ直接取り次いでも良い決まりの筈ですよ? そう、あのお方はお前に教えていた筈ですが」
「え、あ、そ、そう、……だっけ? す、すいません、大姐……」
小さくなってひたすら恐縮してばかりの男に、彼女はぷっと吹き出し、再びそでで顔を隠す。むすりと黙り込んだ男に、呆れたように彼女は呟いてみせた。
「ほんに……ほんに、お前は成長しない事。これでは不安で仕方ないわ」
落ち込んだようにため息をついた男をみて笑みを深くした彼女は、ついと両手をついて立ち上がる。男の記憶よりもはるかに小さくなったその背を、それでも意地のようにピンと伸ばし、彼女はいつも通りに強い瞳で男を見上げた。
「さあ、案内なさい。ひさしぶりだけれど、これで最期。最期に私の敬愛する、この街の守護神の元へ。……私の夫のもとへ、連れて行ってちょうだい」
男は彼女を見つめ返すと、嘗て彼女に教わったように礼拝し、丁寧に彼女の後ろへ回った。そして先に立って歩き出した彼女について、廊下を歩く。
「あの……大姐?」
「何かしら?」
不安そうに問いかけた男に、振り返らず、歩みも止めずに、彼女は聞き返した。その背中に、小さくなりながら男が言葉を重ねる。
「……やっぱり、門から出て、門から入るのですか……?」
彼女はピクリと片眉を跳ね上げ、振り返って両手を腰に当てると、鋭い視線で男を睨みあげた。その視線に震えあがった男を、これから冥府へ行こうとする老婦人とは思えぬ声で一喝する……。
「当然です!」
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