死神と老婦人

 黒い上下に白衣を纏った年若い医師が、淡いクリーム色に塗られた廊下を静かに歩いていた。ふと視線を上げれば森の緑が風に揺れ、耳を澄ませばかすかに鳥のさえずりが聞こえてくる。遠く遠く、囁くようなあの音は、海のさざめきだろうか。

 自然に囲まれたこの医療センターには、治療の為の最新鋭の機器はない。痛みを抑えたり、精神的な苦痛を和らげたりするための機器には力を入れても、治療の為に予算を割く事はほとんどない。年若い医師は病室でゆったりと本を読んでいる老婦人を見て、静かに目元を和らげ、視線をそらした。

 ――医師の目にははっきりと見えている。彼女には、明日「迎え」が来る事が。




「先生、今日はまた暖かい日になりましたねぇ」

「そうですね」


 穏やかに会話しながら、医師は老婦人の血圧を測る。末期癌を宣告され、軽く認知症の兆候が見られる身寄りのない彼女は、よく家族の話をしてくれるのだ。


「昨日夫がねぇ、私の手料理を美味しい美味しいって食べてくれたんですよ。出張から帰ってきた後は絶対にかぼちゃの煮物を出す事にしているんですけどねぇ」


 50年以上前に天に昇った夫の話題が、彼女との会話では「昨日のこと」として出てくる。医師は穏やかな双眸を老婦人に向けたまま、彼女の血圧を測り終えた後、今度は血液中の酸素濃度を測りながら、笑みを含んだ声で応えた。


「おれも澤田さんの作ったかぼちゃの煮物が食べたいなぁ。大好きなんですよ、お袋がいつも作ってくれたから」

「あらあら」


 老婦人はコロコロと笑った。本当に幸せそうに笑った。


「先生にも作ってあげましょうねぇ、私の煮物は絶品よ?」

「本当ですか、楽しみだなぁ」


 言いながら、医師は慣れた手つきで老婦人につながった点滴を確認し、乱れたブランケットを掛け直して、ノートに何事か記すと、彼女に向き直る。


「澤田さん、また夕方になったら来ますから。お話聞かせてくださいね、お大事に」

「はいはい、先生こそ、雨の日なのに傘もなしに外へ飛び出していっちゃダメですよ」


 踵を返して病室を出ようとしていた医師はピタリと立ち止まった。しばらく沈黙した後、緩やかな動作で振り返る。会話の噛み合わない事を言って医師を立ち止らせた老婦人は、にこにこと笑っていながらも、どこか慈愛に満ちた、母のような優しさで彼を見つめていた。彼女の眼には、医師がそのように見えているのだ。


 乾いた風が木の枝を揺らす音。遠い小鳥のさえずり。澄んだ青天を背景にニコニコと笑う老婦人に、若い医師は静かに微笑んで、口を開いた。


「――澤田さん、夜お迎えに行きますから。

 ……一緒に、旦那さんに会いに行きましょう」

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