死神と予約席

「そこに、いるんだろう?」

 閉店間際の、客のいないバーで一人、マスターが呟いた。「reserved」と書かれたプレートを置いた席に、視線をやっている。グラスを磨きながら、マスターはさらに続けた。

「もう、20年近くになるか。お前との関係は」

 その言葉に、「reserved」のプレートが置かれたスツールの影が、ゆらりと揺らめいた。

「18年だ」

 水から顔を出すように、影から顔を出した黒ずくめの男は、水を滴らせながら立ちあがる。その水は床に落ちる前に、すうっと掻き消えてしまった。

 そうかい、とマスターは笑う。

「35の時、借金抱えて自殺しようとした俺を助けてくれた、間抜けな死神の事を忘れるには、少しばかり短すぎる時間だな」

「やかましい」

 低く言い返した後、死神と呼ばれた男は「reserved」と書かれた席の隣のスツールに手を掛け、マスターに制された。

「お前はこっちだ。ずっとここだけ、お前の為に空けてあった」

 指差されたのは「reserved」の席だ。死神は居心地悪そうに、勧められたスツールに腰をおろした。

「相変わらず、風邪引きそうな格好しやがって」

 いうと、マスターはマグカップにラムを注ぐ。それから熱湯を注ぎ、最後にバターを添えた。

「ホットバタード・ラムでございます。……たまご酒みたいなもんだ、これ飲んであったまれ」

 あったまるか、阿呆、と毒づきながらも、死神は差し出されたマグカップに口を付け、顔をしかめる。アルコールがきつい。

「何だお前、酒もダメか。つまらん男だな」

「余計なお世話だ」

 ぼそりと言い返し、死神はカウンターにマグカップを置いた。

「寿命をひっくり返して18年。35で死ぬはずだったお前が、今年53だ。……言いたい事は分かってるな」

 死神の言葉に、マスターは肩をすくめる。少し寂しげだが、どこか達観したような表情だった。

「カクテルの道はまだまだ続いてるんだが……仕方ないな」

 ふと視線をそらし、マスターが見つめたのは、シェイカーやステアグラス。このバーで苦楽を分け合った戦友だ。

 しばらくの沈黙の後、死神は小さな声で呟いた。

「その……まあ、なんだ。良い店……だな」

「そりゃどうも。次のマスターも決まってる。あとはまあ、引き継ぎだけだな」

 居心地が悪かったのか、死神はマグの中に残ったカクテルを一気にあおる。むせかえってカウンターに突っ伏した所を、マスターにはたかれた。

「アホか! 弱いくせに、酒に失礼な飲み方をするな!」

「……す、すまん」

 死神が低く謝罪するなり、マスターは咳払いし、ステアグラスにウィスキーを注ぎだした。死神の目の前で幾つかボトルを傾け、くるくるとかきまわしてカクテルグラスに注ぐ。

「『オールド・パル』だ。これ飲めるようになるまで、この店のこの席はお前のもんだからな」

「……意味の分からん脅しだな」

 死神が苦笑する。マスターが見る初めての笑みであった。


「マスター! 掃除終わりました!」

 叫んで、若いバーテンダーが裏からカウンターに入ってくる。マスターは振り返り、笑ってその肩を叩いた。

「ああ、お疲れさん」

「はい! ……ってあれ、お客様がいたんですか?」

 予約席に置かれたマグカップと「オールド・パル」。バーテンダーが首をかしげると、マスターが苦笑する。

「ああ。これから毎日、来るそうだ。酒が苦手だが、これが飲めるようになるまでは通うとさ」

「はぁ……」

 指を差されたカクテルグラスに、バーテンダーは更に怪訝そうな顔をする。マスターは声をたてて笑い、それからバーテンダーを見返した。

「明日からお前がこのバーのマスターだ。あのお客様の為に、この時間帯になったら毎日、あの席へオールド・パルを頼む」

「ええ、まあ……わかりました。お客様が来なくてもですか?」

「来なくてもだ」

 はあ、と要領の得ない声で頷くバーテンダーの肩を、もう一度マスターは叩く。

「あれが全部なくなるようになったら、それから先はもう、出さなくていいから」

 よろしくな、と呟き、マスターはエプロンを外すと、裏へ続く扉を開いた。

 若いバーテンダーはその背中を見つめ、それからカクテルを引こうとカウンターに手を伸ばし……ふと首をかしげる。

 いつも、縁は綺麗に拭き清められている、カクテルグラス。それが、まるで誰かが口を付けたように、ふちが酒で濡れていた。

「……幽霊、かな」

 冗談めかして呟き、新たなバーのマスターは、カクテルグラスを手に取った。

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