死神と定義

 どさり、と鈍い音が鳴り響いた。僕は屋上で本を読んでいて、その音に気がつくのが少し遅れた。どうせ何かが落ちた音だろう、そんなの特に気にする事でもない……。

 本に視線を戻す。つまらない授業、つまらないクラスメイト、つまらない日常、そんな物、僕には関係ない。その輪に入っているのも嫌だった。どうせ僕の事など、あの輪の中にいてもいなくても、大して話題になりはしないのだ。

 しかし、その音がした日だけは、少し違っていた。

 何となく気になって、もう一度本から目を放し、音がした方を見てみる。するとそこには、見なれない黒い影がある。じっと見つめて、それが黒い服をきた人影だという事に僕が気づいたのは、少し後の事だった。

 人だ。見慣れない、黒ずくめの人。しかも遠目でもよくわかるくらい、その人はびっしょり濡れていた。僕は上空を見る。……快晴だ。雨なんか振っていたら僕はここにはいられない。

 黒ずくめの人は僕の視線に気が付き、僕の方へ寄ってきた。何となくそれを迎え撃つ形で、本を閉じ、僕は彼の方を向いて立ち上がる。目の前に来たのは男で、やっぱりびしょぬれだった。僕の方にやってきたのに、声をかけることもしないで、じっと僕を見つめている。

 男はじっと僕を見つめていたが、ふと視線をそらした。風が吹いて、男の方から腐った水の匂いが漂う。僕は身を固くした。間違いなく、これは人間じゃない。

 そう思ってみてみると、男の足元には影がなかった。僕の視線に気がついたのだろう、ため息と一緒に、男は僕に問いかけてきた。

「……俺の姿が見えるのか」

 僕は肯く。姿が見えるのが特別だという事は、こいつはきっと、人間ではないのだろう。

「お前、人間じゃないんだな。……幽霊か?」

 問いかけても、返事はない。しばらく沈黙がつづいた。男は静かに僕を見つめている。その視線に耐えられなくなってきた所で、男はもう一度口を開いた。

「どうして、そう思った?」

 俺の姿が見えるのか、と聞いておいて、突然何を聞くのか。僕はムッときたが、答えてやることにした。

「影がない。それに、姿が見えるはずないんだろ? じゃあ人間じゃない」

「姿が見えないのは、人間じゃないのか?」

 まるで問答のような問いかけだ。びしょぬれの男の、まるで僕を馬鹿にしたような言い方に、さらにムッときた。

「人間じゃないだろ? 姿が見えないなんて」

「そうか」

 それきり何も言わなかったが、男の気配は明らかに怒りを含んでいる。僕はさらに居心地が悪くなって、まるで喧嘩を売るような言い方で問い詰めた。

「じゃあ何なんだよ! 姿が見えない奴の事を、お前はなんていうんだ!」

「違う、そういうことじゃない」

 男は疲れたようにため息をついて、かぶりを振った。

「姿が見えない存在は、全て人間ではない……そうは言い切れないって言ったんだ」

 わけがわからない。男の言いたい事が分からない。黙っていると、男は怒り半分、呆れ半分のため息をもう一度つき、低い声で吐き捨てた。

「俺が去るまでに、考えてみろ。答えが出たら、いい事がある」

 その高圧的な言葉に、僕はカチンと来た。知った事か、化け物の言葉なんて!

 そっぽを向こうとして、その時初めて、僕は男の背後に人が立っていた事を知った。ハイソックスに、この高校の制服。スカートはひざ下くらいの長さの、地味な女の子だった。土足の筈の屋上で、靴を履いていない。

 どこかで出会った子だった。しかし、名前が思い出せない。僕が必死になって考えている間に、その女の子は悲しそうに細いため息をついて、男に付いて歩きだした。屋上の縁へ進み、そこを越えて更に一歩……。

 そこで、二人の姿がかき消える。

 ……結局、僕がその子の事を、クラスメイトの川西玲奈さんだったと気がつくのは、教室に戻り、ついさっき、屋上から彼女が飛びおり、即死したという知らせを聞いた時だった。

 屋上に置かれた遺書には、「私は 誰の目にも 映らない」と一言だけ。クラスの中で酷いいじめにあっていたらしい川西さん自殺の報を、冷めた目で聞いているクラスメイトを見て、僕は男の言いたかった事をようやく理解した。

「姿が見えないからと言って、人間でないと言えるのか」

 クラスメイトを見わたし、僕は頭に浮かんだ思考に身を震わせる。

 この疑問に、言える、という答えを出す事、その意味の恐ろしさに。

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