死神と賜死の公子

 王侯が住まう邸第が立ち並ぶ町並みに、比較的質素な一軒がある。豪邸の中にあって、極彩色に埋もれるような小さな邸第だ。

しかし、その敷地内にある庭は、外から見れば、暮れなずむ日差しにもわかるほど細やかに手入れの行き届いた、美しい景観を演出していた。


 邸第の中の、一際質素な一室、その窓際から、青年は静かに外を見つめていた。ここからなら広大な庭を見渡すことができる。ただ、外からは手入れが行き届いているかに見えた庭は、内から見れば、枯れ葉が落ち雑草が生えはじめた、「荒れはじめた庭園」であった。それを憂いているのか、青年の白い面は曇り、両の瞳は悲しみを湛えて揺れている。


 彼の傍には、一振りの剣がある。璧と珠で飾られた豪奢な品で、飾り気のない部屋の中にあって明らかに異質な存在だった。傍らで自己主張するそれを見て、青年はため息をつく。重々しく沈んだ、暗いため息だった。荒れはじめた庭よりも、質素な部屋よりも、青年にとって剣こそが憂いの種であることを示す表情だ。


 それは、彼の主君たる王から下賜された剣だった。しかし、これまでの青年の功績を称える為に贈られた物では、断じてない。


「……日没迄に、か。兄上も随分とお気の早い」

「……同感だ」


 主君を兄と呼び、ため息とともに吐き出した不思議な台詞に、どこからともなく返事があっても、青年は驚かなかった。王を兄に持つ青年は当然ながら公子であり、馴れ馴れしい口をきく事のできる者は指折り数えるほどしかいない。そもそも邸第の中には、青年の他には誰もいないのである。数日前全ての家人に暇をだし、青年一人になったのだ。つまりがらんどうの邸第の中で、青年に馴れ馴れしい口をきけるものなど存在しないはずである。

 それでも青年は…いや、玉の剣を携えた公子は驚かなかった。ゆっくりと視線を巡らせ、窓の下から伸びる自分の影の上で止めた。公子の視線の先で、まるで宵闇の中で夜風にたゆたう水面のように、影が揺れている。その揺らめきが一際大きくなった所で、その下から何かが顔を出した。

 有り得ない光景を前にして、公子はなお驚かなかった。まるで、その光景の意味するところを知っているかの様であった。

 公子の見ている先で、影から何かが姿を表す。始め顔だけであったそれは、やがて胸が浮かび、両手をついて腰まで現れ、さらに膝をついて体全体を引き揚げた。


 姿を現したのは、黒い道服を纏った男だ。有り得ない場所から姿を現した彼は、今し方水からあがったばかりのように、全身ぐっしょりと濡れている。しかし、ぱたりと髪から滴った水滴は、床に落ちる前にすうっと音もなく消えてしまった。


 男は静かに周囲を見渡してから、公子に向かって口を開いた。色を失った唇から漏れたのは、先ほどどこからともなく聞こえてきて、公子に同意してみせたあの声である。


「民のために私財をなげうち、道の何たるかを示した功臣に対する、これが朝廷の礼儀か。正に時人知忠義虚、だな」


 公子はわざとらしく眉をひそめてみせた。


「不敬な。陛下に対し奉りそのような物言い、到底許されるものではないぞ」

「おれの主君ではない」


 即座に言い放たれ、公子は苦笑する。本気で怒っている訳ではなかったのは明らかだった。彼は知っていたのだ、己の影から現れたその男が、この世の存在ではない、という事を。


「なるほど道理だ。死神の主君は冥府の王であった」


 正体を言い当てられた男は、しかし気分を害した風もなく公子の傍に歩み寄る。公子の隣から庭を眺めながら、低く呟いた。


「病魔に抗い、鬼籍への記載を引き延ばしておきながら、別の死神に死を賜るか。皮肉だな」


 公子は応えない。ただ静かに傍らの剣を見つめた。きらびやかな剣は、公子が自らの首を掻き切るために与えられた物だ。王自らが臣下に死を賜う時のしきたりである。


 庶子である彼は父である前王の顔を知らない。宮廷を出てこの小さな邸第で育った彼は、ここから武芸を学び、学芸を修め、戦で功を立て、民に施した。若くして儚くなった母が強く望んだ生活を実践した彼の周りには、たくさんの人が集まって来る。その人望は、しかし許されなかった。


 彼の腹違いの兄である今上はその人望を妬み、次いで彼に玉座を奪われるのではと危惧した。

 また、まだ年若い公子の体内では、母の命を奪った病魔がじわじわとその寿命を縮めていた。


 かくして公子は、兄である王に剣を与えられる。それは存在そのものを否定されたのと同義であった。


「期限は今日の日没まで。放っておけば鬼籍に名が載り、不安も消えたというのに。せっかちだな」


 死神はため息混じりに呟いた。公子もため息をついて苦笑する。


「まさに。しかし申し訳ないことになったな」


 無言で振り返った死神に、公子はどこか自嘲気味に笑い返す。


「私は陛下にこの命をお返しせねばならん。お前は私を連れに来たのではないのか」

「……いや」


 意外なほどにあっさりと、死神は首を振った。


「今日拘引するのは汝ではない」

「私以外に鬼籍に載った者がいるのか」


 意外そうな顔をする公子に対し、死神はさらりと答えた。


「王が汝に死を賜うと知った隣国が、国境まで迫っている。既に民は朝廷を見捨てた。一両日中に、都は血の海に沈むだろう」

「……なに」


 気色ばんで立ち上がる公子に、冷徹な声が更に突き刺さった。


「どの道汝は亡国と共に血に沈む。その剣で敵を斬って民を一人でも多く逃がすか、切っ先をその喉に当てて一足先に逃げ出すか、好きな方を選ぶがいい」


 殆ど初めて、公子の瞳に激しい炎が宿る。しかし死神はたじろぎもせず口を開いた。


「多くの民が死ぬ。罪もない民が。我が主の前に拝した亡者どもは、皆昏迷なるが誰であり、清廉なるが誰であったか叫ぶだろう」

「……玉賜の剣を血で汚せと申すか」

「汝であろうが民であろうが兵士であろうが王であろうが、死ねば等しく肉の塊。どうするかは汝が決めればよい」


 言って、死神は部屋を出ていく。公子は追わなかった。消える死神をちらりと見遣ったあと、剣を手に取り、鞘から抜いた。切っ先が黄昏の光を照り返して血のように朱く輝く。刀身に映る己の姿を見返し、公子はその切っ先を喉に当て、軽く引いた。


 つう、と銀を伝い落ちていく鮮血。そを眺め、公子は困ったように笑う。喉元には紅い傷があった。


「……死ねぬなぁ……どうやら私は、勇士に倒して貰うほかなさそうだ」


 そう口にしたときには、既に公子の瞳は決意の輝きに満ちている。彼は剣を払って鞘に収めると、一度だけ庭に視線をやり、後はもう振り返ることもせずに踵を返して歩き出した。



 清貧の庶子あり、王より死を賜わるも、玉賜の剣を以て敵に対す。敵を斬ること数百、以て百姓を助け、死してすなわち已む。百姓玉賜の剣の血に濡れたるを見て哭せざるなし。

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