死神と廃校のピアノ

 人の気配がない校舎の中に、夕暮れの陽が入り込み、黒板を朱く染め上げた。そこには白い塗料で書かれた五線譜の上に、何かの歌詞が刻まれている。


 部屋の中央には、空間の三分の一を占める巨大な黒い楽器。古びて薄汚れた室内に不釣り合いなほど磨きぬかれ、朱い陽を照り返して輝いていた。グランドピアノだ。


 まだここに子供達がいた頃には、この教室は音楽室として使われていたのだろう。音楽史上の偉人達が、壁の上の方から寂しそうに巨大な黒い楽器を眺めていた。


 廃校になってかなり経つこの校舎の音楽室で、グランドピアノだけが往年の活気ある学校に置かれているかのように磨かれている。しかし、その黒く輝く楽器の影が水面のように揺らめく様など、開校以来、廃校となった後であろうと、誰も経験したことのない異常な状況だろう。さらにそこから前進ずぶ濡れの黒服の男が姿を現すなど、ごく普通の生活を送っていれば絶対にお目にかかれる状況ではないに違いない。


 幸いにして、というべきか。そのような異常を目の当たりにして悲鳴をあげる者などおらず、黒服の男は濡れた髪をかきあげて暮れなずむ音楽室のピアノの前に立つ。濡れた指先で夕日を照り返す楽器の表面をなぞった。


 不思議なことに、濡れそぼつ男の指が触れても、ピアノは濡れなかった。男の手から離れた水は、すぐに掻き消えてしまう。そのことに軽く安堵に近い表情を浮かべ、男は静かにピアノの蓋をあげると、そばにあった椅子に腰を下ろした。


 軽く鍵盤を叩く。ぽーん、と涼やかな音が教室に響き、男はかすかだがどことなく楽しげな表情になる。そのまま別の鍵盤を叩くと、また別の音が鳴る。しかし、二度目の音を出した辺りから、男の表情が曇りだした。それもそのはずだ。ぽーん、ぽーん、と音を出してはいるが、彼は一向に何か曲を演奏しようとはしない。いや、何か演奏しようとしてはいるのだろうが、リズムも音も正確でないために、何を弾きたいのか自分でもよくわかっていないようなていたらくである。しかも彼は、右手の人差し指でしか鍵盤に触れてはいなかった。


 男はやがてため息をついて鍵盤から指を話すと、どこか気まずそうに後頭部を掻く。ぼそりと低く呟いた。


「……ダメだ、弾けん」


 とたん、音楽室の入口の方から、ぷっ、とふきだす声と笑うのを必死に堪える気配。男はグランドピアノ越しに入口を覗き込み、キョトンと目をしばたたいて気配の主をみとめた。

 入口に立っていたのは、礼服を身につけた老婦人である。婦人は飾り気のない白いハンカチで口元を押さえて肩を震わせていた。


「……あの、いつから」


 男は濡れた髪を掻き回して気まずそうに問い掛ける。それに答えて老婦人はくすくすと笑いながら口を開いた。


「いつからって、あなたがピアノを弾きはじめた辺りからですよ」

「……殆ど最初からじゃないか」


 ため息まじりに唸ってから、男は立ち上がる。老婦人は笑いながらピアノへ歩み寄った。優しげに目を細め、黒い巨大な楽器をなぞる。


「あの子の最期の仕事を見に来て見れば。あなた、今日あの子のお葬式にも来ていましたね」


 男は驚きに目を見開くと、何か言おうとして口をつぐむ。視線を泳がせ、小さく呟いた。


「……見えて、いたのか」

「長いこと生きていると、死神が愛する教え子を迎えに来る所も見えてしまうものよ」


 老婦人は寂しそうに笑う。男は……死神は、眉をしかめて目を伏せた。苦しげに呟く。


「……俺が来た時、丁度あいつはこれを調弦してた。病院を抜け出して。……まるで、病気の事を忘れていたみたい……だった」


 老婦人は目をみはり、手にしたハンカチで口元を隠した。そのまま目頭を押さえる。そう、とかすれた声で頷く。


「あの子、卒業した後突然やってきて、『先生、俺ピアノの調弦師になったんだ』って。……このピアノを調弦するためによ。だから廃校になる直前、記念に一つだけいただいた音楽室の鍵をプレゼントしたの」


 そう、あの子はあの鍵を使ってくれたのね。言いながら老婦人は鍵盤に歩み寄った。死神が退き、椅子を引く。老婦人がその椅子に座る。正面を向いてそこで少し驚いた顔をした後、にっこりと微笑んで開いたままの鍵盤に指を載せた。

 老婦人の指が動くと、軽快で、どこか懐かしい調子の曲が溢れ出す。併せて老婦人が口ずさんだのは、黒板に書かれた歌詞だった。



 ――輝くみどりのもゆる丘 清き流れの走る里――



「……高き理想 学びの園 ここに生まれし 我ら学徒 誇りを胸に 千里を歩まん……」


 黒板の歌詞を見ながら死神が続く。その拙い歌い方に暖かく苦笑を漏らしながら、彼を先導するように老婦人は少し声を大きくする。まるで音楽の苦手な学生が一人、特別授業を受けているような状況に、死神は居心地悪そうに身じろぎしたが、それでも歌をやめようとはしなかった。

 やがて一番を歌い終えて、老婦人は鍵盤から手を下ろした。日は既に落ち、音楽室が夕闇に沈んでいこうとしている。窓の外を見ながら、彼女は静かに微笑んだ。


「……この学校に赴任して、本当にいろいろなことを経験したわ。あの子だけではない、たくさんの教え子達が私を支えてくれた」


 老婦人の声を、死神は顔を伏せて聞いている。廃校になった校舎の音楽室。その中に婦人の声が静かに染みていった。


「全て私の宝物……全て抱えていくわ。先生は欲張りですから」


 いたずらっぽく笑う老婦人に、死神は頷く。辛うじて差し込まれる、弱々しい朱い光。それを受けて影を落とす床には、グランドピアノと椅子のシルエットだけがあった。


「……やっぱり」死神は緩やかにかぶりを振る。


「弔問客が話していた。……今危篤で病院にいる坂城先生も来てくれるかも知れない、席を一つ空けておこうって。あれはあんたの事だったんだな」

「ええ、好意に甘えさせていただいたわ」


 ニッコリと笑う老婦人の足元は、まるで雨の中を歩いて来たように濡れはじめている。それを見た死神は、静かに彼女へ手を伸ばした。


「……下校の時間だ、先生」

「……生徒より先に下校だなんて、私も随分と偉い先生になったものね」


 ぽつりと寂しげに呟いた老婦人の手をとって、死神は音楽室の入口へ向かって歩き出す。鍵がかかっている筈の扉を開いて廊下に出ると、そのまま闇に沈んだ廊下へ、老婦人をみちびいて沈んでいった。


 ――暗闇に沈んだ、誰もいない音楽室の中で、常夜灯の明かりに浮かび上がる巨大な楽器。その黒い鍵盤の蓋の裏に、白く浮かび上がるメモが張り付いていた。


『坂城先生が、元気になってここでまたピアノを弾いてくれますように』


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