雨の庭(続編『霞の庭』執筆中)
友浦乙歌
『雨の庭』序章 痛み
1・とある仕事での失敗から立ち直れませんでした。
着替えるように言われて渡された藤色のワンピースをぼうっと眺めていた。体が動かなかった。リビングになかなか戻らないのを心配してだろう、扉の外から
コンコン、と小さくノックされる。
「おーい、りっか、大丈夫?」
扉越しの呼びかけに、律歌は小さく口を開き返答しようとして、また閉じた。律歌が答えないでいると、
「ええと、着替えは終わった? 何か……困ってる?」
ぎこちなく困惑気味の、こわごわとした、優しい声が再び。
沈黙。
薄い板で一枚隔てただけで、そのドアには鍵もない。着替えているはずの異性からは、返答がない。そんな状況。沈黙の中に、北寺の吐息が細く聞こえた。それはため息ではなかった。惚けているわけでもない。こちらの様子を窺うために、じっと小さく息を潜めている。入るべきなのか、待つべきなのか……おそらく逡巡しながら、でも絶対に間違えないように、考えを巡らしている息遣い。今の律歌には、口を動かすこともできなかった。そのまま立ち尽くす以外になかった。
「こ」
北寺が何かを言おうとし、
「ここには、怖いものは、何もないよ」
出てきたのはどこまでも優しい言葉だ。
――罵ってくれて、いいのに。
じゃなきゃ、むしろ辛い。
自分は、誰からも責められて当然のことをしたのだ。本当はここにこうして、のうのうと休んでいる場合ではないのだ。いち早くやらなければならないことばかりのはずなのだ。それなのに、それなのに、体が動かない。こんなの、責められてしかるべきだ。着替えることさえできない? 幼稚園児でも言わないようなこと、何を言っているの。私は一体どれだけ甘えているの。何分も、もしかしたら何時間も待たせたままで――優しく親切な恩人さえ、困らせ、落胆させることしかできないの。何も、何もできない、できないなんて……そんなの、いや。そんなのは、許されない。でも……。心の中が激しさを増すほどに、体は硬直していく。視界が曇る。理由もわからず涙があふれてきて、絶望と失望と悲しみに包まれていることを知る。
――私なんて、いなくなった方が、いいのかもしれない。
「大丈夫だよ」
また、温かな声が聞こえる。
「ここは、誰からも責められることはないから。一つたりともないから。おれのことも負担なら、無視していい。俺が勝手にやってるだけだから。ここは、それでいい場所なんだ。着替えたくなかったら、着替えなくても、いい。明日、気が向いたらにしてもいいし、ずっと着替えなくてもいい。そういうことで、誰も傷つかない。ここは、何も押し付けられない場所なんだよ。おれはりっかの力になりたくて来た。でもりっかがそれを叶える必要はない。大丈夫、疲れてきたら、おれもどこかで休憩して、また来たくなったら来るだけだから。自分のことだけを考えて、自分のできることだけをやれば、それでいい。りっかが、今、ここに存在してくれているだけで、十分ありがたく思えているんだからね、おれは」
甘い言葉だと、聞き流しているつもりだった。けれども温泉のようなそのぬくもりが、戸の隙間から流れ込んできて、凍えるような乾いた空間を満たしていく。その液体の中にじっとしていると、抱えていた氷が、少しずつ溶かされていくような気がした。
律歌は一言だけ「じゃあ……もう少し、待って」そう言うと、首元のボタンに手をかけた。一つ、二つ、ボタンが外れていく。
扉の向こうからは幾分安堵したような気配があった。
「うん、わかった。着替えが終わったら、おいで」
小さくなっていく足音。その軽やかさに律歌はほっとした。寝間着を脱ぎ捨て、持っていた服に袖を通すことができた。ドアを開けて寝室の外、ひんやりとした廊下に出る。手つかずで髪はぼさぼさだし、泣きぬれて顔もくしゃくしゃなのはわかっていた。着替えるという最低限のことしかしていない。最低であることに変わりはない。容姿や愛嬌で甘く扱われたいという気持ちはないが、これでは人に何かプラスな感情を与えることなんてできないだろう。
北寺のいるリビングのドアから漏れた光が、まぶしく見えた。足が止まる。裸足に床が冷たい。怖い。やっぱり、寝床に戻ろうか。
そのときドアが勝手に開いて、出てきた北寺と鉢合わせた。長身の彼を律歌が見上げる――と、彼は涙目になっていた。
「りっか! ……よかった……」
こわごわと、脆いものに触れるように、律歌がもし嫌がったらすぐにでも止められるようなスピードで、彼は律歌の肩に手を触れされた。ぽん、とそれだけで、彼は「さ、中へお入り」と、リビングへ入るのを促した。
薄緑色の絨毯の上を進み、窓からの暖かい陽に照らされる。
「うわあよく似合ってるね。サイズもいい感じ。かわいいよ。すごいすごい。かわいいなあ」
北寺はそう言ってぱちぱちと手まで叩いてくれる。我が子が初めて二本足で立ったのを見た親のようなはしゃぎっぷりで。律歌はそれをぼんやりと見つめていた。
それから、もうひと月あまりが経過した。あの時のことは、もうあんまり覚えていない。そう、今では――
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