4・ただそれだけのことに。

 少し前の、まだ心が元気になる前の話の続き。


 夢の中でごーりごーりという音が聞こえてふと目を覚ますと、北寺が冷凍庫を開け、ごーりごーりと音を立てて白っぽいものをスプーンで混ぜていた。

「ああ、ごめんね。起こして」

 北寺が手を止め、冷凍庫に何かをしまう。

「それ、もしかしてアイスも手作りするの?」

 自家製のアイスクリームだ。

「うん。だって、天蔵アマゾウのアイスはカチコチに固いじゃん。なめらかなやつ食べたくない?」

「食べたい」

 凍りかけたアイスクリームに空気を含ませるのだという。「寝てていいよ」と北寺が、スプーンを水で流して静かに洗っている。「それ、やめないで」と律歌は言った。なめらかなアイスクリームが食べたかったし、その音を聞いていたかった。とても幸せな、心満たされる音だった。

 辛いこと、苦しみを何もかも忘れ、繰り返されていく日々の中に、楽しいことは、いろいろあるんだ。そう思わせてくれたのは北寺だった。だらだらと、とろけるように甘い、甘い日々をくれた。

 その日は三時のおやつにお手製のフォンダンショコラを振る舞ってくれたし、夕飯も作ってくれた。食事は注文すれば無料だが、北寺は料理すること自体を楽しむ目的でよく自炊しているという。ザーッと水で野菜を洗う音、トントンとリズミカルに包丁がまな板をたたく音。切れた野菜を鍋にぽちゃんと落とす音。背中越しでもわかる。料理をする彼は本当に楽しげだった。

 北寺の背中を、律歌はぼーっと見つめる。

 一方で律歌は、そのときはまだ、彼のようには微笑むことができずにいた。

「りっか、りっかも何かしない?」

 そんな律歌を、こちらも振り向かずとも見透かしたように、北寺に言われた。

 なんだかその時律歌は、責められているような気分になった。

「……じゃ、お皿洗うわよ。北寺さんの分まで」

「そんなことはしなくていいんだよ」

 しなくていいか。

「まあ、汚れたら天蔵アマゾウで新しい食器をポチればいいしね」

「うん。まあそうだね」

 じゃあどうしたらいいんだろう。北寺さんは私のことが不満なのだろうか。

「でもそれだったら、料理作るのだって無意味なことでしょ」

 ふいに口をついて出る。意地悪なことを言ってしまった。違う。北寺さんは何も悪くないのだ。北寺さんが楽しそうにしているのはとてもいいことなのに。私がそれを見て勝手に焦っているだけ。

「おれはそうは思わないからいいんだよ」

 北寺はそう答えながら食器を洗っている。こびりついたチョコレートの汚れを湯で溶かして浮かせて――律歌の分の食器まで丁寧に。おそらく、にこにこしながら。

「そうよね……。北寺さんが作ってくれるの、私も嬉しいし、北寺さんが楽しそうで、それっていいことだと思う」

 久しぶりに泣きそうな気分に襲われた。生きているのに死んでいるような自分への、やるせなさ、失望。北寺はそれを案じていたように、「うん、うん。だからね」と頷きながら、洗い立てのグラスに氷を入れて、隣に来て差し出してくる。

「りっかは、りっかのしたいようにすればいいってことだよ」

「私は、私の……?」

 その中にストレートティーが注がれた。ダージリンの上品な香り。一口飲むと、水出しのまろみが口に広がり、のどを通り抜けた。

 おいしいな。

 本当にいったい、自分は何が不満なのだろう。何が足りないのだろう。

 ようやくあの痛み、あの絶望からは脱することができたのに。ここには、怖いものは何もないのに。そのおかげで、ここまで動けるようになったのだ。まるで、卵の中にいるみたいに守られて。

「りっか、ちょっと電気消してみて。ついでに雨戸も閉めてくれる?」

「うん?」

 律歌はソファから立ち上がり、言われるがままに電気を消し、雨戸をガラガラと閉めた。

 訪れる暗闇。

 北寺は濡れた手を拭くと、テーブルの上に置いてあったスマートフォンを手に取りLEDライトをつけた。その白い光に、手作りの段ボール孵卵器から取り出したうずらの卵を一つかざす。

 小さくて硬い黒ぶち柄のうずらの卵は思ったよりよく透け、光を通した。

「赤いだろう?」

 北寺の言う通り、それは赤い色をしていた。

「血管が見えてるのわかる?」

「わかる」

 この細い線のことだろうか。

「それが生きてる証拠さ」

 脈打っている。

「うん」

 いつくしむように卵を抱く北寺に、母性を感じた。

「もうすぐ生まれてくるんだ」

「そうなんだ」

「うん」

 月は東に、日は西に。生まれいで、やがて死にゆく。

 ただそれだけのことに、この時、律歌は心打たれていた。それが何だというのだ、とは、とても思えなかった。

 私の、母はどんな人だったのだろうか。

 ふとそんなことを考えた。記憶がないわけではない。母親のことは覚えていた。でも、いつも家にいなかった。父もほとんどいなかった。二人とも必死に働かなくてはならなかった。そして、二人とも死んだ。過労死だった。

 生きていても会えなくて、甘えられなくてずっと寂しかったけど、死はまったく別の次元の悲しみだった。決定的な寂しさ。絶対的な孤独。死んだのだ。律歌の心は、光が何もないまったくの暗闇に閉ざされた。

 深い暗闇の中、弱い光に気付くこともある。暗い部屋で目が合った。ポンコツ子守りロボットの目がぼんやりと浮かんでいた。私に残されたのはロボットだけ。ああ私もうロボットと生きるしかないんだ。ぽつり、ぽつりと話しかける。同じ返答がつまらなくて、ロボット弄りに没頭した。電子工作は楽しかった。神になって人を作るみたいだ。自分で録音してまるでロボットがしゃべっているかのように見せた。「ただいま、律歌」「ご飯できたわよ、律歌」なによ、こんなもの……と思ったけれど、それを見た周りの大人からは「すごい! 君が一人で作ったの?」「こりゃ将来有望だ」なんて褒められて認められて、まるで必要なカロリーを摂取したかのように生きる力が湧いてきた。そうだ、やっぱりロボットで、孤独じゃない世界に変えてみるしかない。ロボットに働かせる。それで家族団欒。そうすれば世界中の誰もが寂しくなくなるんだ。長いトンネルの先、ようやく見つけた光。あの日から、私は燃えるように毎日を過ごした。希望を抱いていた。世界中に家族団欒をもたらし、その笑顔でやっと私は救われるんだ、と。

 そうやって、生きていたことがあった。

「行かなきゃ……」

 それが、私だ。

「ん? どうしたの」

 律歌は顔を上げた。

 ONとOFFの間を、波にたゆたうように生きていくなんて、それじゃ辿り着けない。そんな自分は嫌だ。

「北寺さん、ごめん私、行かなきゃ。私も孵化、見たかったな」

「りっか……」

「でも私は、私が生きると、いうことは」

 胸がいっぱいで、走り出しそうな、

「もっと、もっともっと広く、そうじゃなきゃ、私は――」

 はやる気持ちが込み上げる。秘宝を求めて、冒険に出かけるときのような、期待と希望と元気と勇気が、力となって立ち上がらせてくる。

「そっか。りっかは、そうなんだね」

「うん」

 こんな風に安心して、丁寧に過ごすのも、とても大切だと思う。脅威が何もなくて、安心できる人が傍にいてくれるということ。すごく夢だった。だからこそ、離れがたかった。だってそれを勝ち得るために、自分は戦ってきたのだ。

 ――でも私は、卵の中でずっと生きていたかったわけじゃ、ない。

「さて、りっかは、どうしたいの?」

 電気をつけて、北寺は優しく問いかける。

「私は……」

 どこか遠くへ、一日が始まる明け方前から、あらん限りの力で行けるところまで行きたいと、その時思いついた。

 それを告げると北寺は、「おれもついていっていいかな?」と、言ってくれた。

「来てくれるの?」

「うん、りっかが一人じゃ心配だよ。おれも力になれる気がするから。いいかな?」

「もちろん! あ、でも――」その手元には卵がある。「……これ以上迷惑をかけるわけにいかないわ」

「いいよ。転卵は、まあなんとかするさ」

 自動でひっくり返す装置か何かを作ろうかな、と、これまた愉快そうに北寺は言う。

「手伝ってくれても、私にはなにもない……。何もお返しができないわ」

「わかってる。それでも構わない。そうしたい一番の理由はね、今よりずーっと楽しそうだと思ったからだよ」

「楽しそう?」

「だって、それってすごい冒険じゃん。わくわくする」

「あ……あ、あはっ、やっぱり!? 北寺さんもそう思うわよね!」

「思う、思う!」


 ○


 こうして律歌の冒険は幕を開けたのだった。

 思い返すと、時間がかかったなと小さくため息が漏れる。だいぶ時間を使ってしまったと後悔する気もなくはない。それでも立ち直ったのだ。自分は。それは無駄な時間ではなかったように思う。そして今朝、北の果てを目指して出で立った。今はそれを喜ばなくては。律歌は自分を鼓舞する。

 自転車で走れる限り走った道のりと、見つけた地形を書き留めた、手書きの地図を広げて気持ちを切り替える。

「さて、作戦会議、始めましょ!」

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