2・一日あたり二十三時間五十五分労働

 律歌が自室にこもって、どれくらい時が流れただろう。

 北寺が何度か来て、食事を運んだり、服を着替えさせたりしてくれたような気がする。

 何も考えられない。

 何度吐いたかわからない。吐いても吐いても、毒が出ていかないのだ。息が苦しくて、お腹が重くて、心臓がじくじくと痛むままなのだ。

 あのプロジェクトが始まるまでは、律歌は電卓と同棲しながら過ごしていた。高校を卒業し、同じ大学に入ってすぐに付き合い、一緒に住み始めたのだ。律歌は良きSIerを心掛けつつ、残業もそこそこに、成果もそこそこに、自分が早く帰った日にはついオリジナル創作料理に精を出して、なかなか帰宅せず会社にすぐ泊まり込んで食べてくれない電卓に、寂しさを募らせながら、それでも、日本中に影響を及ぼすような国家的なシステム開発を任されては、見事に成果を出し出世していく努力家でタフな電卓を誇らしく思い、憧れて、ああ自分も頑張らねばと日々現実に向き合ったり逃避したりしながら、足湯に浸かるようにぬくぬくと生きていたのだ。

 抱えきれぬほど大きい夢を、それでも叶えると、SIerとしての立場を使い契約書を交わして、がんじがらめに自分に課して、誓うまでは。

 どうしてそんなものを誓ったりしたのだろうって?

 ――その理由は明白。律歌はかつての幼い自分を忘れていなかったからだ。親二人を社会に取り上げられ、まともに家族一緒に過ごせず、さらには使い潰されて亡骸で返された、そんな現実がいまだあることを、見て見ぬふりをして過ごしたくはなかったのだ。この国の仕組みを阻止するだけの力を、強さを、得るためなら、どんなに地獄を見ようが構わないという決意は、やはり、あったのだ。

 だから、律歌はプロジェクトリーダーに就任して、すぐ忙殺され数週間単位で会社に泊まり込むことになっても、躊躇いの気持ちは一切なかった。成果を挙げられるのかという重圧と、多忙と孤独に自分が耐えられるのかという不安はあったが、それでも過労のない世界を作るという希望を掴みにいこうとした。案の定、自分が忙しくなったことで、もともと多忙な電卓ともすれ違いの日々が続き、顔を合わせることさえ少なくなって、孤独な日が続いた。いつもなら、自分が毎日家に帰るため、稀に帰ってくる電卓と顔を合わせることはあった。でも、お互いがたまにしか帰らなくなったら、会う確率は減る。電卓と会社の廊下ですれ違って、久しぶりに顔を合わせた。

「律歌、調子いいみたいだね!」

「まあ、ね。多少は無理もしてるけど、今は頑張らなくちゃ」

 決意を込めて、律歌は真剣に頷いてみせる。

「もう二週間も帰っていなかったんだろ?」

「そうよ。でも、電卓ほどじゃないじゃない」

 いまのところ最長は電卓の四十日だ。そんな期間を会社の仮眠施設に寝泊まりするだけの生活なんて想像もできない。律歌は、料理するより、おしゃれするより、カフェでお茶なんかを楽しむより、前に進むことだけを考えて生きていたいと思っていたが、戦って戦い抜いて夢を勝ち取りたいと思って頑張っているつもりでも、日常的に会社に泊まり込んで仕事ばかりしている彼からしたら、まだまだなのだろう。

「ま、そうだけどさ。俺はこれから完全自動運転の試験結果を出しに国交省に行くんだ」

「ついに完成したのね」

 国家的なプロジェクトを担当するのはいつも電卓だ。入社してすぐの社内試験でも猛勉強をして、最も花形と呼ばれる官公庁御用達の部署所属を勝ち取っていた。

「だけど君の、大きいプロジェクトだなあ。予算聞いたぞ。さすがにその規模のは俺もやったことがない」

「今回だけは、ね」

 律歌は慌てて謙遜した。電卓の任されている仕事はどれも責任の重いものばかりだ。I通には査定に関する通知表のようなシステムがあるが、入社してからこれまでの成績は電卓が同期トップで、今回のプロジェクトで律歌も一時的には並ぶかもしれないが、平均値では勝ちようがない。重要な仕事は基本的に若手の中で一番手である電卓に任されるため、常に期待と重圧を抱えながら、彼は今まで苦しみながらも戦ってきたのだろう。と、ねぎらう気持ちで声をかけようとした。

 電卓が満面の笑みで、

「いいなあー!!」

 と、快活に言うまでは。律歌が面食らうくらい、心の底から楽しげに。

「そりゃ仕事のことしか考えられなくて当然だよな!!」

 うんうんと何度も自分に頷いて、

「俺もしばらくまた帰れないからさ。やれやれだ。でも、お互い頑張ろうな!」

 これが仕事の鬼の正体なのか。

「うん。電卓も、頑張って」

「もちろん」

 にっと無敵の笑顔を見せる電卓に、律歌はつられて無理やり笑った。こんなに大変でも笑える強さが欲しいと思った。

 I通の大規模プロジェクトは、通常何十、何百社を統率しながら一つのシステムを作り上げていく。律歌の任されたプロジェクトもそうだった。今回は「睡眠を圧縮して短くする」という装置を作るのが最終目標で、分割して各協力会社に振って作っていくわけだが、その内訳は大きく分けて、①脳波を読み取るシステム、②睡眠(=脳のメンテナンス)を高速化する処理システム、③処理された圧縮脳波データを脳に反映させるシステム、の三段階。①をA社、②をB社、③をC社――その三社を一次下請けとし以下二次、三次、四次……と下請け会社が続く。そこから進み具合の途中報告レビューを受けて、元請けであるI通がスケジュールを調整しながら、納品されたデータを組み合わせていく。その一連の流れを統括するのがプロジェクトリーダーである律歌の役目だ。

 ①の脳波を読み取るシステムの完成を待ってから②、③と順次開発していけたら確実な上、楽なのだが、それでは時間がかかりすぎる。よって、②も③も同時進行で(時には先行して)作らせることになる。組み合わせる際にうまくいかず、泣くこともしょっちゅうだった。

 この日、電卓が抱えているプロジェクトが一段落したという情報を仕入れたので、さすがに彼に抱きつこうとして玄関のドアを開けた。

「わ。律歌おかえり」

「ただいまー……。電卓、うぅ……、もうしんどい……疲れる……泣きたい」

「どうしたんだい」

「試験がまただめだったのよ。すっかりまた手戻り。何度やり直したらうまくハマるのよ……。そのせいでハードだって考え直しよ。もう、もう、もう……っ。それに、部長が無茶言うのよ。納期を早められないかって。ばかじゃないの、そんなのできるわけないじゃない」

 込み上げてくるのは行き場のない感情。電卓は苦笑して「そうかいそうかい」と中へ招き入れた。鍋でラーメンを作っている途中だったらしい。

「部下が二人体調不良で休んでるし、あと、Aチームが同じ失敗をしまくるのよ……もう。ちょっとは改善してよ、まったく。国家の要望とこっちの都合の板挟みに巻き込まれるし……ああ今週、筑波の研究所までまた行かなきゃいけないのよ」

 電卓はひたすら「そうかいそうかい」と相槌を打って菜箸で回している。

「私は寝不足なのに! 街にはクリスマスソングがかかっててイライラするし、そんなことにイライラしている自分にもイライラする。もう、どうしたらいいのよ……っ。私はいっぱいいっぱいよ!!」

 電卓は手を止めてくるりとこちらを向くと、

「試験は問題を見つけるためのものだから、見逃さなくてよかったよ。納期は早められないなら、そう言えばいいし、どうしても早めないといけないなら、もっと残業すればいい。部下が体調不良で休んでいるのはしょうがない。気にかけるだけ無駄だ。同じ失敗が繰り返されるのは、システムに問題があるんじゃない? 国との板挟みは、やるべきことはやらなきゃいけないし無理なものは無理ってはっきり言うことを心掛けるしかないよね。寝不足ならすぐ寝た方がいい」

 と、言って火を止める。的確なアドバイスに律歌が押し黙っていると、電卓は薬箱から愛用の蒸気のアイマスクを取ってきて渡してくれた。

「このアイマスクを使えば目の血行もよくなって、クマもできにくくなるよ。はい」

「ありがとう」

「今すぐ寝れば、その分明日は早めに出社できるだろう?」

「そ、そうね……」

「じゃあ六時間睡眠でも、四時に起きれるな。始発で出社できるね」

「ええ、そうね」

「じゃあそうしよう」

 電卓はにっこり笑ってラーメンをおいしそうに食べ始めた。

 律歌は静かに頷いた。

 愚痴を言ったり現実逃避せず、ただひたすらに結果を追い求めていくのね。なるほど、これこそ結果をたたき出してきた電卓の見ている世界――彼についていくことができたなら、きっと自分も夢を実現できる。夢物語なんかじゃなくて、現実にすることができるんだ、と。

「……おやすみ」

 寝室のベッドの中で、律歌は一人呟いて、眠った。

 これまでの人生で一番苦しくて、でも一番夢に近づいたのを感じていた。


 それならもしも、自分の行ったことが、夢に対して逆効果だったことに気付いたなら?

 きっと電卓は脳みそをフル回転させてなんとかしようとするのだろう。計算をし直して、黙ってひたすら行動するのだろう。結果だけを見据えて。


 私は……?

 掲げた夢を大きく遠のかせ、全てを悪化させたまま止まっている。こんな仮想世界だなんて何の役にも立たない場所で立ち止まっていてどうする。甘やかされ、感情の赴くままに楽しく遊びほうけている場合ではない。北寺とは一緒に住んではいないけれど、電卓と一緒に住んでいたころよりも毎日ずっとべたべたと、だらだらとしている……。

「いやだ……。いやだ!」

 このままの自分は、好きじゃない。

「ごほっ、げえっ……うっう…………っ」

 律歌は嘔吐した。

 できない。

 できるわけがない。

 何もかも悪化させた。こんなことになるだなんて、想像さえしなかった。

 吐いても何も楽にはならなかった。ただ、吐くという行為が繰り返されるだけ。この仮想空間では、吐くことはできるものの、自分の嘔吐の感覚を元に再現しているだけなのだろうか。その行為は、律歌の精神状態に従い無限に続くだけで。だから、そんな行為さえ、時間の無駄だと神に叱られているようだった。律歌は泣いた。泣いて、吐いて、泣いて、自己嫌悪して、生きることはこんなにも辛いのかと嘆いた。辛いばかりで、結局また報われないかもしれないのに、それでもまた頑張らなくちゃいけないの? また愚痴を、弱音を吐いている弱い自分に嫌気が差す。

 やはり、全て、忘れてしまったほうがいいのではないだろうか?

 そうしてここでずっと生きていくのもそんなに悪い選択じゃないだろう。罪を背負って、傷と向き合って、どう生きていくんだ? そんな地獄の、何が楽しいんだ?

 だめだ。

 だめだ。

 また、記憶が遠のいていくのを感じた。

 ――忘れていいよ。

 そういえば、電卓はそう言っていた。おかしいこともあるものだ。忘れたら夢が叶わなくなる。それなのにどうしてあの電卓が、そんな世迷い事を? もちろん、それが律歌にとって一番だと結論を導き出したからなのだろう。倒れた律歌が、最も効率よく幸せを手に入れるにはどうしたらいいのか。律歌の回復を願い、いや、願うなんて甘いものではなく、律歌の幸福を実現することを電卓なりに求めた結果が、記憶を封じたままの別れだったのだ。多忙で、厳しいばかりの電卓より、もっと、手負いの律歌を回復させてくれるであろう適任者に、彼女を明け渡すことまで含めて。たしかに、そこまでするだろう。律歌の憧れた、現実主義の電卓ならば。

 そういう愛し方なのだ、きっと。

「……うん。元気になった」

 おかげで、たしかに、立ち上がることができる。

 律歌が想像するよりも、電卓はずっとだった。それを思い知った。

「そうやって、現実を変えていく、のね」

 見ていた夢と、起きてしまった悪夢のような現実。それでも、電卓と夢を追ったから、確かに現実を変えられた。

 もらった力で立ち上がり、そして、ドアを開ける。嗚咽感を堪えながら、薄れゆく意識を奮い立たせながら、律歌は、数日ぶりに自室を出ていく。

 電卓は今、どんな思いで、この世界のことを見ているのだろう。それでもここを出たいと言ったら電卓は、悲しむだろうか、怒るだろうか。だけど、

「ごめんね」


 ――私も、あなたが想像するより、ずっと者なの。

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