『雨の庭』最終章 孵化
1・君は君を幸せにしてくれる人と
〇
律歌が我に返ると、目の前には手元で何かを操作している添田――電卓がいて、そして視界にはその他に何もなかった。以前気球で立ち入ってしまったあのグレーの空間が広がっているだけだった。
律歌からは、電卓が指揮者のように空中で指を振っているだけのように見えていた。だがおそらくなにかのプログラムの実行ボタンを押しているのだろう。横文字を目で追うように左へ右へ行ったり来たり、そして、数回タップ。電卓は視線をそのままに、
「北寺の家に帰ったほうがいい。こっちで移動しておくから」
淡々と告げる。
「ね、ねえ……」
律歌は声を上げたが、相手は反応もしない。
「ねえってば、電卓!」
その呼びかけに、彼は手を止めた。
添田卓也だから「電卓」で、自分がつけたあだ名。
「電卓が私を現実に向き合わせてくれた……だから、私は、今までのやり方を続けていたら一生夢は叶わないということを、知ったのよ」
夢しか見ていなかった自分に、効率的で現実的な方法を見せてくれた。おかげで自分は名門N大学に合格することができた。ロボットの開発者になるつもりで工学部に入りながらも、なぜ
「あの時は、ありがとう」
礼を言う律歌に、電卓はゆっくりと視線を送る。笑い方を忘れたように、無表情に。そして、
「俺のことは忘れていい。もう会わない方がいいと思う」
そう告げる口調は平坦で、公式を当てはめて解いた答えを伝えるかのようだった。もう会わない?
「待って! どうして?」
添田とは高校時代からの深い付き合いがあったのだと思い出せたというのに。理由がわからない。自分には、まだ甦らぬ記憶がある。その中に答えがあるのか?
「そうよ、あなたは、今……いったい何をしているの? 電卓もN大に入学したんでしょう? それから、何があったの? あっ、I通に就職したのよね? 私も同じところに就職したって聞いたわ」
大学、そして社会人になってからの電卓は?
――そこは、まだ記憶にもやがかかっているように、集中しても思い出せない。電卓はもう視線を外し、指先を左へとさーっと流した後軽く一度弾ませながら言う。
「そんな時代の話なんて聞いても鬱になるだけだよ……社会人の、仕事の話なんてさ。きっとつまんないと思うよ」
すると、魔法のように景色が見慣れた場所に変わった。そこは、北寺の家の前だった。
「はい。着いちゃったよ。君たちの家に」
プログラムを書いている時や、得意な数学の問題を考えているときと同じ顔で、電卓は律歌を送り出そうとしている。でも、少しだけ、解き疲れたように、ため息まじりに、
「俺も、ここで過ごせたらどんなにいいだろうね。時々、羨ましくて仕方がなくなる」
そう小さくこぼすのを聞いた時、律歌は電卓の手を握った。
「私は外に出たいわ」
電卓は驚いたようにその手をぱっと離す。
「何を言ってるんだ? 出てどうするのさ」
高校時代の過去を思い出して、余計に強く感じたこと。
「わかんないけど、私は、夢を叶えなくちゃ」
実際に夢を叶えられるという希望。こうしてはいられないのだ。
それを聞いた電卓は呆れ、「もうそんなことはしなくていいじゃないか」と首を振った。そんなことですって?
「私の生きる意味だったのよ? この世界じゃそれが叶えられないわ」
「また新しいものを探せばいい」
「こんなところじゃ見つかりっこないわよ」
「こんなところって……」
今度は電卓の方が、目に怒りの炎を宿している。鏡が目の前にあれば、きっと先ほどの自分はこんな表情をしているのだろうと思わされるような。
「君はここにいるんだ!」
「いやよ!」
「いったいここの何が不満なんだい」
彼の声色から滲み出る思想に、律歌は気がついた。彼は、こここそ至高の楽園だと信じて疑っていない。これは、北寺の言っていた、外の酷い世界と比較して評価したものではない。むしろ、ここは人工的に作り上げた最高の場所なのだから、これから先、誰もがここに住むべきだとでも言いたげだ。
だがそれは傲慢だと律歌は思った。
「あのね、ここは、人間が神様だなんていう狭い世界なのよ電卓! それをあなたわかってないでしょ!」
電卓は、閉口し押し黙る。律歌は続けて言う。
「外の世界のことは、知らないけど、ここが絶対的に最高だって言うのならそれは違うわ!」
彼はもう、こちらをぽかんと見ている。
欲しいものは何でもかんでも与えてもらえて、課せられる試練は何も無い、そんな世界。
それを、最高と捉える人はたしかにいるだろう。でも、律歌はそうは思わない。
「だって私は、退屈だったから……だから、いろいろ探索したのよ。それで、ほらね? ついに神様まで引っ張り出しちゃったわ。天蔵でタダで物買ってる時より、あれこれ試行錯誤してあなたまで辿り着いてみせた時の方がよっぽど楽しかったわよ? ねえ、これでゲームクリア? この先はもうないの?」
電卓は聞いたことのない言語を耳にしたかのように、律歌の言葉を翻訳するがごとくしばらくフリーズしていた。
「律歌……。俺は……君のことを少しは理解していたつもりだったけど、まだまだ氷山の一角だったらしいね」
そして彼はため息を長く一度だけつくと、今度はもう努めて冷静を保つように、また計算式を淡々と解くような調子に戻して言った。
「でもね律歌は、元の世界が今どんなことになっているのかを知らないんだよね」
「ええ、まあ」
それについては同じことを以前北寺にも言われた。その事情を使われてしまっては自分はなにも言えなくなる。たしかに何も、知らないから。
「ねえ、外の世界は、そんなにひどい状態なの?」
「そうだよ」
迷いのない首肯。そして細く、歯の隙間から冷気を漏らすように、彼は呼吸をする。
「それじゃ私も連れていって。なんとかしたいの」
ならば、向かい合うしかない。
律歌には、この日本という国から過労死を消し去るという夢がある。日本がそんな状態だと言うのなら、ますますここにこうしていられるはずもない。
「ねえ、連れていってよ! 私、なにかプロジェクトを進めていたんでしょう? 北寺さんに聞いたわ。私が日本を変えてみせるわ! どんな目に遭ったってなんとかしてみせる!」
電卓は律歌の演説を静かに聞いていた。
「ね? 私ならやれると思わない?」
返答が遅いので、そうせっついて呼びかけると、電卓は、
「思わない。君は甘い」そう断言した。「君は弱い」
しかし彼のその批判的な発言に、律歌が腹を立てて異を唱える余裕はなかった。
「どうしたの? 電卓……?」
電卓の両肩が寒々と震え、その顔は凍り付いたようにひどくこわばっていた。突然のことに、律歌は戸惑った。自分にはわからないことがまだまだ多すぎる。
「どうしたの……。ごめんなさい、私、よく知らないから……何か気に障ること言ったのかしら。ねえ、よかったら言ってみて? あのね、まだ全てが全て思い出せたわけじゃないのよ。だから、忘れちゃってるかもしれないから、何かあったのなら教えてくれない? きっとなんとかするわ。何があったの電卓。ほら、私に任せなさい!」
だが、
「しなくていい。そのままでいい」
そう返す電卓の声色は特には変わらず、あくまで淡々と、情報伝達に徹するかのように、そして現実をただ受け入れているように、無感情で。律歌は、自分が頼りにならないと決定づけられて、そのせいで事情を話してくれないのだろうかと、少々心外に思った。奥の手を出してみる。
「でも、私は弱くなんてないのよ。本当よ。なにかすごい開発だってしたんだから」
過去の自分が打ち立てたらしき功績。ノーベル賞候補の。
「ああ。そうだね。それについては、よくやったと思う」
……どうやら電卓はそれをも知った上で言っているらしい。さらに、
「君が開発したのは、人類の睡眠を一パーセントに短縮する技術、だね」
と、律歌のまだ知らないことまで教えてくれた。律歌は、まるで心を殺したように語る電卓の様子に異様なものを感じてはいたが、その話の内容に興味を惹かれて「そうなの?」と先を促した。
「ああ。睡眠が本来八時間必要だとして、それが四分と四八秒でよくなった」
睡眠時間の短縮?
「君は多くの人を再起不能なほど使い倒してそのプロジェクトを成功させたんだ。鬼みたいだったよ、うん。強かった」
それこそが北寺の言っていた、律歌の打ち立てたある功績なのだろうか。睡眠時間が短縮できたら……いったい世界はどうなるだろう。おそらくは、その分時間が増えるはずだ。自由な時間が。
「それって、労働者を過労から救うためだったのでしょう?」
業務時間は今までと同じまま減らせずとも、寝るだけしかできなかった時間をもっと個人の自由な時間、たとえば家族団欒のひと時に回せるようになるだろう。
「そう。君はそのつもりだった。でも開発したものは君の意図とは違う方向に使われたんだ。そうだね、ダイナマイトが開発者の意図とは違って戦争に活用されたのと同じように」
え?
「どういうこと?」
ノーベル賞から一転、ダイナマイトという言葉にぞくりと嫌な予感が律歌の胸の内に湧いた。
「君は開発を成功させた。I通としての開発プロジェクトは成功だ。だが、過労をなくす国家プロジェクトは中止された」
「中止?」
「ああ。代わりに発足したプロジェクトはこうだ」
電卓は告げる。
「もっと頑張って働いてGDPを上げよう、国力を高めて経済戦争を勝ち抜こう、って」
あ……れ?
「どうしてそうなるのよ?」
律歌は血の気が引いていくのを感じた。もっと働いて
「睡眠時の脳内活動を脳波から完全に解析するというブレイクスルーが起き、君はそれを利用した。睡眠は生命維持に必要不可欠だが、その内容とはつまり脳のメンテナンスだ。その日得た新しい技能や記憶を定着させるための。筑波にある睡眠医科学研究所がその解析を完了させた。そのことを知っていた君は、I通、国家を説得し、この話を持っていった。莫大な予算を投資して研究を押し進めた。そうして、脳から発せられる電気信号を読み取って自動解析、機械上で
途中まではすらすらと理解できる。睡眠を脳のメンテナンスととらえ、機械を使ってそのメンテナンスを効率よく速める。なるほど過去の自分は面白いことを考えたものだ、と、こんな時でさえわくわくするほどに理解できる。でも、客である厚生労働省の――最後の変化だけが、まったくもって異質な展開で、
「だから、どうして?」
意味が分からない。
両親はあんなに働いていた。死ぬほど働いて死んだ。
それなのに。
「これほどまでの成果が出るだなんて、想像を超えすぎていたんだよ。過労だ、家族団欒だ、なんて言っている場合じゃない。日本が世界と戦う武器にしようとしたんだ」
信じられるわけもない。
国は、過ちを反省をしたんじゃなかったのか?
「武器……に……して、使ったの……?」
人々に幸福をもたらすために生み出したシステムを、国は、経済の戦争兵器として利用したというのか?
「ああ。島国であり資源を持たない日本は、小型化や高性能化といった頭脳労働で今まで生き残ってきた。だから初めはよかった。労働する時間がまるっと増えたようなもんだから。日本のGDPはスムーズに増えたよ。でもね、画期的なその技術はすぐに全世界に広まった。高速睡眠システムを利用した他の先進国だって頭脳労働を増やし始めたんだ。睡眠を短縮するとはいえ、肉体は実際には動かせない。仮想空間で意識だけ覚醒しているにすぎない。その間にできることと言ったら、頭脳労働しかないんだから当然だ。そうなるとどうなると思う? 相対的に、頭脳労働の価値が下がったんだ。わかるか?」
放心状態の律歌を見て、電卓は伝わっていないと判断したらしい。
「逆に考えるとわかりやすい。自然に採れる資源でもって今まで栄えてきた国があったとしよう。ある日を境に、その国の他に、どこの国でも資源がわんさか採れるようになったら? 相対的に、資源の価値が下がるだろう?」
希少な資源だからこそ、そこに高い価値が出てくる。それが、どこででも採れるものになってしまったら、たとえば、必要に応じてなんでも無料でもらえるような世界では、「高価」というだけの付加価値はすべて失われてしまう。二百万円のマウンテンバイクだってそうだ。
それをそのままひっくり返して当てはめると、こうなる。
どこの国でも八時間程度〝頭脳労働するくらいしか動けない時間〟が増えた。そうしたら、頭脳労働という種類の労働の価値は、相対的に下がっていき、資源の価値は上がった。
「円安は進み、日本人が千円稼いでも一ドルの価値もなくなった」
電卓は律歌に背を向ける。
「日本は、ひどい不況に陥った。それでどうしたと思う?」
律歌が黙っていると、電卓は勝手に続けた。
「休む時間もなくあくせく働くしかなくなったんだよ。これまで以上にね。一日あたり二十三時間五十五分、労働が可能になったんだから」
通勤時間を短縮するため、会社には泊まり込みが前提の社会となり、社内には宿泊施設が併設されるようになった。まさに家畜同然となり、しかも夢の中でまで労働を強いられる。
文字通り、夢のない世界だ。
「こうして過労は進む一方になり、二人に一人が精神を病んでまともに仕事ができないような社会が出来上がった。日本人の死因の第一位は過労死だ。ぶっちぎりの」
「そん、な……」
「今の俺の仕事は、そうやって使い物にならなくなった人間を、治療するためのシステムの開発だ」
彼の背中には、重く暗い影が被さっているように見えた。
「ここがその施設……なのね」
「そうだ。あらゆる重圧を取り除き、究極の楽園を実現する。その名の通り夢の世界だよ。社会から脱落した者は、ここに送られるんだ。まだβ版だけどね」
「ここにきている人は、それじゃあ、過労で疲弊した人なの?」
「そうだよ。一昔前よりずっと日本は悪化しているから」
「それを引き起こしたのが……私……?」
律歌はついにその場にへたり込んだ。
自分が忘れていたのは、北寺が最後まで隠し続けていたのは、そのことだったのか。
心を守るために。
立っているのもままならず、その場にくずおれた。
じわりじわりと、思い出されていくのは、負の記憶。
そうだ。
思い出した。
全部、全部思い出した。
私がやった。
開発が成功して、でも、その後には――
目の前で電卓は、背を向け俯いたまま、何かを言っている。
「俺は、君のことも、できれば……助けたかった。俺に与えられた職務の、できる範囲で、やろうと思っていた。君が、SIerとしての立場で、もっと大きな夢まで手を伸ばすのを、見ていたから。だから俺も、そんな寄り道くらい、やってみたっていいだろうって、思って。結局、君を助けられたのか、無駄足だったのか、よくわからないけど。しかも君が悪あがきしてくれたおかげで、システムも計画も、ずいぶん引っ搔き回されちゃったしね。バグの対処に追われて、ちっとも家に帰れなかったよ。監視用のモニタールームからも、ろくに出られないくらい、目が離せなかった。あと少し、計画をかき乱されたら、君をベータテスターから外すつもりだった。はは……。でもね、とにかく、そうしてみたのは、よかったような、気がする。なぜだかは、うまく説明ができないけれど。こんなの、キャリアを目指すセオリーとしては間違っているんだから。君と過ごした高校生活みたいに。でも、俺は後悔はしてないんだ。君が助かる道を模索できて、よかったのかもな、って」
彼は自分自身に戸惑ってどう言葉にしたらいいのかわからないように、ただ口元にだけ微かな笑みを浮かべているような口調で、独白していた。
だが、律歌は、
「あの……勝手だけど……電卓」
彼の語っているその内容にまで、思考が回らない。
「少し、一人にしてもらえる……?」
律歌のその願いに、電卓はわずかに背を伸ばし、そして頷いた。
「そうしたほうがいい。俺はもう二度と君に会うことはしない。俺に関わったことは、もう一度きれいさっぱり忘れて、君は君を幸せにしてくれる人と、幸せに笑って生きる方がいいと思う」
そして次元の向こう側へと、消えていった。
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