2・蟻の冬

 添田は夜明けとともに登校して誰もいない空き教室に鞄を下ろした。十月になり、あたりはまだ薄暗く、自宅でやるより集中できる。チャイムが鳴るまで、二時間。今日は世界史の問題集を一時間、化学の問題集を一時間という配分だ。閉めたばかりの扉がガラッと開いたかと思えば、そこに末松律歌が立っていた。

「おはよ」

 挨拶をされても添田はぽかんとして見てしまう。なんでこんな時間こんなところにいるんだ。相変わらず突拍子もないことをする。

「よくここがわかったな、なんでここまで?」

「見ていたの。あなたのこと。あなたのやっていること全部やれば、嫌でも受かると思ったのよ。私って天才かしら。あなたの受験勉強はすごいわ! あなたって本当に無駄がないのね! 移動時間も、ご飯を食べている間も、トイレに行く時でさえ、あ、もしかして入っている間も? ずっと勉強しているのよね。徹底されていて、驚異的だった。これだったら間違いなく受かるって思った。ロボットの時もそうだった。あなたは結果を出す人だから。お願い、あなたのやり方を真似させて! 邪魔はしないから」

 興奮して声が上ずっている。

 律歌は、隣の席に座って世界史の問題集を起動した。

「私も同じ問題集を買ったわ!」

「それが、末松に合うやつだと、いいんだけど」

 律歌は「そうね」と頷くと、問題集を開きながら、さり気なく言った。

「それに、ロボット活動は引退したわ」

 「当然だね」と返す添田の脳裏に、ロボット制作をしていた日々が一瞬よぎった。色鮮やかに輝いた日常に、胸が切なくなった。もう今は受験生だ。目指す方向はまるで違う。青春の日々じゃない。結果のための日々だ。

 一時間くらいが経過した頃。「ああもう疲れたわ」と律歌は言うと、添田の肩をつつく。「少し休憩しない?」いい調子に問題を解いていたので、若干煩わしくはあったものの、添田は「少しなら」と頷いた。

「これどうぞ」

 律歌は小さな包みをそうっと開けて差し出してきた。

 え?

 添田は固まった。

 星型やら格子模様やらの……「これってまさか、手作りクッキーじゃないよね?」

「手作りよ」

 律歌は少し頬を赤らめてそう言った。

 聞き間違いじゃない。

 あんぐりと口が開く。

「手作りって時間かかるだろう?」

 自分には炒飯を作ったくらいしか経験がないが、それだって材料を買うところから調理、ボールやフライパンの洗い物、食器の洗い物まで、外食やカップ麺よりずっと時間がかかる。

「そうねぇ」

「こんなの作ってる場合じゃないんじゃないの」

 添田は焦ってきた。なんでそんなもの作ろうという発想になるんだ。受験生なのに! 黙っていると律歌は不満そうに唇を尖らせた。

「こんなの……って。いらないの?」

「……俺は勉強する」

「食べてくれないの!?」

 非難めいた色を帯びる。「じゃあもらっとく!!」添田はひったくるように受け取ると鞄に突っ込んだ。

「じゃ、勉強しよう!!」

 おざなりの受け渡しに律歌はふてくされたように「わかったわよ!」と言うと、諦めたように席に着いた。このままじゃ律歌が落ちる!! クッキーなんて焼いてる場合じゃないのに。ロボット開発者からパティシエに進路を変更したのか? クッキーを思い出すと、律歌が遠く遠く感じる。鞄の中のものを早く処分してしまいたい。食事の時にさっさと食べてしまおう。


 日が短くなって、まだ真っ暗な中、律歌はなんだかんだで一日も欠かさず早朝学習に来た。ハロウィンの日に律歌だけ妙な格好をしていたが、勉強はしていた。律歌がやかましすぎると油性マジックで×を書いたマスクをつけさせた。はいはいごめんなさいね、って渋々黙って勉強。二時間早く早朝に登校するというのは夜早くに寝るということだ。眠れなかったら睡眠が短くなるということだ。ちゃんと睡眠は取るように言っているのに、律歌はよく失敗して洗濯ばさみを頬に挟んでいた。やつれて目の下にはクマができていた。艶々だった髪も、

「髪がボサボサだな」

 添田は何の気なしにつぶやく。

「……っ! 女の子に向かって、いちいち言わなくていいわよ! うるさいわね。電卓だってそうじゃない!」

 添田はぽりぽりとこめかみを掻いた。

「たしかに」

 それから黙って問題を解き始める。

 と、思ったら、律歌は髪を掻きむしって何やらブツブツ言っている。

「電卓に髪がボサボサって言われたわ……っ。もう受験なんて嫌……! 時間がない中一生懸命ここまで来ているのに。それなのにそんなこと言うなんて、電卓は私のこと嫌いになったんでしょ!」

 添田はぽかんとして言った。

「なんでそうなるんだ?」

「なんでって……、ボサボサなんて言うからよ! 気になって勉強なんてできないわ」

「ボサボサだって勉強できる」

「またボサボサって言った!」

 む、と律歌は頬を膨らませる。

「ボサボサだっていいじゃないか!」

 身なりの問題で受験に落ちるなら問題だが、そこまでではない。髪まで手が回らないくらい一生懸命勉強している証拠だ。

「よくないわよ! 連呼して……もういい知らない! 美容院行ってくる!!」

 添田は両手で机を叩いた。

「なんでそんな時間の無駄なことばっかりするんだ! また勉強時間が減るじゃないか! 俺は末松とN大に行きたいのに! このままじゃ末松が落ちるだろ! もっとちゃんと勉強してくれよ! ボサボサでもくしゃくしゃでもツルツルでもいいから!」

 添田はそう言うと気を取り直して勉強を再開した。もう律歌が何か言っていても無視だ。そのうち律歌は静かになって、また勉強を始めたようだった。


 空が白んできて、チャイムが鳴る直前まで二人きりの無言の時間が続く。タブレット画面をタッチペンで押して問題を解いていく。持参の充電器はついに五個になっていた。

 時計の針が八時二十五分を指し、そろそろ教室を移動しないとなと思った頃だった。

「あああ!」

 律歌が素っ頓狂な声を上げた。

「古文の宿題忘れてた! 二時間目にある! まずいわ! もう……どうして早く気が付かなかったのかしら。今やれたのに……」

 ん?

「結構量多かったのよ。もう無理ね。諦めましょ。今からじゃ間に合わない」

「古文……?」

 そう言われてみると、自分も古文があったような……。

「わああああ!!」

 思い出した。

「どうしたの? もしかして」

「俺、古文一時間目だ!! 宿題、やってない!」

「あら。珍しい」

 添田は大慌てで古文のアイコンをタップする。

 間に合わない。だが、古文の先生は提出物にうるさく、成績も提出物の占める割合が大きかった。落とすわけにいくか!!

 添田は息もつかぬスピードで単語を調べて現代語訳を始めた。

「もう間に合わないわよ! 一時間目でしょう? あと三分でチャイム鳴るわよ」

 無言で、書きなぐるように入力しまくる。

「え……ええ……っ。ど、どうしようかしら、私……。先に自分の教室行こうかな……うーん」

「俺は死んでもやってから行く!!」

 タブレットから目を離さずに叫ぶ。

「わ、私も手伝うわ。同じ範囲でしょ。手分けしてやりましょ! 私は後ろからやってくから!」

 結局ホームルームに若干遅刻したものの、提出には間に合った。四分の一くらいは律歌が写させてくれた。あなたって本当にすごいのね、普通諦めるわよと、何度も言われた気がするが必死すぎてあまりよく覚えていない。とにかく間に合った。


 さらに一か月が経った頃、いつもの早朝学習で律歌が喜び勇んで駆け寄ってきた。

「やった! 合格判定がEからCになったわ!」

「そうか、最低ラインには立てたね」

 添田は頷くと、「じゃあ間違えた問題はどこだい?」と尋ねた。

「ええっと弱点は、理数系科目で……あと英語の長文と……」

 二人でタブレット画面を覗き込む。今後の方針を話し合うと、添田は漢字の練習に戻った。

「あら、漢字やってるの?」

「うん。苦手なんだよ。今まで捨ててたくらい」

「ふーん。あなたにもそういう分野あるのね」

「まあね。今週から朝の三十分は漢字やることにしたんだ。で、トイレに入った時、朝に間違えた字を三回壁に書く」

 律歌は不思議そうに言う。

「あなたは本当に勉強をずっとしているわ。どうやったらそこまでやれるの? 心底感心するわ。飽きたりしないの?」

 律歌はカチャカチャと何かを組み立てている。透明な丸い入れ物に柄を差し込んで――

「普通だよ。一生がかかってるんだから。N大に入ったら、好きなだけ遊べるし、望んだことを好きなだけ学べるし、国立なら尊敬される。そのためには今頑張らないと」

 組み立てたプラスチックのワイングラスを二つ並べている。

「勉強しない瞬間が少しでもあると不安になるよね。安心しないとトイレから出られないよ。はは」

「え」

「ところでそれはなんだい?」

「祝杯を――」

 目と目が合った。祝杯? 何の話だ? じーっと見合っていると、律歌は鞄から出しかけたシャンパンボトルをしまった。代わりにタブレットを取り出した。やっていることが信じられない。どうしてEからCになっただけで祝杯とかいう発想になるんだ。でもって、ワイングラスをわざわざ用意してくるってなんだ。その時間が無駄だとどうして気付かない?

「遊んでないわよ、遊んでない」

 律歌が先回りするように言って首を振っている。

「勉強、勉強!!!」

 添田は呆れとか苛立ちとか懇願とかを全部込めてそう口にした。

「わかってる……わよ」

 不承不承律歌も問題集に向かい、タブレットを操作する時間が続いた。

「はあ……。英語がなかなか伸びないの。点数が上がらない。やってるのに……」

 採点を終えたらしい律歌が悩むように頭を掻きむしっている。たしかに最近英語の問題集ばかり取り組んでいたな。

「単語はこれ一冊覚えた?」

「え?」

 添田がデジタル単語帳を取り出して見せると、律歌の上げた顔は引き攣っている。

「さすがに全部は……覚えていないけど」

「え!? 覚えていないのかい」

「えっ、えっと……う、うーん……覚えるわ!」

 明らかにそれが原因だろう。

「たしかに、単語がわかっているとわかっていないとでは、全然変わってきそう……」

「覚えたら点数上がるよ」

 律歌はデジタル単語帳を取り出して、操作をし始めた。あまりやっている姿を見かけなかったなと添田は思う。

「あと、ちゃんと音声も聴いてる?」

「うん……一応」

「ならよかった。ご飯食べてる間とか、受験に関係ない授業中に見たり聴いたりしたほうがいいよ。電子ではどうしても覚えられない時は実際に紙に書くのもいい。ちょっと高いけど防水のもあるんだよね。お風呂で壁に貼り付けて覚えたり」

「そんなのあるの?」

「風呂単っていうやつ」

「買ってみるわ」

「買うだけじゃなく、作って、覚えるんだよ」

「わかったわよ」

 くどいかもしれないと思ったが、これくらい言わないとやらない可能性がある。

「まあ……N大に受かるためよね」

 律歌はそう言ってデジタル単語帳をめくり始めた。


 添田について回って、律歌は成果を出すということがどういうことなのかがわかってきた気がしていた。添田はとても厳しかった。しかも本人に厳しくしているという自覚はないらしい。律歌が少し道を外れた時のきょとんとした顔やイライラした顔、そして無視する姿がそれを物語っていた。

 でも、ありがたかった。自分でも気が付かないうちに遊んでいることがある。それを真正面から指摘される度に、律歌は一つ一つ合格に本当に近づいているのを感じた。

「時間がもっとほしいよな。業後は学校の裏の公民館で勉強しないかい?」

「行くわ!」

 添田の提案に、二つ返事で律歌は答えた。

 どんどん食らいついていこう。

 そうすれば、私にだって合格できる。

 それからは授業が終わると裏手の公民館に移動してさらに勉強した。二十二時まで開いてるが、十八時を回るとさすがにおなかが減ってくる。

「そろそろ……お腹へったね」

 と律歌がちらりと添田を見ると、

「そうだよな」

 言いながら添田は画面を閉じてタブレットをしまい始める。律歌は受験生ということで、施設に帰っても手伝いなどは免除されている。そのため帰ると自分の部屋に直行するが、これからさらに一人で勉強が出来るとは思えない。まあ今日は朝からよくやった。よく眠れそうだ。

「おにぎりか何か買いに行こうか」

(!?)

 添田はまだやる気のようだ。

 それならばと、律歌は頷いて「行きましょう」と机を片す。

 だが添田はそれだけに留まらなかった。

「明日からはつなぎのための弁当を持ってくることにしよう。ちゃんとした夕飯は帰ってから家でとることとして、せっかく二十二時まで開いているんだ。それまでやれるように」

 明日からずっと、か。平静を装って律歌は頷いた。

「そうね。じゃあ私は明日もコンビニで何か買うことにするわ。施設だからさすがにお弁当は用意してもらえないし」

「わかった」

 律歌は内心、自分を誇らしく思った。

 私、本当によく頑張ってるな。

 宣言通り、電卓のことを真似して、ついていってる。なんて偉いのかしら。

 だがコンビニに向かう途中、自分の考えはまだまだ甘かったことを知らされる。

「家は夕飯と風呂と睡眠のためだけ。夕飯は十分、風呂は三十分、睡眠は六時間、行き帰り往復で一時間くらいか? 家にいるのは七時間半。それ以外はずっと勉強だね。まあ、夕飯とかお風呂の間もやるんだけど」

「お、お風呂が三十分なんて、女子には無理よ! 髪乾かすとかも結構時間かかるんだから」

「ああそうか。んー……君は三郷駅だっただろ。となると俺より十分早く帰れるはず。往復で二十分。この分があるけど、どうかな?」

「言われてみれば、そう、ね……」

 目眩がしてきた。

 細くため息をこぼす律歌の様子をどう勘違いしたのか、

「これじゃ勉強時間、足りないかい?」

 と添田は申し訳なさそうに尋ねてきた。

「いや……ううん! じゅうぶんよ。やりましょう! やりましょ!」


 朝から夜までずっと一緒にいる日々が続いた。律歌がぐずぐず泣き言を言っても、添田には全部スルーされる(か、イライラされる)ため、ちょっとしたことではいちいち言わなくなった。クッキーを焼いても喜んでくれないから作る気にならなくなったし、物理的時間が無さすぎて見た目がボロボロでも気にしなくなった。添田は少しでも頭が良くなるようにと弁当のおかずを全部煮干しにしてもらったらしく、そればかりを食べる様子にはさすがに閉口して律歌に真似はできなかったが、君がストレスになるなら煮干し作戦はやらない方がいいと言われて素直に従った。とにかく、N大合格という成果だけをちゃんと気にするようになった。というか、その話以外するなという空気があった。冬休みで、受験はいよいよ大詰めに入る中、合格祈願には行こうとする添田に驚きながらも律歌も同行したり、毎日公民館に集合して丸一日ずっと勉強したり、そんな風にして年は明け、大学入学共通テストが迫ってきた。

 

「数学のこの問題、何度やっても解けない……。電卓、ちょっと教えてくれないかしら……?」

 いつもの授業前の早朝学習、焦る気持ちをこらえながら律歌は添田に話しかけた。

「解説は読んだ?」

「読んだけどわからないの!」

 添田は「ちょっと待ってね……」と顔も上げず答えると、それから一時間弱問題を解き続けた。

(また無視か……忘れられてる)

 わかってはいたものの、孤独である。

「はあー……」

 律歌のため息に、添田がちらりとこちらを向く。そしてまた自分の作業に戻る。

「私、もうやれない。もうやれないわよ!」

 律歌は思わず叫んだ。また無視される。沈黙したまま数分が過ぎる。

「やらなかったら落ちるのは確実になるよ」

 答え合わせのタイミングで、添田がようやく口を開いた。

「でも、もう……」

「やるもやらないも自由だけど……」

「少しくらい慰めてよ……!」

 シャッシャッと赤ペンで丸を付けている。アナログなやり方だ。

「慰めてよって、言ってるじゃないのー!!!」

 また無視して採点をし続ける。

「いいわよもう落ちるわよもう、もう無理! 慰めてってば!」

 添田はイライラしたように机を叩いた。

「もう!! そんなこと言ってないで勉強してよ! 本当に落ちちゃうじゃないか! 俺は一緒にN大に行きたいのに!!」

「うう」

 私だって行きたい。

 わかってる。

 わかってる。

 わかってるけど、もう、しんどいわよ!

 添田が机を叩いた拍子にはらりはらりと床に落ちた答案用紙を拾い上げる。

 それは漢字の百問テスト問題集。見れば百問全問正解だった。しかも、一枚だけじゃない。二枚、三枚……その全てが百問全問正解だ。

「漢字は苦手じゃなかったの――?」

「苦手だよ」添田は椅子に座り直すと振り返りもせずに言う。「それがなんだい?」

 たしかに、努力は報われていく。


 こうして律歌は添田と共に名門N大学に合格した。

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