『雨の庭』第八章 高校時代 下
1・本気の戯言
文化祭も体育祭の横断幕も、しまいには合唱コンクールでさえ『ロボット』という曲になった。〇組はなんでもロボットを絡めては盛り上がって、それによってロボット研究会の知名度も増していき、他クラスや他学年からも入部希望者が増加した。律歌は誰でも受け入れて、ウキえもんを進化させた。新しいロボットを作りたがる者も出てきて、ロボット工作は学校の名物となりつつあった。添田にとってそれは奇跡的なことだった。誇れることだった。
秋は過ぎていき冬になり、学校祭の後参加したロボットオーディションの結果が学校宛に届いた。帰りの会で受け取った律歌がその場で開いた。結果は不採用だった。教室はひとたびしんとなり、クラスメート達は顔を見合わせている。律歌がしくしくと泣き出して、新谷が「頑張ったよ!」と声をかけて、拍手した。それに追従するように、温かな拍手に包まれた。添田も拍手した。不採用なのは残念だが、それより大切なものが手に入ったと思っていた。新谷の提案で、明日盛大にお疲れ会をやろうということになり、数多の候補の中からチェーンの焼き肉屋のあみにく亭に決まっていく間、律歌が寡黙にどこか遠いところを見ているのが気になった。
「とゆーわけで!」
「明日、あみにく亭な!」
「予定空けとけよー!」
「ウキえもん連れてく係はよろしくな!」
と口々に言い合って帰路につくクラスメート。律歌はその中には加わらず、背面電子黒板の前のウキえもんと対峙している。
「電卓」
震える声で律歌が呼びつける。自分を求められて、添田はどきっとした。
暗い雰囲気の律歌の隣で頭をなでたりしていた女子達が、その声で身を引くように、
「じゃあ……電卓くん、りっかちゃんをお願いできるかな?」
と、添田にバトンタッチ。
教室に残ったのは添田と律歌だけで、とても静かになった。
「ねえ電卓」と律歌は再び暗い顔で言う。「どうして、落ちたのかしら。なんで……」律歌はそれだけを絞り出すように口にすると、肩を震わせる。
添田はその質問に答えるべく、振り返って課題点を洗い出そうとした。そりゃ、まあ、いろいろあったさ。まず――
すると律歌は目の前のウキえもんを、
「こんなことになるなら、私の青春を、返してよ、ウキえもん!!!」
えっ、と添田の思考は停止した。
ウキえもんをひっくり返そうとしている。
律歌の両手が払われて、ウキえもんが傾いていく――それらがスローモーションに見える。
「す、末松!?」
反射的に駆け寄る。半ば下敷きになって受け止めようとした。
頭にガツンと何か固いものが当たる。痛みが到達するよりも先に、頭に当たった部位はどこだと目で確認する。ウキえもんの腕だ。俺の頭に当たったことで三十度ほど曲がった。腕ならいい。飾りだし、すぐ直せる。問題は脳みそと首と神経だ。落下時の衝撃をどう緩和するかを必死に計算して受け身を取る。右手でウキえもんの頭部を、左手で首の付け根を抑えて、そのまま床へと倒れ込む。この間、二秒もない出来事だ。どうしたんだ末松。こいつは俺らの青春のトロフィーじゃないのか!?
なんとか無事に……おそらくだが、なんとか無事に受け止めて、添田は慎重にウキえもんを床に立て直す。
「私は!! 青春を捨てて、ロボット研究に全部捧げたっていうのに!!! ウキえもんの顔なんて見たくないわ!!」
「いや!! ちょっと、待って!!」
添田の大きな声に、さらにショックを受けたような律歌の泣き顔。その顔にさらに混乱する。深呼吸をしてどうにか冷静になろうとした。言われたことを改めて考える。青春を、捨てて……?
「青春を捨てて、って、どういうこと?」
「ロボットで過労を消し去るっていう夢のために、高校の青春を捨てたってこと!」
「そ、そうかな? 青春だったと思うんだけど」
このウキえもんと、末松のおかげで、一生モノの本物の青春ができた。
「青春なんていらなかった! だって私は、ロボットで世界を変えなきゃいけないのに……! それこそが目的なのよ。始めた当初も、道半ばも、今だってそう! それ以外なんて何もいらない! 私は――私は悪魔に魂を売ってでも、この世から過労を消し去ってやるのよ!!!」
まくし立てるように言われ、添田は気圧された。
「仕方ないよ。そんな普通科高校で、受かるはずない。落ちるのは仕方ないさ。無理に決まっているんだから……そんなに落ち込むことはないよ」
なんとかして落ち着かせようと試みる。
「無理だとか言わないで! 私は本気でやるって言ってるし、今も思ってる!」
う。また怒らせてしまった。
「私は本気だった。一番初めから――ロボットオーディションの広告が表示されたのだって、私が常に情報を取りに行っていたからよ。ロボットで過労を消し去るための方法を。ロボットオーディションに受かれば、企業が技術とお金を投資して世に出回らせてくれるって広告を見て、これしかないって思ったの。それでクラスに訴えかけたりもした。実際に行動だってしてきた。それはあなたも見てたでしょう? 自分の力が足りない時は、その力を持っている人に助けを求めたりもしたわ。諦めたりなんて一回もしなかった」律歌の目には怒りの炎が揺らめいている。「無理じゃない。できると思ってる」
そう言われてみると――添田は言葉に詰まった。
そうか……本気だったんだ。たしかに、振り返ってみると、口を開けばロボットのことしか言わなかったしな……。不採用通知を見て泣いてたし……。
「なんで……なんで落ちたのよ」
本気だという律歌の疑問に、添田も本気で問題点を考えてみた。
「機械学習のサンプルが圧倒的に足りなかったんじゃないかなあ。あとは、電子工作も甘かったと思う。最後は時間に追われてテストも十分にできなかったしなあ。あと……」
律歌の顔が曇っていくのがわかった。あれ。まだ足りないのか。
「あとは、ドラえもんの映画なんて観てる場合じゃなったね。ロボットの資料って言ってたけど、ロボットの資料なら図書館にあるよ。それに、工学の基礎知識だって足りていなかった。人数だけ無駄に増えてって、肝心の工作がちっとも進まなくて……」
ちら、と律歌の顔をまた見る。怒ったような泣いたような顔をしていた。あ、あれ……?
「だから俺は君はただ青春がしたいのかと思ってた」
沈黙ののち、律歌は深いため息をつくと、少し考えるように腕を組んだ。
「それはその通りだったかもしれない。でも、青春がしたいというのは違うわ」
そうなのか。
本当の自分を存分にさらけ出して、その上でクラスの中心にまでなるなんて、羨ましいを通り越して、添田は尊敬していたけれど――末松律歌は誰よりも高い成果だけを望んでいたのかもしれない。
「言ってくれればよかったのよ。遊んでるって思ったらその時に」
「え……? 俺が、君に?」
「私は遊びたいわけじゃないもの」
「でも、遊びだしたのは、末松だろ? あと、全教科赤点で、夏休み補習ばっかりで……」
赤点リーダーなどと囃し立てられていた。その補習講義も、ぞろぞろと律歌の取り巻きが顔を出しては、差し入れだとか、ロボット工作の進捗報告だとかを、教室の廊下の窓から好き勝手に、無秩序に、楽しそうに、過ごしていた。
「普段からロボットを優先させてたんだからそうなっても仕方ないでしょ」
そんなことはない。
「いや、俺はプログラミングもやりながら成績は上位一割をキープしていたよ。プログラミングコンテストで入賞もしたことあるし。ウキえもんロボットを作るために、やったことなかったPythonだって新たに覚えたし」
「えっ!? Python元々知ってたんじゃなかったの?」
「全然」
それは……すごいわね、とまた律歌の顔が曇る。律歌を悲しませたいわけではないのだが、うまく伝わらないことに添田は慌てた。
「ロボットで過労のない世界を作るっていうなら、そもそもそんな成功する確率の低い手段に時間を費やすんじゃなくて、高校時代はひたすら勉強して、ロボット工学を学べるいい大学に入ることを目指すかな。そっちのほうがよっぽど効率的だし現実的だ」
「受験……?」
「N大の工学部とかね」
「私が?」
「そう」
律歌は想定外だというように目を丸くしている。
「私が、N大に入るの?」
添田は頷く。それが一番いいだろう。
「俺はN大を受けるよ」
「その方が、私の夢に近づける……?」
律歌はまた考え込む。
いいところを受験して、学びたいことを学びたいだけ学んで、影響力のある地位にでもなんでも就けばいい。どうせ受験はしなきゃいけないんだし、人生において限られた期間頑張るだけだ。
彼女もそれは一理あると考えたようだ。決意を込めた表情で頷くと言った。「いいわね……私やる!」
進級して三年生になると、高校生活最後の思い出作りの後はもうすっかり受験一色へと染まっていった。もちろん添田もだった。大学――大学院まで含めて――といえば最終学歴だ。一生ついて回る肩書だ。この武器を引っ提げて、就職試験、ひいては出世まで戦っていく。今や添田は朝起きてから登校するまでや、休み時間、重要度の低い授業中や問題を解き終わった後、移動中、食事時や入浴時、入眠時の僅かな隙間時間さえ、無駄にしないで受験勉強に励んでいた。
N大に入れば好きなプログラミングについて専門的に学ぶことができる。地元の有名な国立大学で設備は整っているし、尊敬もされる。就職にも有利だ。
(末松も、俺と同じN大を受けるって言ったし)
苦しいのは今だけだ。華やかなキャンパスライフを送るんだ。
「ねえねえ電卓! 電卓いる?」
ガラッと教室の扉が開き、その声に添田は顔を上げた。末松だ。添田は立ち上がると、デジタル単語帳をポケットに入れて近づく。
三年生になって律歌は違うクラスになった。工作室に協力者を集めてロボット工作に明け暮れていて、たまにこうして質問しに突撃してきたものだったが、さすがに夏休みの夏期講習が始まる前にはもう来なくなっていた。学年を飛び越えて、ロボット活動は広がりを見せているという。それ自体は素晴らしいが、三年生になった我々はそうもしていられない。
「どうしたの?」
律歌はにこっと微笑むと、
「ここ教えてくれないかしら? 後輩たちも困ってるのよ~」
「どれだい?」
添田は腕をまくって覗き込んだ。
そう言って律歌が見せてきたパソコン画面に表示されていたのは、教科書や問題集ではなくプログラミングコードだった。
「あれ?」
「え?」
難関のN大受験のために勉強しているんじゃないのか?
「受験勉強は?」
ああ、そんなこと? というような顔をして律歌は視線を逸らす。
「私の夢はロボットで日本を過労から救うことよ。そのためにはロボットのことから一秒でも離れていたらだめなのよ」
「N大を受験することはやめたの?」
「やめてはないけど……」
律歌は少し口を尖らせると、「でも、ロボットから離れることはできないわ」
「もう少し遊びたいってこと?」
「遊び? 違うわ」
「でも……どう見ても遊んでるよ。ロボットの開発者になることはやめたの?」
添田は無理やり笑みを作って尋ねた。
「やめてないわよ。このままロボット作りを続けていたら、そうしたらもう開発者よ?」
「そうだね。アマチュアの」
思わず嫌味が出た。
「……何が言いたいの?」
含みがあることを感じ取った律歌は、反対にじっと睨み据えて問い返してくる。
「夢見るのはここまでにしといた方がいいんじゃないの?」
「夢見てるんじゃなくて、本気で実現させようとしているわよ」
「本気じゃないじゃないか!」
添田はショックだった。真剣にしたアドバイスが全然響いていないことや、律歌が思った以上に遊び人であること。
「なんですって?」
「だって、君は何もしていない!」
その一言で律歌はカッと頭に血が上ったように叫んだ。
「違うわよ! いろいろとやってるの――」
「じゃあ何をやったんだい? 君は?」
「え……?」
添田は冷ややかに律歌の目を見据えて、問いかけた。
「言ってみて?」
律歌は口をつぐむ。そしてもごもごと「それは……普通科高校にして、ロボットの歴史的なオーディションに出たわ。今年だって出すつもりよ」
N大に行くって言いながら、正反対なことばかりしている。
俺は末松と一緒にN大に行きたいのに。
「一度でもなにか賞が獲れた? 夢に繋がるような、審査員の目に留まるようなことをやれた?」
「留まったと思うわ! もちろん繋がってる!」
「それじゃ、研究室に招待でもされたのか?」
「そういうのは……特には……されてないけど……」
「俺はされたことがある。経済産業省商務情報政策局長賞を取った時にN大の工学部通信工学の研究室に呼ばれて准教授と話した」
と言っても本当に話しただけだ。そのあと准教授の指示で研究室の学生にN大を案内されて、ここではこんなことが学べるとか大学の中を紹介されて、君はぜひ入学するといいよ、と言われた。もちろんそのことは面接試験のネタにするつもりだが、それ以外に何かのアドバンテージになるわけでもなさそうだった。
「君の何が、夢に繋がってるんだ?」
「それは……見てわかるでしょ」
「わかるわけないだろ、まるで繋がってないんだから」
つまり一番重要なのは受験なんだ。
「そんなのを繋がっているって言うなら、俺はもちろん、ロボット開発に繋がっているだけならオーディションに関与したクラスメート全員だって繋がっている。高専のやつらはもっと繋がっているだろうな。君だけが特別にどう繋がっているんだ?」
「でも……私は真剣で……」
律歌は口をつぐむ。
「真剣? 熱意があったとして、それでなにが変わる? 何を変えたことがある? 普通科高校として受験勉強をしているだけ他の生徒の方が君よりまだ日本を変えられる可能性は高いんじゃないのか?」
どうしてこんなことがわからないんだ。
「受験なんて、しようと思えばいつだってできるじゃない!」
考えが甘すぎる。
「じゃあもう一度聞こうか。君は受験もせずにロボットでどうやって日本を変えるつもりなんだ? 君は両親がいないんだろう。このご時世だから、施設から受験のための費用を援助してもらえると思うけど、それだって無限じゃないよね?」
「今年限りよ」
「そうだよな」
楽観的な律歌の絵空事にイライラして言葉が止まらない。
「今、どんなに一生懸命開発したって、素人の域を出られないと俺は思う。だからほら、まだ形になんてなっていないだろう? 学生のうちからそんな風に仕事にしていくのはごく一部の天才だけだ。ロボットオーディションは選外だし、末松は俺にさえプログラムの知識で負けている」
「うるさいっ」
「だ、だって!」
怒りの感情をぶつけられたが、しかし添田も止まらなかった。
「N大行くって言ったじゃないか! N大行けば、好きなだけ開発だってできるのに! また俺とプログラム書くことだってできるのにさ……。それよりも今の楽しいことを優先するんだって、そういう口だけの君を見てると腹が立つんだよ。資金も、資格も、知識も、経験もない学生のくせに。しかも受験生だ。施設からもせっかく受験の支援をしてもらえるのに、それを捨てて、少し先に確実にある絶好の環境も放り投げて、ないない尽くしのこの場所で今、素人がロボット開発に全部懸けるって、そんなのアホだって言ってんだ。いつだってできるだと? できるかよ。その時は今より環境も悪くなる。施設はもう受験の支援はしてくれないんだぞ。金も権利も経験も支援者も何もない高卒の身分で開発? 本当に今の世の中をわかった上で言ってんのか?」
世紀の格差社会と言われる今の世で? 人工知能のブレイクスルーを経て、人工知能の上に立ち機械と人を使役する者と、人工知能の下に自動的に派遣され消耗品のように働かされる者の間には、巨大な格差が生まれていた。
「その時に限界を感じたら今度は働きながら受験勉強するってことなんだよな? 出遅れた場所から、今より不利な環境で? 言い訳でもしながら? 俺はN大で研究してるかもしれないのに?」
律歌は添田を睨みつけている。癇に障ったらしい。だが添田は続けて言った。
「今、学生のプロにもなれないで、これから先、いったい何のプロになれるっていうんだ!」
「できる……かもしれない、じゃない! このまま独自に研究を続けて研究者になれる可能性だってゼロじゃないわ! 面接だって、活動がプラス要素になるかもしれないし! そしたら受験勉強なんてしなくったって――」
「ああたしかにそれで夢が叶っていく可能性はゼロではないよ」
俺だって使えるものは使うつもりだ。面接での武器は多い方がいい。でも、それだけで受かるだなんてさらさら思っていない。受験のメインは筆記試験での点数だ。
「あるさ、今から俺がバンド組んでメジャーデビューできる確率と同程度にはね。野球部に入ってプロ野球選手目指したっていい」
律歌は明確にイラっとした顔でこちらを見ている。
「資格は何を持ってる?」
「資格?」
「工学部受けるんだろ? 基本情報技術とか応用情報とか。ちなみに俺は応用の方持ってる」
基本情報技術者試験、応用情報技術者試験。どちらも工学部には有利な資格だ。応用の方がレベルが高い。
「持ってないわよ、何も」
「俺は英検二級、数検準一級も取ったぞ! 受験のために」
律歌は押し黙る。
「人生を棒に振る気か? 一生の問題なんだぞ? だから俺は今勉強しているんだ」
顔が真っ赤に染まっていた。
「あ、あなたには無駄に見えるかもしれないけど、私はこの開発に全てを懸けているのよ! 人生を棒に振る? 馬鹿言わないでよ。私は人生を、今まさに、賭けているの! いつだってそのつもりで生きてるのよ」
震えるような声で、小さく「わかるでしょ……私はいつだって、本気なのよ。たしかに結果は出てないわよ。でも、手を抜いているつもりはない。……これ以上どうしたら……いいのか、わかんないだけよ……」と。
「だから! 正攻法で研究者になればいいだろ」
「研究者……」
「N大の工学部に入れって最初から言ってるじゃないか!」
有名な地元の国立難関大学だ。
「そこにいけば、思う存分研究できるのに!」
それが答えだ。しかも、俺だっているのに!「ロボット開発者への道も開けるし、それに俺らは受験生だ」
「でも、私は……テストの成績だって捨ててきたわ……。それに本当は、理系科目って苦手なのよ」
「やらないうちから諦めるの?」
「そうじゃないわ」
「じゃあ今すべきことは?」
「工学……の、勉強を……」
その返事に添田は「ばか」とつぶやいた。
「受験、勉強だってば」
そう言われて律歌は思案顔になる。
「……工学を学びたいのに、工学を学んじゃいけない期間を作らなくちゃいけないなんて、おかしいと思わない?」
「思わない。受かってからいくらでも学べるから」
「ふーん……」
律歌は考えこむ。しばらく黙って、でも、決意を込めて上げた瞳には、らんとした光がともっていた。
「うん……そうね。あなたの……言う通りかもしれないわね。じゃあ、わかったわ! 私、受験頑張る! ちゃんとやってみようと思う!!」
十分の休み時間、添田は相も変わらずデジタル単語帳をタップしていた。発音を音声で確認しながら、念仏のようにぶつぶつ唱えつつ。
「電卓! 電卓! 電卓!」
添田が単語帳から目を離すと、目の前で腰に手を当てた律歌が呆れ顔で立っていた。
「もう! 十回も呼んでるんだけど」
「ごめんごめん」
十回も? 気が付かなかった。
「相変わらず本当にすごい集中力なのね」
隣のクラスからわざわざ来て、いったい何事だろう。もしロボットの相談なんかしてきたら、その時はもうそれで最後だ。
「全国模試の結果が出た! 一緒に見て!」
用件がロボットじゃなくてほっとした。
律歌は勝手に隣の席に座っておそるおそるタブレット画面をタップする。
「E判定……」
ぼそりとつぶやく律歌。第一志望N大学の合格可能性判定は最下位ランク。甘い戯言ばかり言っている律歌に容赦なく現実は突きつける。
「ああもう! なんでE判定なのよ……! なんなの、ムカつく! ムカつくムカつくムカつく! 私のこと、もっと評価するべきよ! 私はね、この日本の将来のことまで考えているのよ!? それを、E判定だなんて……。ふざけないでよね!! ねえっ、そう思わない!?」
勉強をサボっていたんだから当然の結果だろう、何を嘆いているんだと添田は思った。まあこれでさすがにちょっとは勉強するんだろう、とも。
「あ、でも今日はこれから、工作室でミーティングがあるんだわ。行かなきゃ~!」
「ええ!?」
驚きのあまり、カシャンと単語帳が落ちた。
「受験に集中するんじゃなかった……の?」
「だって……受験勉強中だって、活動はあるもの」
「それでどうやって集中するんだ? また口だけなのかい?」
「く、口だけじゃないわ……! ほらロボット開発をさせてくれる企業とか、そういう人脈につながるかもしれないし、そうしたらそもそも受験だって必要ないしっ」
律歌の受験に対する意識が、いや、人生設計が、甘すぎて甘すぎて、歯が溶けそうだ。
「ロボット開発? 君がやってるのはただのままごとじゃないか!」
「ままごと!? 何よそれ!」
「研究の人脈作りだなんて言ったけど……どうせ、そんなままごとに付き合うようなやつも、ままごとやってるような戯言人間なんじゃないか」
「ひどい言い方ね。そう言う電卓だってロボット研究会に参加してくれたじゃない!」
「そうだよ。あれは青春だったから――つまり趣味だ!」
趣味を趣味と思って参加しているならいい。悪いのは、やっていることは趣味なのに、自分はプロだと勘違いしているやつ。そういうやつは戯言人間だ。
「私は趣味じゃなかった。本気で研究者になりたいの」
「だったら! なんで勉強しないんだ!! 今のままじゃままごとだってのは一目瞭然だろ!」
「じゃ、じゃあ! どうしろって言うのよ! ロボット研究会だってあるのに!!」
「そうだね君にはロボット研究会があるもんね。せいぜい楽しんだらいいんじゃない。もうすぐドラえもんの新作映画も公開するってさ」
「ばかにしないでよ! 私は本気だって言ってるでしょう!」
「俺だって本気だ! 本気でばかだって言っているんだ!」
「本気でって……?」
「受験生にもなってロボット制作なんかやるなんて、遊んでるのと同じだ。もういいよ。N大には俺一人で行く。末松と一緒に行けたら楽しそうだな、なんて、俺も甘かった」
もう次の授業が始まる。貴重な休み時間を使ってしまった。ああ……デジタル単語帳が床に落ちてる……。添田は急いで拾い上げると、猛スピードでスワイプし始めた。
「ちょっと……! こっちを見てよ電卓!」
律歌がまだ何か言っている。
「た……たとえ、今いるみんなには失望されたとしても……? それでも……私には、私にはやらなくちゃならないことがある。私は両親を殺した今のこの国の制度を許さない」
添田は戯言は聞きたくないと、単語帳の音声を再生した。
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