2・ここでゆっくりのんびりしようね

 それは新しい技術として少し前から注目されていた。だが、そう言われてもすぐには信じられない。

「でも、違和感なんて何もない……わよ?」

 仮想空間で遊べるゲームを律歌もやったことはあったが、それはあくまでCGでできた創作物だと認識できるものだった。こんな、本物と見分けがつかないような質のものではなかったはず。

「原子レベルで3Dスキャンするなら技術的には可能だよ。本物を元に、そっくりそのまま再現しているだけだから。映画だって、フルCGだと変につやつやしていたり、ぬるぬる動いたり、制作側のクオリティに大きく左右されるけど、実写映画ならそういう違和感はあまりないだろう? 撮影だって基本的にはカメラを回すだけだし。それと一緒さ。絵画だって、プロがどんなにうまく描いても絵は絵だけど、写真なら誰が撮っても元の物を大体うまく再現できる。まあ、そんなイメージかな。スキャンしたオブジェクトを並べ直したり、微調整はされているはずだけど」

 北寺はそう説明すると、

「おれがⅠアイツーに派遣されて、添田さんに長いこと作らされていたプログラムはこれだったのか~ってね。一介の派遣には秘匿されていることだらけで。まあ、おれは結構調べていたんだけど――ほら、そうしないとおれ、仕事できない人間だから」

 たしかに前にそんなことを言っていた。ちなみにI通というのは、天下の一条グループICHIJO通信株式会社のことだ。

「あ~あ、いつの間にか、その作ったものの中に入れられているとは、まさか思いもよらなかった。灯台下暗しだ」

 北寺は息を吐きながら天を見上げる。かと思えば今度は視線を地に落とし、

「そうしたらいろいろと納得できる。ほら、どれだけ間近で見ても画質が下がったりしないだろう。素材も極めて自然で――ね、これは原子スキャニングで作られているから。原子レベルから情報が再構成されているんだ」

 足元に屈むと草に手を伸ばす。「りっかも、見て」律歌も同じようにしゃがみ、北寺の指さす方を注視する。そこには名もなき雑草が覆い茂っていて、北寺はその中から五、六本をむしると、ためつすがめつ、表裏、じっと目を凝らして確認し、それを何度か繰り返す。

「あっ。これ、ほら!」

 四つ葉のクローバーを見つけたかのようなはっとした声が上がる。その手には、そっくり同じ形に生えた野草が二本握られていた。まるで鏡映しのように、生え方も、葉の形も、まったく同じものだった。

「ね。コピーして作ってあるんだ」

「コピー……ってクローンみたいな?」

「まあ、そうだね。間違い探しをしても、この二本から違いは見つけられないだろうね。茎の内部を顕微鏡で覗いたとしても」

「これって、データってことなのよね? やっぱり信じられないわ。植物の湿り気とか、指先に感じるわよ?」

「スキャンの精度を原子レベルまで上げているからさ。でも、コピー&ペーストすれば情報量を軽くできるというわけ。この地面だって一か所だけ物質を原子判定して、それを広げていっただけの作りだと思うよ。全部スキャンしていたらすごい容量になっちゃうし、それで十分」

「添田……β版だとかぶつぶつ言ってたわ」

 律歌はグレー色の空間で添田に言われたわけのわからない内容を、なんとかひねり出すようにして思い出し、北寺に伝える。

「そうだよね。試験段階だと思う。バグ多いなあって。まあ放置しても今はとりあえず動けばいいやって感じなんだろうね」

「まさかラジコンを魔改造するとは思わなかったって」

 そう思うと、自分も例外的な行動をとった人物の一人なのかもしれない。

「うんうん。セキュリティホールを突かれて焦っただろうなあ、あはは。ま、違和感を持たれることだけはないよう、普通の感覚では気づかれないくらいのレベルにまでは時間をかけて修正が施されてる。というか俺も、いろいろなモジュールをね、かなり作らされたし。派遣先の添田さんに」

 北寺は暗く遠い目をして首を回した。ここに来る前の労働環境のことを思い出しているのだろうか。添田のことを、以前の派遣先の上司と同じ名前だと言っていた。どうやら、その上司本人なのだろう。派遣先で作らされていた――ということは、この仮想世界の作製に北寺も関わっているということ? 北寺は、いったいどれほどこの世界のことを知っているのだろうか。

「ねえ、どうしてこんな、何の説明もなしに私達を仮想世界の中に入れたままにしているの……? 元いた現実世界ではどうなっているのかしら? 騒ぎになっているのかな……」

 何か一大事件に巻き込まれているとか? ここに来た者たちは口を揃えて「いつの間にかここに迷い込んだ」という。これだけの人数が行方不明になっているのだとしたら、現実世界では物凄いニュースになっているはずだ。

「そこまでは想像つかないけど……」

 北寺はふーと深呼吸。

「さっ、て。次、どうしようか。おそらく、この中では何したって大丈夫だろう。もう危険なんてないも同然だ。だってここは仮想空間で、添田さんがきっとりっかのことを守ってくれるんだから」

 肩の荷を下ろしたように、でもどこか白けたように、北寺はまた天を見上げた。ここは現実世界ではない。いってみれば、夢の中にいるようなもの。だから、死ぬことはない。

「添田さんが守ってくれる? 私を?」

「うん」

 しかし、律歌はまったくそうは思えなかった。

「もう次は助けないってはっきり言われたわ」

「助けない……?」

 首をひねる北寺に、律歌はきっぱりと頷く。

「うん」

 そしてそれが真実だという確信があった。

「なんか、わかるの。あの人は禁忌に触れた人や邪魔者を、本当に消し去るんじゃないかなって。そっちに利があると思ったら、判断が早い」

 あの添田という人は、いつもここではないどこか先を見据えている。そして見事に結果を出す。リスクは徹底的に排除しようとする。そんな厳しさと計算高さを眼鏡の裏に感じたのだ。

「まあ、ただの直感。理由はないわ」

「なるほどね……そうかもしれない。あの人は」

 北寺は、納得し感心したように、同意する。

「実はりっかも、記憶をなくす前は添田さんと知り合いだったんだよ」

「えっ」

 添田と自分が知り合い?

「だからね、そういう直感とか思ったことは、自信持って、教えてくれればいい。何かのヒントになるかもしれない」

 律歌は、あの奇妙な空間で、添田に敬語なしで親し気に呼びかけられたことを思い出した。自分の記憶がなくなる前、交流のあった人だったのか。

 律歌が記憶をなくす前、北寺と自分は同じ職場で働いていたという。そして謎の通販サービスのオペレーターの添田のことも、北寺は派遣先の上司と同じ名前だと言っていた。律歌と添田が知り合いというのは、それじゃあ職場で繋がっているのだろうか? 職場――つまり大手企業のICHIJO通信株式会社、通称Ⅰアイツーで?

 ここが仮想空間の中なら、実際の肉体はどこかに安置してあって、栄養補給などといった生命維持まで施されていることになる。そこまで大掛かりなことをするには、何か大きな力が働かなくては無理だ。I通が企業ぐるみで何かの実験をしている、というのなら納得できる。

「今おれたちが仮想空間だと気づいてしまったことも、添田さんにはバレてるのかな? どうだろう。どれくらい監視されているのか……念の為、気球も風呂場で作ったんだけど」

「どうなのかしら……」

「実はさ、最悪どうにかなるかなと思ったから、気球もやってみたんだ。ここが仮想空間なら、どうせ死にはしないと思って」

 少し困ったように、北寺は打ち明けた。

「じゃなきゃ……ロープを切ったりとか、あんな危険な真似、おれは協力しなかった」

 北寺にいくら反対されようと、律歌は一人でもどの道やるつもりであったが、でも、ここが夢の中のようなものなら、誰だって少しくらい無謀なこともしてみたくなるのかもしれない。

 律歌は北寺にさらに尋ねるべきか迷っていた。自分の過去をどこまで知っているのか、どうして黙っていたのか、ということを。すぐに問いかけられないのは、そんな風に隠されるような自分の過去への、不安からだ。

(私って、どうしてここにいるんだろう――。何を、忘れているんだろう)

「でも、律歌が空の果てまで飛んでいって、それで……いなくなっちゃって……、もしかしてもうここには二度と戻ってこないのかも、って、そう思ったら、おれ怖くなってさ。さっきまで森の中で一人彷徨いながらね、かなり後悔したんだよ。ここが仮想空間だろうと異世界だろうとどこだろうと、そんなのもうどうでもいい、戻ってきてください、って」

 そうして北寺は律歌の傍ににじり寄る。

「りっか、もう、いなくなったり、しないで……頼むから……」

 抱きしめられた。抱きしめられるというより、縋りつかれるかのようだった。

「ここでゆっくりのんびりしようね……。ここは、快適だし。ね? 極楽極楽……」

 北寺の腕の中は、温かい。ぽかぽかに温かな温泉のようで、居心地がいい。

 このまま、「何か」も忘れたまま、ここにいるのだって幸せかもしれない。

 北寺の腕の中で、添田の顔を思い出した。惚けたように笑っていた、親し気なその理由を、自分は知らない。あの人は誰なんだろう。ここは何なのだろう。私は何をしたのだろう。どうしてここにいるんだろう。絶対に何か理由がある。

 寒い岩場に上がるような思いで、律歌は顔を上げて問いかけた。

「北寺さんは、ずっと、ここにいるつもり……?」

 北寺は一瞬口を閉ざし、

「りっかは、嫌?」

 静かに、そう聞いてきた。律歌は身じろぎして、腕を解いた。首元から入ってくるのは、ぬるく穏やかな風で、わき腹を通って抜けていく。自分を取り囲むこのすべてが、肉体に与えられる電子情報に過ぎなくて、本物の肉体はどこかでただ寝そべっているだけで、でも穏やかな世界がここに確かにある。

 私は嫌なのだろうか。

 普通に生きるなら何不自由なく楽にいられる。北寺も傍にいてくれる。現実世界だって所詮は意識が形作っている。だったら仮想世界で生きるのだって同じじゃないか。働く必要のない、欲しいものも手に入る、現実世界よりもずっとよりよく加工された世界。そんな世界に、不満はある?

「家に帰ろう。りっかの好きなものを作ってあげるから。何がいい? 何でも言ってね」

「……うん」

 足元の石ころや木の根に何度か躓きながら、山の景色を呆然と眺めながら黙々と歩いた。人はおらず、何もかもから切り離されたようにしんとしていた。八月三十一日を過ぎて夏休みが終わってもまだ、気づかないふりをしてハイキングをしているように、心に重くるしく気がかりな感触だけがあった。温かなここにこのままずっといられたらその間は幸せかもしれないけど、その先は? 悪寒に襲われたとき、求めるべき光も見失って、そこまでの距離さえわからないままで、私は後悔せずいられるだろうか。

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