2・ここを気に入らないわけ、ないんじゃない?

「眠い……今日のごはんなにー……?」

「ん、何って、難しいわね。いろいろよ。ほうれん草のおひたしでしょ、小鉢はーあっイクラね! エビとイクラとアボカド和え、高野豆腐と、焼き魚と、赤かぶのお漬物、それからおみそ汁とー、あと白米~っ。あちちっ、あふ、炊き立てに間に合ったわね!」

「ふあ~あ。ああ、まだ暗いな……農家の朝ってこんな感じなのかな……」

「農家ねえ……」

 そんなのがいたらの話だが。

 律歌は炊き立て白米を咀嚼しながら、これはいったい誰が作ったのだろうかと思いをはせた。

 そしてここはどこなの? と。

 席に着いて「いただきます」と箸を取る北寺。彼も少し前、仕事を早退した帰りに、昼下がりの街をふらふらと歩いていたところ、ここに自然とたどり着いたという。

 この辺りに住むほかの住人も同じようなものだ。

“迷い込んできた ”

 全員口をそろえてそう言う。最近でも、迷い込んでくる人が時々現れる。ふと思い出して律歌は聞いた。

「ねえ、こないだのあの新しい人、どうなったかな?」

「ん~……? ああ、野口さん? なんかね、青山さんのお隣に住むことにしたみたいだよ」

 北寺がアボカドを飲み込んで答える。

 三日前にも新しく迷い込んできた人がいたらしく、ここから徒歩二十分ほど離れたところに住む青山さんがいろいろ世話を焼いてやったという。

「ふーん……。ここ、気に入るといいけどね。あの人、泣いてたから」

 ここにやって来た人の反応は様々だが、流れはだいたい決まっている。道に迷っていることに気が付いてスマートフォンのマップアプリで位置を確認しようとするが接続されず、電話もネットも通じなくなったところで本格的に焦り始め、コンビニや交番を探し回る。でも、行けども行けども、それらしい店や施設はどこにもなく、そのうちに日が暮れてきて、途方に暮れて、恐る恐る知らない民家に立ち入って、事情を話して泊めてもらおうとする。またはどこかで野宿を始める。大抵は一日経たずして、ここに住む誰かが気付いて声をかける。ああ、新しい人がやってきたんだ、手引きしてあげようか、と。土地がだだっ広いだけの狭い世界だ、ここに住む者は皆顔見知り。この場所を知った上で来た者はかつて誰もいない。初めてここにたどり着いた人に対して、笑顔で優しく迎え入れてやるのだ。「ここには、怖いものは、何もないですよ」と。

「気に入るさ」北寺は律歌に言った。「ここを気に入らないわけ、ないんじゃない」

「どうしてそんなことが言えるの?」律歌は少し反発心を覚えて言った。

「だって、まあ、ね?」

 新しい人には、今日からここに住むように優しく諭す。もちろん、迷い込んできた人にだってこれまで生きてきて手に入れた居場所や、住み慣れた暮らしがあるのだから、初めはなかなか受け入れられない。パニックになる相手には強制せず、その代わり、唯一通じるウェブサイトを教えてやる。

天蔵アマゾウの通販サービスを知っちゃったら、さ。ここにずっといたいと思うのも無理はないだろう?」

 それが通販サイト「天蔵アマゾウ」。

 必要なものはそこで入手できるぞ、と。

 それこそが、ここに既に定住している者の、切り札だ。

 ――だって、全て無料。送料無料なんて話ではない。商品代金自体が無料なのだ。

 食料も、生活用品も、家電も、新型ゲーム機も全部だ。通販で買える、ありとあらゆるものが。それこそ、家まで。この家もそうやって北寺が購入を代行してくれた。さすがに家は一人一軒みたいだけど、価格は土地代含めて0円だ。

 まったく、信じられない話だ。これが成立する仕組みがわからない。

 みんな日本語を話しているからここは日本なのだろうが、日本はお金で経済が回っていなきゃおかしい。資本主義というのはつまりそういうことだったはずだ。いやむしろ「みんなで分け合いましょう」の共産主義であっても、誰も生産を行っていなければ、たとえばこの弁当だって存在しないはずなのに。律歌は思う。生産者は誰なのであろうか? と。何も考えずに衣食住を満たされることを、何も疑問を持たずに当たり前に受け取るには、やはり抵抗があった。

 ――私はどこから来たの?

 律歌がここに来たときだけは、少し事情が違ったらしい。精神が憔悴しきって放心状態だったそうだ。北寺が世話を焼いてくれなかったらどうなっていたのかわからない。でも今ではその記憶はすっかり抜け落ちていた。……自分のことは、ここに来た日を含め、ここではないどこかに住んでいた過去も、よく覚えていないのだ。中学や高校で習ったことや、言葉や、歯を磨くなど当たり前にやってきたことは覚えているが、誰かと住んでいたのか、一人で暮らしていたのかはわからない。大学を卒業して就職して働いていたことまでは断片的に覚えているが、具体的になんの勉強をしていたのかとか、どんな仕事をしていたのかとか、そういう、今に近い過去はまるで思い出すことができない。ここにどうやってたどり着いたかを知る者はいないが、記憶が大きく抜け落ちている者はどうやら律歌だけのようだった。

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