3・ここはどこなのか、それを知りたいわ。
「で、今日はどうするの? りっか」
鮭の大きな骨を取り除きながら、北寺が律歌の方を見る。
「うん」
律歌は箸を置いた。
「とにかく、行けるところまで行ってみたいの。ここはどこなのか、それを知りたいわ。だからまっすぐ行きたい。行って戻ってくるだけでも何か変わる気がする。できれば、こことは違う面から場所を確かめたい。まあ、どっちに行ったらいいのかさえわからないけど……でもとにかく歩きださなきゃ何も始まらないでしょう」
「ふむ」
もぐもぐと咀嚼しながら、北寺は宙を見上げて何事かを考えている。「じゃあ北に向かおう」
「北ね!」
律歌は北寺を見つめた。
「いいけど、どうして?」
「そりゃあ、おれが北寺だからねっ!」
小首を傾げてウインクを寄越される。
「なーんだ。ま、別にいいけど」律歌はため息をついて、食事を再開。口の中でイクラをぷちっと潰す。
「うそうそ。ちゃんと理由はあるよ」
北寺はそう言うと、両手で一度丸い輪っかを作って、頂点を示す。
「ここが地球なら、北には北極点があって、そこを目指していると思えばまっすぐ歩くためのゆるぎない目印になるし、それにもうすぐ朝日が昇るでしょう。一日かけて歩くなら、一日中、景色が見やすい方がいい。日を背後にし続ければ、方角もわかりやすいしね」
「ふーん!」
律歌は思わず立ち上がった。「じゃあ北ね!」
あと少し食事が残っていた。律歌は行儀悪く立ったまま残りを口に放り込み、「ごちそうさま!」と下膳する。
「北ってどうやったらわかるの? 方位磁針とかある?」
「あるよ。買ってある」
食事を終えた北寺が身支度を整えていく。奥の和室からリュックサックを持ってくると、そこには紐で括りつけられた方位磁針がぶらさがっていた。磁石の針が丸い透明ケースの中で揺れている。
「さっすがー! ていうか、いつの間にそんなの買っていたの?」
さらに北寺の格好をよく見ると、スポーツウェアに着替えていた。薄手で軽そうで、原色の黄緑色が眩しい。
「まあ、丸一日かけて走るんだから、それなりに準備はしたさ。むしろりっか、その格好で大丈夫?」
「うぅ……まずかった……?」
律歌はというと、ブラウスにキュロット。クローゼットを開けて十秒で決めた普段着だ。
「やれやれ、ドライブじゃないんだからね~、りっか~?」
「はああ……車……があれば便利なのに」
人というのはどれほど人力で移動できるのだろう。想像もつかない。
「でもま、その代わり自転車って言ってもマウンテンバイクの最高級品を買ったから! ママチャリとは違うよ!」
「……ふーん……?」
北寺は準備体操までして、どこか清々しく楽しそうだ。
「サスペンションがあれば、多少荒れた道に出てもなんとかなるかなって。って、あー、りっか乗れるかな。ちょっと練習する?」
もうすっかり眠気も覚めたらしく、北寺は玄関に置かれていた巨大な段ボール箱に手をかける。側面にある点線部を引っ張って開けると、中には自転車があった。
「練習しないと乗れないようなものなの? 自転車でしょ?」
なんだかタイヤが太いみたいだけど。
「まあーりっかは初心者だから、ビンディングペダルにはしてないけどさ」
「何……? よくわからないわ。あっ、なにこれ、スタンドがないじゃない。これじゃ倒れちゃうわ。せっかくタダならもっと便利なのにすればよかったのに」
「いやいや、わざと付けてないんだよ重くなるから」
「なんでもいいけど、こんなのでどこまで行けるのかしら」
昨日遅くまで天蔵サイトを開いて北寺がいろいろ自転車関連のものを発注してくれていたけど、バネやらペダルやらカスタマイズまでしてくれていたらしい。
「ちなみに普通に買おうと思ったらこれ、二百万するよ」
「はあ!? だってこれ、ただの自転車でしょ!?」
「最高級なんだってば! 有名なブランドなんだよ」
有名な自転車のブランド……そんな定価で商売が成立するとは驚きだ。タダでなければ触れる機会もなかっただろう。それだけのお金があったら、同じ移動手段ならば自分は素直に車を買う。軽自動車でいいから。
しかし、ここには車だけは売っていないのだ。
「さあて、……と」
玄関から外へ、一歩出る。燃えるような朝日が、辺りを黄金色に染め上げていた。慣れない自転車にこわごわまたがって、少し足でペダルを踏んでみる。おお、これはなかなか軽やかに車輪が回る。だが何百万円だろうと自転車は自転車で、漕がないと進まないけれど。
「さあ行くわよ!」
その金色の中に、律歌は一気に車輪を転がした。北寺が後から続く。二人は連なって、無限にも感じる野原を走り始めた。
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