『雨の庭』第二章 まずは行けるところまで
1・二百万円の高級マウンテンバイクに乗って。
輝きだした朝日、青い影を濃くする雲と山を背に、涼しい風と共に走り抜ける。田舎道はところどころ舗装がされていなかった。それでもこの高級マウンテンバイクは抵抗を最小限にとどめてくれ、まるで自分の肉体の延長のようにスムーズに車輪を動かすことができた。
冷たい空気を、鳥の鳴く声が震わせる。遠く、何かの鳥の群れが横に広がるように連なって飛んでいた。
あの鳥とともに移動している。
彼らは空を、私達は地を。
「ふうー!」
律歌の声にちらと振り返った北寺が、口端をにっと上げる。そうして二人連なって草原を走り続ける。風が体の中を通って抜けていった。
どれくらい走っただろう。
「りっかー!」
自分の呼吸と呼吸の間、かすかに声が聞こえた。額を伝う汗が前髪を張り付ける。北寺が米粒のように、はるか前方の遠くに見えた。
もう……足に力が入らない。
北寺は片足をついて、こちらを振り返りながら待っている。徐々に差が開いていき、ついにはここまで離されてしまった。
(なんなの……あの……遠さ……)
嫌気がぶあっと襲ってくる。
北寺においていかれたことにいじけたような気分――だが遅いことを気遣われてゆっくりゆっくり並走されてもそれはそれで癪な気分になるかもしれない。ついていけない自分に腹立たしいような気持ちもあるし、じゃああとどれくらい走らないと追いつけないのかというため息もあふれてくる。
ああ……つまりは疲れたのだ。
日差しの下、律歌はついに足をついた。そして自転車が倒れるのも気に留めず、自分もその地に横たわった。
「りーっかーっ」
また声が聞こえるが、
「きー……北寺さんが……来いー……」
八つ当たりまじりにそんなことをぼやきながら地面にごろんと寝そべる。後頭部、髪の間に砂利を感じるのもいっそ気分がいい。
ふうーっと息を吐きながら天を見上げた。
空は高さの概念すらないほど高く、真っ青に澄み切って明るかった。森に覆われた山が周囲を囲っていた。雁がまた飛んでいる。
大きな風が腹を撫でていった。汗が冷えていく。
追いつくだとか、あとどれくらい走るだとかいった自分の負けず嫌いな感情がばかばかしくなってきた。走りたいときに走って、寝っ転がりたいときに寝っ転がって。それでいいじゃない。
自転車をキロキロと引きながらこっちに向かって歩いてくる足音がした。
「りっか、もう、どうしたの。大丈夫?」
北寺が視界に入り、日を遮る。推し量りかねているように戸惑うその顔に、律歌はからっと笑ってみせた。空に向かって言う。「こうしたくなっただけ」
北寺は、自転車を倒さぬよう器用に体で支えながら律歌の横に腰を下ろす。そしてそのままリュックからペットボトルを取り出し、スポーツドリンクをごくごく飲み始めた。北寺の存在を感じながら、律歌はつぶやいた。
「ここにずっといたっていいんだよね――」
北寺は「うん」とペットボトルを差し出してくれる。律歌は半身を起こし、受け取って飲んだ。しょっぱくて甘かった。キャップを閉めて、返す。
ずっとここにいたっていい。
律歌は立ち上がった。
「いこっか」
「うん」
北寺も立ち上がると、投げ出されたようにして倒れている律歌の自転車を、空いている方の手で起こす。それぞれサドルにまたがって、地面を蹴る。
ずいぶん高く日が昇ったような気がした。だが、まだまだ午前中だ。通常ならようやく一日の活動を開始するくらいの時間帯。朝の部活動が終わって始業のベルが鳴り始めるころの感覚に似ていた。
景色を見ながら流すように走っていく。辺りは何も植えられていない田んぼだらけ。本当にここはどこなのだろう。
そういえば学生の頃、何の部活動に入っていたのだったか――思い出そうとしても、もやがかかったようにぼんやりとして、まとまらない。少なくとも何かやっていたような気がする。大学、そして就職にまで繋がっていくような、何かを――……。
(思い出せないなあ……)
そこそこのところでやめておく。思い出そうとするたび、封じられた記憶に触れるたび、なんだか今にも天地がひっくり返りそうな、不安定な気分になった。心臓がどくどくと脈打つのを感じる。不安がこみあげてきて、息が切れる。まずい、と律歌は景色を眺め、気持ちを落ち着かせた。大丈夫。ずっとここにいたっていいんだ。ここで生きていたっていいんだ。だから、忘れてしまえ。
やはり、自分には記憶が部分的に欠けているのだなと思い知る。本来なら大きなハンデのはずだ。みな等しく新しい場所で新しい生活を始めるこの状況だからこそ、そのことに特段不便を感じずにいられるけれど、本来は病院で治療すべき記憶障害なのだろう。元いた場所に戻ったら、どれくらい苦労するのだろうか。少なくともこうして日の下、のどかな田舎道を北寺と二人で、ひたすら自転車を漕いではいられないだろう。
これから、どこに行こうというのだ。わからないまま、律歌は前だけを向いてペダルを踏み続けた。
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