6・ひどく純度の高いきれいごと

「試験だとか、授業だとかさ、社会ってのは、どこかむなしくて……そうしている間、生きている意味がわからなくなっちゃうんだ」

 言っていることは、律歌もわからないことではない。

「そう思うとき、わたしにもあるわ」

 どちらかというと、律歌もそういうタイプだった。テストのための勉強をするのは嫌いだった。自分にとって目の前に置かれた情報が必要なもの、有益なものだと思って、それを動機として勉強していたいと思っていた。成績のためのテスト勉強や、資格取得のため、就職と進学のための受験勉強なんてのは嫌いだった。好奇心に従い行動した結果として自然と進学先や就職先がついてきてほしい。でも、それはきれいごとで、集団で生きている以上は結果のみを争うことは往々にしてあり、そんな風に遊ぶようにして暮らしていては生きていけないのだと、もうわかっている自分もいる。

「あるよね。でも、重症かどうかの違いだと思う」

 律歌の逡巡を察したのか、北寺が説明を付け加える。

「たとえば悲しい気分になったりふさぎ込んだりするって、誰にでもあることだと思うんだけど、うつ病ともなると、生きていけないほどだっていうだろう? それの、社会性バージョンみたいなものなんだと思う」

 言っていることは嘘でも誇張でもないだろう。ただ自分の想像を超えている、と律歌は思った。

「……頑張ったことも、あったんだ。輪の中でね。でも、おれには合わなくて」

 弱々しく、うめくように彼は続けた。

「実は中学も高校も通ってはいないんだ」

「えっ?」

「高認っていう大学を受験するための資格だけとって、N大には自力で入学したんだよ。で、中退だから学歴上はおれ中卒……あれ? 中卒って言っていいのか? 小卒?」

 重症というだけの真実味、甘えているだけではない葛藤が律歌にもわかってくる。

「ああやってみんなで同じ範囲を同じペースで、課題提出とかテストの点数のために勉強するのが、おれにはどうにも――無意味に思えて、やる気が出なくてね。それはもう、我慢ならなくなるほどに。潔癖症なのかな、あはは」

 世の中には、そんな人がいるんだ、と驚く。

「はみ出しても、生きていければ、それでいいやって、そう思うことにした。そうしたら生きていられた。テストの点数や、卒業証書なんかのために、生きるのをやめたくなるなんて、そっちのほうが本末転倒だろう?」

 ひどく純度の高いきれいごと。

「死ぬよりは、卒業せずに退学する方がマシだった。それだけの話だよ」

 それはつまり、本物の美しさだ。

「でも……そう。今の時代は、雇用身分社会。そこでおれの身分は一生こき使われる身分に確定した」

 北寺は手慣れてきて、ネジを回す動作に無駄がなくなっていく。口調は軽いがその瞳は暗い。

「りっかと同じ職場になるまでは、集団でバスに乗せられて毎日のように違う場所に連れてかれて、違う仕事を与えられて生きてたね。ドナドナ~ってさ」

 まるで機械のように、淡々と虚ろに回していく。

「何も知らないまま雇われて、行き先も知らずにバスに乗るだろ?」

「うん」

「何も知らないまま作業して、よく知らない人から現金受け取って、何も知らないまま帰る」

「へえ……」

「おれみたいなやつにとっては、よくある光景さ」

「そうなの……?」

「りっかは知らない世界だと思う」

 自嘲気味に言う北寺を、もう茶化すことはできなかった。律歌は意味を少し考えて、注意深く聞き返す。

「それは、私の高校卒業してからの記憶が、ないからかしら?」

「あったとしても――だよ。りっかはすごく大きな会社の正社員だったから」

「そうみたいね」

 それは落ち着いたころに北寺から聞いた。聞いた時は嬉しかったのを覚えている。自分はどうやらとても難しい試験をクリアしたんだとわかったから――しかし記憶が戻ったとしても、その場所にはもう戻れないのだろう。

「でも、私もこんな場所にいるのよね」

 ひどい経歴の北寺――だが、律歌だってここにこうしている。しかも、記憶もなくして。自分はそのことを悲しむべきなのだろうか。記憶がない今は、正直わからない。

「記憶をなくすほどの――なにか、とんでもなくひどいことが、あったのかしらね。私」

「……今は、考えたって仕方ないさ」

「そうね」

 ま、もったいないとか、怖いという気持ちもないのが、今は逆にありがたい。すべてはとうに失くしたものであり、何もない状態――これまでの記憶さえない状態でここにこうしているわけなのだ。

「北寺さんの話の続き、聞きたいわ」

 促され、北寺は天蔵の段ボール箱からバッテリーを取り出して繋げながら続ける。

「まあ、きついと言えばきつかったな。時間の流れがあまりにも遅くってさ。単純労働で、やってること自体はつまらないし。みんな、早く終わんないかなーって思いながら一日を送るんだよ。まあ仕事だから、逃げ出すわけにもいかないし。いや、逃げ出すことも時々あったけど……。でも、ここでやっていけなかったらもう終わりだって思ってたから、無理やりやってたよ。うん。おれなりのやり方でね。たとえば医療機器に組み込まれる部品の一部を作っているところに派遣されたとするじゃん? そしたらこの部品は全体の構造のどの位置のものなのだろう? とか、そもそも全体の構造はどうなっているんだろう? とか、はたまたそれを使ってどんな医療が行われるのかとか、人体、医学に至るまで、仕組みから何から、疑問を見つけてはその答えを探したり、自分で考えたり、質問してみたり……。原理原則を知るまで、おれって一歩も動けないから、そうやってどうにかこうにか乗り越えて働いていたかな。いやはや、使用者にしてみればなかなか面倒な労働者だっただろうね、おれは。ブラックボックス化されていることも多いしさ。おまえはそんなこと考えなくてもいいんだって何度言われたか忘れたよ。専門家より詳しくなるころに、契約終了でサヨナラ。周囲に迷惑だけかけて、まったく、役に立つ日がないよ。はは。場所が変われば、それをまた繰り返すしさ。似たような分野ならまだ応用がきくからいいんだけど、異分野だと本当に一からやるからね」

 話しながらも、北寺はぐるぐるとテープでしっかり留める手を休めたりはしなくて、律歌は手伝わずに横にくっついているだけの自分がなんだか申し訳なくなってくる。でも何をやったらいいのかわからない。

「ふーん……。派遣会社って、そういう事情を考えてくれるものなの?」

「考えてくれない」

「どーして」

「頭数揃えて売り買いされるだけの、超安値の単純労働力だからさ。その代わり、履歴書も何もいらないんだ。おれみたいな経歴でも不問ってわけ。昔は熟練の職人が必要な業種も、今じゃ大抵のものは機械化されているからさ。オペレーター業務って単純労働みたいなもので、人間であれば慣れてない人でも誰でもいいんだよ。人工知能に指示されたとおりに与えられた仕事をこなすだけの存在さ。でも、手っ取り早く人を集めたい時とか、使いたいときだけ使いたい時とか、使われる側だって、手っ取り早く働きたい時にはありがたいんだ。生きていかなきゃいけないからね、こんなおれも」

 北寺を役に立たない人のように感じたことなんて律歌にはひと時もなかった。しかし、本人は卑下するわけでもなく、今までずっと雇用者に迷惑をかけながら生きてきた、と話すのだ。

「だから、りっかがここでおれの経験を頼りにしてくれて、嬉しいんだ。なんだかすごく、報われる気分」

「私は尊敬しているわ」

「ありがと」

 北寺は嬉しそうに微笑んだ。律歌はその様子をじっと見ていた。

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